第二章 二代目デスフォート・クラッフスの時代

⑦軍事再編とメスタエ戦役

   【帝位継承】


 文輪皇帝への登位の方法は三通りある。一つは選挙による指名、一つは両院による指名、もう一つは前皇帝による指名である。このうち、デスフォート帝の選出法は最後のそれであった。

 初代文輪皇帝であった辻杜龍一はその在位中、常に退位の事について思いを巡らせていた。その中で、当然のように最重要事項として念頭にあったのは二代目皇帝の人選であった。ここで、辻杜帝は最初、山ノ井常任委員長をその位に就けようと考えていた。その理由は、二代目に必要な安定性を彼が持っていたからである。だが、これに中国戦線での敗戦が伝えられる。この時、辻杜帝はまだ彼が若く、不安定な要素を持っている事に気づくのである。要は、早すぎるの一言に尽きる。無論、これ以降は候補から外れる事となる。

 この次に、辻杜帝は二条里執政官に焦点を絞る。二条里であれば、その政治力に不安はなく、安定、不安定の心配もない。また、版図の拡大の上では、カリスマ性の高い指揮官が必要であった。だが、これは二条里が拒否したために実現しなかった。経験不足と、学業の不足をその理由としてあげたが、その決意が固いものであると知ると、辻杜帝は諦めざるを得なかったのである。

 ここに至って、辻杜帝はこの人選が暗礁に乗り上げた事に気づく。だが、辻杜帝はさらに二人の候補を遥かに下位の官職の中から見出す事となる。それが、デスフォートとアルフレッド・ミラーの二人である。このうち、アルフレッドの方は旧アメリカ合衆国の出身であり、彼を二代目に据えては、強国支配の復活であるという印象を強烈に生じさせる可能性があった。一方、文輪市民権の獲得と同時に改名したデスフォートの方には、この可能性は低い。こうして、デスフォートは文輪皇帝への第一歩を歩みだす事となる。

 しかし、流石の辻杜帝も軍事経験がない人間を皇帝につけるわけには行くまいと考える。そこで、辻杜帝は彼を二条里隷下の第二軍団の軍団長に頼み込んで就任させたのである。この時の評価が残っている。

「デスフォートの才能は、どうやら軍事ではないようです。確かに、軍事的素養も見受けられますが、それ以上に政治の最前線で戦える人材になりましょう」

 この評価に気を良くした辻杜帝は、彼を補欠執政官として高位官職を経験させることとする。途中、オーストラリア属州総督に就任させたが、戦後処理が済むや否や彼を召し返して欧州戦線にも送った。この時、デスフォートはスカンディナビア半島の三国のうち、ノルウェーの攻略を担当し、遅いながらも着実にその制圧を完了した。これにより、彼は十分の軍事経験を経たのである。そして、この頃には十分に周りからの評価を受けるようになり、辻杜帝は彼を後継者に据えると決めたのであった。

 だが、この事実が当人に知らされたのは七月十九日であった。その頃、デスフォートは辻杜帝の退位式典の準備に追われ、忙しい日々を送っていた。そこに、突如として辻杜帝が現れたのである。そこで、開口一番に辻杜帝は告げた。

「二代目皇帝デスフォート・クラッフス。これが、明日からの君の肩書きだ」

 これに驚いたデスフォートは、その場で一度、失神してしまった。それでも、辻杜帝の決意は変わらない。こうして、デスフォートは戸惑いながらも皇帝に就任したのであった。

 ちなみに、この頃の彼が考えていた二代目皇帝の候補は典伍式であった。辻杜帝の性格とその能力から言って、ほぼ確実であろうと、デスフォートは考えていたようである。結局、両者とも皇帝となるが、先に皇帝となったのはデスフォートの方であった。





