⑧内政

   【第一次軍制改革】


 このメスタエ戦役の後、デスフォート帝は文輪の軍制の改革に着手する。文輪という帝国はまだ創造されて一年ほどしか経たない。そのため、この軍制改革は時代変化によるものではなかった。この軍制改革は天才の主導した文輪から常人の手に渡った文輪との差であった。

 デスフォート自身はこの改革について、なんら感情的なものを書き残していないためにその心境を追う事はできない。それでも、個々の資料を巡る事で、近付く事までは可能である。少なくとも、彼が無用な出血を嫌い、効率よく戦闘に勝利できる条件を整えるための改革となった。

 それで、実際の改革の内容を述べていくこととなるのだが、デスフォート帝の改革は二本の筋に分かれている。その片方は能力別の兵科の設置であり、もう片方は徹底した能力の平均化である。

 まず、能力別の兵科の設置についてであるが、この当時の文輪が保持していた兵科は歩兵と機動兵の二種類だけであった。それも、歩兵はその様態が整備されていたにもかかわらず、機動兵の方は水上が活用しただけのものとなってしまっていた。そこで、デスフォート帝はこれを補強し、その機動性を高めることとする。機動兵を乗馬させ、その馬を体則により強化したのである。要は昔の騎兵であるが、これを以って両翼に配備したのである。

 加えて、軽装歩兵と情報兵とを設置し、情報収集能力と遠距離攻撃能力を強化する。これにより、文輪は機動性、情報量、主戦力の決戦前抹消に関して恐ろしいまでの威力を発揮する。

 次に、能力の平均化であるが、これはその多くをマニュアル化によって成される事となる。『二代目デスフォート帝軍団管理基本法』によって細かく決められるが、その序文には以下のような行がある。

「我々が戦場において最小限の犠牲で勝利を収めるには、戦場と平生とを同じ気持ちで過ごせるか否かにかかっている」

 このような考えの下に成された改革は、宿営地の設置方法から行軍速度の規定、訓練時のトイレの回数に至るまで定められた。これによると、宿営地は各軍団ごとにその場所を司令官が定め、司令官自身はいずれかの軍団に赤旗を掲げて宿営する。十人一組でテントの設置と料理の準備、防衛線の構築を行なう。そして、宿営地の中央には演壇を置き、司令官などが演説を行なえるようにしておくこと、これに寸法などを加えた親切さで解説している。

 また、訓練日の設定も定められ、基礎訓練→行軍訓練→基礎訓練→工兵訓練→基礎訓練→訓練演習→休日となった。ここに、実践訓練が入っていないが、毎日、訓練の最後に二時間も武器を持っての訓練が加えられる。それも、紅白に分かれての実践であり、勝利した方にはその日の夕食のおかずが一品、多く供されると決まったので、必死に取り組んだとされる。否、必死どころか、実戦で死ぬ可能性よりも訓練で死ぬ方が、可能性が高いと言われたほどであった。無論、冗談ではあるが。

 以上のような改革を経た文輪軍は以後、無類の強さを誇る軍となる。そして、天才が率いずとも、将校から下士官に至るまでが高い軍事的能力を持つ集団となるのであった。






   【身分制度改革】


 この軍制改革の直後、デスフォートは常任委員会に対して『デスフォート身分基本法』を提出した。デスフォートはメスタエ戦役に勝利し、レデトールとの関係を良好にし、文輪軍団を強化した事で、両院内では大きな信頼を得ていた。また、市民もそのデスフォート帝に対して信頼を寄せ、彼の支持率は急激に上昇していたのである。そのため、彼が法案を提出すればおよそ通るような状況にある。だが、この時は両院を挙げての反対運動が盛り上がった。

 この当時、文輪は帝国内の全て人民に文輪市民権を与えていた。これは、私達の世界と同じように文輪でも当然のことと思われており、これへの反発は身分による差別から解放されたばかりの世界ではご法度であった。それを、デスフォート帝は突いたのである。無論、彼には多くの反対意見がもたらされた。