   【施政方針】


 このような経緯で皇帝に就任したデスフォートは、それゆえに、施政の方針を考えるのに十分な時間が与えられなかった。加えて、それを補佐する人物たちも、上位の人々は辻杜帝の退位と共に辞してしまっている。その為、この時に残された人々の多くは世界帝国というものの運営に当たって、経験が不足してしまっていたのである。つまり、赤ちゃんの帝国を子供が育てなければならないという厳しい状況にあったのである。それを最初に担わされたのがデスフォート帝であった。

 デスフォート帝に課せられた使命は、初代辻杜帝のそれに比べれば、非常に少ないものであった。だが、二代目の皇帝の采配は、それ以降の帝国を左右する、重要なものであろう。即ち、軍事力の助けを借りることなく、いかに民衆の心を掴むかが重要になってくるのである。これを行なうのに、辻杜帝は天才的なセンスを示し、施政の理由を明確に示すことによって民衆の説得に成功した。また、二条里の演説は人を熱狂させるという稀有な才能を持っていた。デスフォートはこのような能力を残念ながら持ち合わせてはいなかった。しかし、デスフォート帝は辻杜帝や二条里執政官のような天才ではなかったが、誠実に仕事をこなしてゆくという点では非常に長けていた。そして、この誠実さが以後の帝国の基礎を創り上げてゆく。

 このデスフォートはまず、辻杜帝の施策を全て継承することから始める。核全廃をそのまま(これは、レデトール星の技術により加速するのだが)進め、宗教の自由を認めた。ただし、彼はその宗教の教えを利用して内紛を起こした場合には、容赦なく軍団を派遣し、これを鎮圧するとしたのである。加えて、帝国本国内では地方行政局が設置され、多くの民族がその風習や文化を維持できるようにした。さらに、一部の民族に対しては自治区も与えられる事となる。この代表例はユダヤ民族であるが、デスフォート帝はユダヤ人のイスラエルでの自治権を与えると同時にアラブ人への敵対の停止を命じた。その居住区を分けることなく、互いの問題は互いの代表者同士の会談によって解決するようにしたのである。無論、これも履行されなければ、容赦のない報復措置が行なわれると決まった。その為、中東には文輪は十個軍団の兵力を常駐させ、この監視に当たらせた。

 次に、各地で軍縮を断行した。言うまでもなく、これ以降は地球内での戦争は内乱になる。その為、この当時に世界が抱えていた軍事関係者をそのまま文輪軍団兵にしてしまえば、それこそ軍事費だけで帝国が傾く可能性さえあった。このうち、中東や欧米で解散された軍人たちはアフリカや東南アジアなどで大人用の教師などとして立つ事となる。加えて、欧米の軍を退役した人たちの一部、主に上官たちは東南アジア、主にカンボジアに眠る地雷の除去作業に当てられる事となった。ちなみに、この革新的な技術がレデトール星から導入され、除去の際の危険性が大いに減少する事となった。

 それでも、必要な数の軍団は配置する事とした。以下はその一覧である。ただし、カッコ内は予備兵、予備役の順。

皇軍……十五個軍団(五個・十個)

執政官軍団……四個軍団(二個・二個)

北米方面隊……十個軍団(四個・八個)

南米方面隊……八個軍団(二個・六個)

全ア方面隊……十二個軍団(六個・十個)

西欧方面隊……六個軍団(六個・八個)

東欧方面隊……十個軍団(四個・二個)

中東方面隊……十個軍団(六個・四個)

東亜方面隊……十四個軍団(六個・十個)

南太平洋方面隊……十二個軍団(六個・八個)

 合計九十一個軍団、五四六〇〇〇人。予備兵四十七個軍団、二八二〇〇〇人。予備役六十八個軍団、四〇八〇〇〇人。総計二百六個軍団、一二三六〇〇〇人でこの帝国の守備を行う事としたのである。これ以前の常識で考えれば、驚異的に少ない数であったといえよう。旧中華人民共和国の人民解放軍だけでも、二百万以上の兵力を擁していた。それだけでも、この文輪全軍の数を超える。これを解散したデスフォート帝には、十分にその論拠があったのである。