 しかし、デスフォート帝はこれに対して反駁を開始する。それも、両院議員を買収するような方法ではなく、正面から説得を試みた。これが、ある程度の支持をデスフォート帝に回復させたのは言うまでもない。それでも、かたくなに反発する人の中には、『初代二条里執政官人民基本法』を盾にして、死守を試みる人もあった。『~基本法』と名のつくものは、我々の憲法に相当する。その『憲法』の中にある平等を犯すことは、皇帝たりとも許されず、それを宣告するようであれば帝位を剥奪すべきであるという意見さえ上がった。これを受け、デスフォート帝は両院協議会を開き、その場で演説を行なった。そして、その中でこのように語ったという。

「私が諸君にこの法(デスフォート身分基本法)の可決を求めたのは、身分制度の確立による差別化のためではない。ただ、我々がその市民権を拡大させ、文輪に、地球に繁栄をもたらすためである。そもそも、我々には権利と義務とが存在し、今、権利のみを主張して義務を果たさぬ者も多くある。また、義務を果たすにも果たせぬ者もあり、これを救うためには、身分制度の構築以外には道はない。加えて、文輪帝国が発展してゆくにつれ、外部との戦争が起き、その地を征服する可能性もある。そのような際に、我々とその繁栄を共有するためには、彼らを我々と同化させる必要があり、その時、段階的な権利の付与は大きな力を発揮する。……(中略)……諸君の中には、前執政官の制定した法にこれは反するという者もある。だが、その意見には論拠は存在しない。二条里前執政官の平等とは、機会平等、金銭的繁栄の平等、福祉享受の平等、教育の平等、そして、皇帝選出権の平等であり、身分上の形而上的な平等は含まれていない。また、前執政官は退官される前に『身分制度に関する指針』をまとめられており、その中には、『身分制度を制定し、人民に多くの機会を与えるべきである』という内容が含まれており、初代皇帝の頃からの指針でもある。確かに、身分制度が全く以って不要な状況が続けばそれに越した事はない。だが、これを必要に迫られて制定するのでは遅いのである。また、再びどのような戦争が行なわれるのかも分からない。これだけは、明確な事実であろう。……(中略)……議員諸君、全て人民が受け入れられる事を望む……」

 この演説の後、デスフォート帝の提出した身分制度は両院協議会で可決され、身分制度がスタートする事となる。ちなみに、この身分制度であるが、さほど難しいものではなく、簡明なものであったという。


貴族……文輪市民権を有する者の中で、政治的、または軍事的に功績のあった人物に与えられ、子孫にも継承される。ただし、この審査は厳しく、最大でも一四〇家系にしか与えられなかった。また、貴族階級にある者は文輪軍に入隊する場合、最初から大隊長の席が与えられ、副常任委員長のうち、片方はおよそ貴族が占めるなどの特権が与えられる。ただし、貴族には別途で税が設けられ、社会資本整備の一部を肩代わりさせられた。加えて、護民官及び『護民官集団』への就任は不可能とされる。

平民……文輪市民権を保有する、貴族以外で財産を有する者。この階層に属する市民は多く、文輪軍団兵への志願や両院選挙の被選挙権を有する。また、護民官への就任及び『護民官集団』への就任も認められており、政治において大きな権利有した。

無産市民……財産ならば子しか持たない者、または、不妊症によって子を設けられず、財産も持たない者。文輪軍団への軽装歩兵としての志願が認められており、同時に、両院選挙における被選挙権を有する。その上、納税は半額以上が免除される。ただし、有事の際には無償奉仕として、軍団から何らかの仕事を依頼される。

納税市民……財産及び子を持たない者。文輪軍団への志願は認められず、納税の義務は免除される。また、毎年三オンスの金を税として納付する事が求められ、子が生まれた場合、若しくは子供を産むのが何らかの事情で困難な場合には免除される。両院選挙への被選挙権は有しないが、選挙権は有する。

解放奴隷……奴隷の時に財産を蓄え、納付基準に達した者は奴隷から解放され、この階層になる。納税の義務はなく、軍団兵への志願や両院選挙における選挙権・被選挙権は認められない。ただし、奴隷保護官だけは例外であり、被選挙権を有する。また、子の代には文輪市民権を付与され、その後は市民として扱われる。

奴隷……市民の所有物であり、文輪市民権を持たない人物。戦争の捕虜や志願した者がこの階層を形成し、納税の義務は免除され、同時に文輪への参画は禁止される。ただし、奴隷保護官を選出する事は認められ、また、人道に反する行為は強要されない。具体的には、身体の不可侵(強要された性交渉の禁止)や給与・雇用の保障、人格の保障などがあげられる。そして、一定の財産を築いた者は解放奴隷に格上げされ、その子の代には、市民権を得る事ができる。さらには、例外的にそのまま平民となることもあった。

同盟国自由民……文輪の同盟国における自由民であり、帝国選挙の選挙権を有する。

属州民……文輪の属州に住む、文輪市民権を与えられていない人であり、全国選挙以上の選挙に投票できる。また、後には補助兵への志願もできるようになり、文輪市民とは異なる税を負担する事となった。


 これが、デスフォート帝の設立した身分制度である。詳細を見れば分かるように、流動性に富んだ制度になっている。これは、身分制度にしては異色のものとなるが、同時に、文輪の組織の老朽化を防ぐ事となる。要は、一つの考えに固執しない集団が成立したという事である。成立当初から批判も多かったが、このおかげで、文輪はその寿命を長らえる事となった。

 ちなみに、この基本法の成立当初、貴族に列せられたのは十二家系だけであった。要は、帝国成立に貢献した人たちであり、二条里や霧峯など、辻杜帝を除く九名がこの流れに乗った。これに加えて、典伍式、ジュリアヌス・ブラットン、そして、この当時の内政を裏で支えた鈴村宗佑が列せられる事となる。この中で、執政官以上に上らなかったのは鈴村宗佑であったが、彼は単にそれを断っただけであった。

 さらに、他の身分については、そのほとんどが平民であり、創設したにもかかわらず、奴隷も解放奴隷も存在しなかったのである。これは、デスフォートが法案成立時に、犯罪者以外に、現在の自由民を格下げする事はないと明言した事による。兎に角、デスフォートは身分の下地を作っておきたかったのである。これが活用されるか否かは、この後の政治家に一任されたのであった。






   【教育補助制度設立】


 国家を運営する上で教育は非常に重要な地位を占める。その証拠に、学校のほとんどは国家が掌握しており、教科書の検定なども行なわれている。そして、三つ子の魂百までというが、子供の頃に教えられたことが考えの基本になることは否めない。その為、通常の国家であれば教育に対して積極的な介入を行なうものである。

 それで、デスフォート帝も教育制度に手を出してゆく事となるが、デスフォートが教育自体に対して行った事は、歴史教育の統一と宗教教育の禁止であった。このうち、後者に関しては学校での指導を禁止しただけであり、家庭内での教育は奨励している。また、宗教施設における教育と、その宗教の信徒が作る学校では禁止していない。デスフォート帝にしてみれば、宗教は個人の自由であったのである。だが、歴史教育の統一に関しては、こうは行かなかった。

 我々の世界でも、歴史教育は統一されていない。それは、各国家が主観的な解釈を加えたり、意図的に内容を削除したりしてしまうためであるが、地球が統一された以上は、このようなことにかかずらう必要はほとんど無くなる。そこで、他の教育に関しては各自治体に任せたのにも拘らず、これを統一させたのである。その際、デスフォートは研究者たちの会合を重ねさせ、統一見解をやや無理矢理にしても出させたのである。帝政樹立戦争も、包み隠さず記した。これにより、デスフォート帝は歴史観の統一を期したのである。

 このように、デスフォートは教育内容自体にも口を出す事はあったが、それ以上に、教育を補助する制度の設立に尽力したのである。彼からすれば、帝国の繁栄は帝国内の一致団結にかかっており、その為には、等しい教育も重要であった。貧しいが故に、教育を受ける事ができないなどは、彼にしてみればあってはならないことであった。