 このような施策を行なうに当たって、デスフォート帝には執政官と常任委員長の選出を求められる。これが行なわれなければ、文輪三院制度が崩壊する。これでは、辻杜帝の施策の継承など夢に終わり、また、共和制の形態を残さなければ、あまりにも急速な変化に旧西洋諸国が反発しかねなかった。

 ここで、デスフォート帝は両院の中から三人の人物を選ぶ。この時、選挙を行う事はなかったが、常任委員たちの一部には相談したようである。そして、まず第二代常任委員長にアルフレッド・ミラーを指名。その後に第四代執政官としてウェルリア・ウァッロと李典正を据える事とした。これを、最初は議会を通さずに可決しようとした帝であったが、最終的には八月一日の両院協議会でこれを正式に決定したのであった。

 こうして、自らの政治の基盤を作り上げた上で、デスフォート帝は文輪帝国の構築に乗り出すのであった。






   【文輪・レデトール同盟】


 デスフォート帝は八月上旬、かねてより文輪が準備していた案を実行に移す。それは、元々二条里と辻杜とが画策した事であったが、その正式な実行を次の皇帝である人物に委ねたものである。すなわち、レデトール星との同盟締結であり、文輪が覇権国家として行なわなければならない第一項であった。

 そこで、デスフォート帝はレデトールの最高官職である正統施政官のマビダリア・メーレス・トーナに親書を送った。その中で、帝はレデトールとの同盟を打診し、その締結場所として文輪本国を指定したのである。だが、トーナ施政官は同盟の締結を望みながらも、その場所をユヌピス王国、もしくはギジガナアニーニア帝国において行っていただきたいと申し出たのである。レデトールとしては、相手の国において同盟を結ぶ事は上下関係の構築に繋がると、危機意識を覚えたのである。これに対するデスフォートの反応は穏やかの一言に尽きた。これを認め、ユヌピス王国での会談を快諾したのである。

 八月二十五日、ユヌピス王国の王城において、ユヌピス国王仲介の下、文輪・レデトール同盟が結ばれる事となった。この日、同時に文輪・ギジガナアニーニア同盟も結ばれたが、これは後に唾棄されることとなる。だが、前者の方は文輪帝国崩壊のときまで続く、最も効力の長い同盟の一つとなるのであった。

 それで、この内容であるが、要はサルス講和条約の発展した形であった。互いにその自治を認めながら、文輪はレデトール星の防衛の義務を負い、レデトール星は要請に応じて同盟軍を供出する事が求められた。文輪は、敗者と同盟を結ぶ事がこれ以降も多々あるが、この一項は、必ず加えられるものとなる。その中には、文輪が攻め立てれば十分に征服できそうな国家もあった。それでも、無用な属州化を嫌い、名誉ある同盟関係を良しとしたのであった。これにより、軍事費はさらに低く押さえられる事となる。

 さらに、この同盟の締結にあわせ、数年のうちに文輪皇帝とレデトールの正統施政官が相互に互いの国を訪問しあう事となった。相互訪問ということは、対等な立場に立った上での関係構築であったと言えよう。片方の国がもう片方の国を訪問するだけの関係では、上下関係が示されてしまう。これを、デスフォートは嫌ったのである。

 さらに、レデトール星の持つ時空間転移技術(ワープ技術)を文輪帝国に指導すべく、多くの技師が地球に派遣されることも決定した。元々、レデトールはこの技術を利用して地球に侵攻を試みたのであるが、デスフォート帝はこれを地球の発展の為に用いようと決心したのである。加えて、核兵器処理技術、高度エネルギー生産技術、自然環境に関する技術なども輸入する事が定められ、地球の技術革新に大きく貢献する事となった。

 さて、このように文輪にとっては大いにプラスとなったこの会談であるが、その最中に先の第一次ギジガナアニーニア戦役などで敗北したことをレデトールは話題に上げた。そして、その話題の最後をこのような形でトーナは締めくくる。