 それで、デスフォートは教育補助制度の設立を画策するが、その内容を取りまとめるのを、元教育者のウァッロ執政官に任せている。ただ、彼一人では不安であったのか、その下に生まれの貧しかったとされる亀洋英内政官をつけている。これによって、デスフォート帝の時代に『ウァッロ教育補助法』が成立するのであった。

 この『ウァッロ教育補助法』であるが、この法律は特にアフリカの市民に教育を浸透させる上で効果があったとされる。まず、初等・中等教育を無料・義務化し、高等教育と大学も経済状態の悪い家庭に対しては無料で提供すると定められた。加えて、給食制度の拡充を行ないつつ、同時に、小児科病院の代わりも勤めたのである。だが、それ以上に画期的であったのは、教育手当の支給制度であった。

 これは、所得がある一定以下の家庭に対しては、学校にその子供を通わせる事で、給料を支給するという制度である。恒久的なものではなかったが、貧困の格差を是正するためには、これ以外に方策は無いと確信していたのである。加えて、アフリカではレデトール星の技術を導入しての土地改良が進められていた。これにより、経済状態が改善する事を狙ったのは言うまでも無い。そして、貧しい故に教育を受けられず、学が無い故に貧しくなるという負の連鎖をここで断ち切ろうと尽力したのであった。

 また、これと同時期に公平貿易の指針と投機による資産拡大の規制を打ち出し、経済の一極集中化を抑える試みも始めている。ちなみに、これに違反した場合には、資産没収と奴隷化が待つだけであった。反発も大きかったが、デスフォートの情熱はそれを上回っていた。デスフォート帝の在位は短かったが、この志は次々と引き継がれてゆく事となる。






   【デスフォート・クラッフス】


 このように、共存と共栄を常に念頭に置いた政治を行なうデスフォートであるが、ここで、その人物について触れてゆきたい。

 デスフォートは一九五八年にブラジルの片田舎で生まれた。この当時、ブラジルには日本人の移民も多く暮らしており、デスフォートはその中の一人であったという。ちなみに、「デスフォート」は文輪へと帰順した際に改めた名前であり、本名は別に存在したようである。だが、デスフォートはその名前の利用を差し控え、本名を用いる事をひどく嫌った。その為、デスフォートの「本名」は残されていない。余談ではあるが、文輪では市民権取得時の改名は日常茶飯事であり、決して、珍しい事ではなかった。ただし、本名を隠したという事は珍しいことでもあった。それでも、文輪皇帝は本名を変えた場合、およそこのようにしている。本名を変えた文輪皇帝自体も少ないのではあるが。

 さて、ブラジルで生まれたデスフォートであるが、彼は生まれた時から貧しい生活を強いられていた。移住後、農民として働いていた彼の両親であるが、その土地は痩せており、多くの作物を得る事などは不可能であった。その為、生活に窮した彼の家ではまず母親が、その後に彼の姉妹が売春婦として身を売る事となった。デスフォートはこの事を終生忘れる事はなく、売春の斡旋業者に対する取り締まりを在位中に強化している。

 このように、貧しい生活であったにもかかわらず、デスフォートは両親から中等教育までを受ける事となる。そして、その後も独学を続けた彼はやがて商売を始め、その規模を拡大していった。その元手は母親と姉妹の献身的な支えによって成り立っており、デスフォートは自分のことを「母と姉妹の身体によって帝位を得た男」と称していた。そして、このデスフォートに対して運命の女神は微笑む事となる。事業が成功し、安定した生活を送れる程度にまでは所得も増えたのである。

 だが、この前後に母を亡くし、九〇年には妹を強姦によって殺されている。これが、彼の運命を変えた。デスフォートは妹を殺した犯人を見つけ出すとこれを殺し、そのまま国外へと逃げたのである。この彼が逃げた先は、中国であった。そして、この中国で出会った人物こそが典伍式であった。

 デスフォートは、自分の過去を多くは語ろうとしない人物であった。しかし、この典との出会いだけは例外であり、このように語っている。

「当時、私は行く当てもなく、路頭に迷っていた。その日を生きていく事自体が難事であり、社会の中では最下層にあった。だが、典氏は路上の私に対して、一緒に働いてはくれまいか、と訊ねてきた。それに対して、なぜ、と私が訊ねると、君が犯した罪よりも大きな才能が君の目には宿っているからだ、と彼は事も無げに答えた。私はこの時、自分が歩むべき運命を見出したのである。この偉大なる人物と共に戦えるという」

 これ以降、デスフォートは典の下でその力を発揮する事となる。元々から商売に才能のあった彼は、典の下でもその才能を発揮し、やがては中華人民共和国の政府と戦えるだけの力を与える事となる。その為、デスフォートにも多くの名声が集まるようになった。これに対し、典の反応はこのようなものであったと、デスフォートは語っている。

「ある日、正午近くになってから私たちの前へと姿を現した彼は、事も無げにこう言った。君のおかげで我々は悠然と構える事ができ、そして、私はこうして朝をゆっくりできるよ、と。これに対して私が、では、私が貴方に代わろうとしたらどうなさいますか。と、冗談交じりで言うと、それなら私は田舎でのんびり暮らせるねと、答えた。これだけでも、私は典氏には遠く及ぶものではない」

 やがて、中華人民共和国政府と戦端を構えることとなり、デスフォートはその中で一軍を任されることとなった。だが、彼は平時とは異なって、その鮮やかさはなく、その代わりに、堅実な軍団運営を行なったとされる。この当時の参謀は、後に、持久戦の天才がデスフォート帝でありました、と語っている。

 さらにその後、デスフォートは典伍式の勧めにより、文輪に参画することとなる。これは、同盟国の政治参画を進めていた辻杜帝の方針によって起きた事であるが、これを容れたデスフォートは文輪の内務官として働き、さらには、二条里の下で軍団経験を経てから補欠執政官にまで上り詰める。そして、そこでも自らの才能を示したデスフォートは終に、文輪皇帝となった。この時の心境を、デスフォートは、後にこう語っている。

「私は、自分が皇帝になった事に対しては、大した感慨を覚えることなく、従容として受け入れる事ができた。ただ、私が気にかかったのは、典氏を差し置いて、私が皇帝になっていいものかという一事だけであった。そこで、私は典氏に相談してみたが、典氏は穏やかに微笑むと、君が文輪皇帝なら世界の安寧は保たれる。なに、これ以上にいい人事はないさ、とおっしゃって下さった。これで、私は皇帝となる決意を固めることができた」

 このような経緯を経て登位。その後、退位してからも中東管理官、マーズ・テラフォーミング特別担当官、副常任委員長などを歴任後、中華管理官を最後に帝国政治の表舞台を去る事となる。そして、その後はデスフォート南米開発財団を設立し、七十八でこの世を去るまで、その会長を務め続けた。

 文輪設立前後の激動の時代を象徴するデスフォートであるが、この彼の唯一の悩みは娘がいなかった事であったという。文輪の二代目皇帝として闘いながらも、家族を大切にしたという彼は、「尊ぶべき」という尊称を受けることとなった。帝国全てから敬われる存在として。






   【最後の仕事】


 二〇〇三年の六月、デスフォート帝は突如として自らの退位の意志を明らかにした。その頃には、軍制改革から政治管理区域の制定までがおよそ完了し、帝国の内臓が確りと整えられていた。そのため、この時期の退位は決して早計であるとは言えなかった。

 しかし、言い換えれば内臓の形成に対して肉体の形成はまだ完了しているとは言い難かった。故に、帝国内部ではこの退位宣言に驚きを隠せなかった者が多く存在していた。とはいえ、デスフォート帝の意志は固く、既に、次期皇帝の選出を始めようとしていた。

 それにしても、なぜ、この時期に退位を考えていたのか。それに対して、デスフォートの答えは常に明快であった。

「帝国内部の整備に目途がついた今、注意すべきは帝国外部の動きである。私は、帝国内部の安定には適しているかもしれないが、外部を平定する能力は欠如している。故に、皇帝を適任の者にしなければならない。また、長期の在位というものは、私の目を曇らせかねない。そうなる前に、私は去るより他にはないのだ」

 このように告げたデスフォート帝に対して、帝国人民の目は非常に温かなものであった。決して、投げやりに帝位を考えるのではなく、親身になって考えてくれているという安心感が、既に、帝国中に広がっていたのである。常に、人民の目線に立った上で政策を実施していたデスフォート帝の、武力を用いる事のない勝利であった。

 さて、退位を宣言したデスフォートであったが、帝は同時に、税制の制定が成るまでは退位をしないという事を宣言している。そのため、デスフォート帝は最後の仕事として、税制の制定に取り組む事となる。そして、この時に制定された税は非常に単純なものとなった。

 まず、消費税であるが、これは三種類に分けられた。一つ目は食料品であり、税率は低めの五パーセントと定められた。これは、食料品が等しく人類に必要なものであり、これがなければ生きて行けない為、可能な限り、低く抑えている。この税は古代ローマ式に「二十分の一の税」と名付けられた。また、二つ目は世帯につき一件目の家と衣料品などの生活必需品であり、税率は十パーセントと定められた。これも、古代ローマ式に「十分の一の税」と名付けられる。そして、残った贅沢品には二十五パーセントもの税がかけられ、「四分の一の税」と呼ばれる事となる。もっとも、この税はもっぱら「贅沢税」と呼ばれる事となったが。

 次に、各国では累進課税制度によって課される事の多い所得税であるが、これも一律で十分の一と定められた。ただし、所得が基準よりも低いものは支払う必要はなく、これにより、発展途上の国々が救われたのは言うまでもない。また、所得がある基準額を超える場合には、「社会資本整備税」が課される事となる。これは、社会資本の整備の為に用いられる税金であるのだが、これの面白いところは、その使用先を納税者が半分までは指定できた点である。そのため、納税者は故郷に錦を飾るようになり、すぐには成果が出なかったものの、次第に、虚栄心をくすぐられる納税者が増えてきたのである。これにより、社会資本の整備が進んだことは言うまでもない。後に、この税には「記名権」などが与えられて完成してゆく事となる。

 また、これ以外にも相続税や固定資産税などが定められるが、どれも分かりやすいものであり、その税率はおよそ五の倍数になっていたのである。このように、簡単な税制にした理由を、デスフォートはこのように語っている。

「単純明快であるのは、面倒な計算をせずとも済むという事の裏返しである。つまり、このようなつまらない事に悪知恵を働かせる必要がないということでもある。これならば、子供の一人まで自分が文輪の一人として参画しているということを実感できるだろう」

 こうして、デスフォート帝が最後の仕事として位置づけた「二代目デスフォート帝税制基本法」は常任委員会において賛成多数で可決され、無事に帝国の歯車となったのである。






   【禅譲】


 デスフォート帝は退位前、「二代目デスフォート帝非常時禅譲法」というものを制定している。これは、皇帝の突然の崩御や戦死によって、帝位が空席となった場合に、誰が帝位に就くべきかを定めた法律である。この法律を、最も安定した皇帝の一人であるデスフォート帝が定めたのは興味深いが、これは、彼が先を見据えていた為であるのかもしれない。

 それで、肝心の緊急時の帝位継承順位であるが、まずは、安直な親類による継承は禁止している。ただし、前皇帝の残した遺言に記してあった場合には、これを認めるものとしてある。そのため、帝位継承順位として最も高い位置につけるのは、遺言によって指名された人物である。

 それに次いで、常任委員長が続く。ただし、この場合には皇帝ではなく、皇帝代理として振舞う事が求められており、登位後、半年以内には帝国選挙により、次期皇帝を選出する事を求められている。また、それでも間に合わないとされる非常時には、臨時の両院協議会によって正式に任命されるものとされた。

 そして、最後に帝位継承の機会が与えられたのは、皇軍の司令官であり、皇帝の戦死時にのみ認められるものとされた。これは、軍の全滅を防ぐ為の臨時の措置としての帝位継承であり、戦役終了後には、半年以内に帝国選挙による正規の帝位継承が求められている。つまりは、これも皇帝代理でしかない。

 このように、デスフォート帝はこの法律の中で、正式な帝位継承者としては、前皇帝の指名した人物、両院の指名した人物、そして、帝国人民の総意で選んだ人物のみを認めている。これは、帝位というものが民主的に選ばれるべきであるという帝の思いを量るに十分であろう。前皇帝の指名だけはこれを外れているが、民主主義を時には破る必要があるということを、現実的な政治家であったデスフォート帝は見抜いていたのであろう。そして、このようにして正当化しなければ、今からの選出も、自分の登位自体にも疑問が呈される事となる。生まれたばかりの帝国で、帝位の正当性が疑われれば話にならない。デスフォート帝は、そこまで睨んでいたようである。

 このように、帝位に対してさえ、冷徹な目を向けていたデスフォート帝は、次期皇帝の選出に当たって、両執政官に相談をしている。当然、両執政官にも帝位に就くだけの地位があったのであるから、ここで、自分を売り込んでもおかしくはない。だが、この二人にはそういった感情が著しく欠如していたようである。彼らは共同して、アルフレッド・ミラーの名前を挙げた。

 ここに来て、やっと常任委員長であったアルフレッドに帝位継承の可能性が回ってきたのだが、初めのうちは、デスフォート帝があまり乗り気ではなかった。この理由は、典への思いやりであり、願わくは、次の皇帝には典伍式を就けたいと思っていたのである。だが、この頃はまだ、中国方面の内情が安定せず、その為には、典はまだ中国に必要な存在であった。このため、デスフォート帝は典の帝位継承を諦めざるを得なかった。

 こうして、再びアルフレッドは皇帝候補として名前が挙がることとなったが、デスフォートには、一つの心配があった。それは、アルフレッドの登位によって空席となる、次期常任委員長の席である。ここにはぜひ、内政中心の人物を置きたかった。それは、アルフレッドがどちらかといえば、軍事的な性格を持っていたためであり、その右腕には、政治の堪能な人物が必要だったのである。

 そこで、デスフォート帝は一人の人物に目をつける。それは当時、法務官を務めていたマンデラ・ドバーダである。彼は、既に税制の制定や帝政樹立戦争でそこそこの功績を挙げていたが、その能力の全貌はいまだ未知数であった。それでも、デスフォート帝は十二月の末にはマンデラと面会し、次期常任委員長に据える事を伝えた。これに対するマンデラの答えは、黙然とした頷きであったという。

 二〇〇四年五月七日、デスフォート帝は首都日本の東京において禅譲式を行なった。そこには、多くの人民が押しかけ、帝国の足がかりを作った皇帝に対し、温かな目を贈った。そして、これに答えるかのように、帝はこのような言葉を残した。

「私は子供の頃、貧しさに苦しみながら、そこで多くのことを学びました。その中の一つに、小さな喜びを分かつ事こそが人間の喜びなのだ、という非常に大きな事が含まれていました。これから恐らく、私達はさらなる発展の時を迎えるでしょう。しかし、発展を迎えるからこそ、是非とも、後ろを振り返ってみてください。そこに、泣いている子供はいないでしょうか。そこに、お腹を空かせた子供はいないでしょうか。そこに、親のいない子供はいないでしょうか。もし、そこに悲しみを抱えた子供がいたならば、その発展は間違ったものでしょう。それでも、もし、そこに笑顔の子供がいたならば、その発展は正しいものなのでしょう。なぜなら、発展とは人を悲しませるものではなく、人を幸せにするものなのですから」

 デスフォート帝は、最後まで優しさに包まれた人物であった。そして、この優しさが帝国の基盤となって、動き続けるのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る