「我々は貴国の寛大な処置により、一命を取り留めることができた。この善良にして最も誇りになされるべき道徳心に対し、我々は感謝と賞賛とを贈りたい」

 これに対し、デスフォートはこう返した。

「私は、戦争の勝敗などには関心がない。それよりも、私は互いの国の共存共栄にこそ興味がある。時に喧嘩などをしても、仲がよければそれでいいと考えるのです」

 この一言で、トーナは以後、このデスフォートを父のように慕い、敬うようになった。これをどのような気持ちでデスフォートが受けたかは、記録に残ってはいない。だが、デスフォートとしては止めもせず、勧めもしなかった。要は、トーナの好きにさせたのである。これは、デスフォート帝の多くに共通する事である。自由を極力侵さない事が彼の信条であったのであろう。






   【メスタエ戦役】


 だが、このような調子で順調に進んでいたデスフォート帝の下に、急使が飛び込んできた。平行相違世界の国の一つであるメスタエ王国が文輪の通商団の一人を殺害したのである。これに対し、デスフォート帝は謝罪と以後の再発防止を求め、ウァッロ執政官を急派したが、メスタエ王国から帰ってきた答えは拒否どころか、宣戦布告であった。デスフォート帝の登位から一ヶ月は過ぎた九月三日の事であった。

 なぜ、このような事が起きたかを説明するには、この国の国王について触れる必要がある。メスタエ王国の国王はヒエ・マスラアであり、一九九七年一月十日に就任している。彼は、軍事と騎馬をこよなく愛し、また、名誉というものに固執した。その為、近隣弱小諸国に戦いを挑んでは、それを降して戦勝を重ねていたのである。その彼が、次に目標に定めたのが文輪帝国であった。マスラア国王は文輪が新生したばかりであり、同時に、皇帝の軍事能力が低い事に目をつけ、これならば勝利できると踏んでいたのである。幸い、彼は征服した地域からの属州税で潤っており、軍事費には苦労していなかった。また、ギジガナアニーニア帝国を降したほどの強国を倒したとあれば、彼の名声は際限なく高まるであろう。彼の鼻は機敏にそれを嗅ぎ取っていたのである。

 そこで、彼は精鋭の十二万を主力に、三十八万の軍勢を揃え、この決戦に臨むと決意したのである。文輪が五十四万の兵力を持っていようと、その全てが向けられるわけではなく、それだけで十分であろうと読んだのである。そもそも、ギジガナアニーニア帝国の敗因には領内での反乱がある。彼にはその同じ過ちを犯すまいという自信があったのである。

 このように稀有な経緯によって戦争をする事となった文輪帝国であるが、デスフォート帝は慌てることなく、敵情を観察し、執政官と皇軍に出陣の準備を命じている。同時に、同盟国に援軍の要請を行い、戦力を拡充する事に努めた。そして、オーガスタ・ファットン外務官をメスタエ王国に急派し、敵国の情勢把握とその内部撹乱とに努めた。

 九月十三日、マスラア国王はレベス・コローニアの三万の軍を先頭に、直接首都日本へと攻撃を開始した。平行相違世界の出入り口は数箇所あり、その中から、北海道にあるものを選んだのである。これに対し、デスフォートは鉄道と軍用車を以って青森へと急行し、そこに前線司令部を置いた。無論、総司令官であるデスフォートも自ら戦場に赴くため、ここの管理は鈴村嘉平法務官に委ねられる。そして、そこから出発したデスフォート帝は両執政官と十四個軍団とユヌピス王国の救護兵三千を率いて青函トンネルを越えた。

 ここで、いざ会戦かと思われる方もいらっしゃるであろう。今までの文輪の代表的な司令官にはそのタイプが多く、この場合もそうであるように思われることだろう。だが、デスフォートは速やかな事態収拾を念頭に置きながらも、その戦略は着実そのものであった。帝はまず、青函トンネルの出口に陣を置き、それからウァッロに後方撹乱を任じ、李執政官にはその為に必要な鉄道網の破壊阻止を命じたのである。そして、帝自身は北上し、レベス軍に対抗したのである。

 これが、効果を表すのに、さほどの時間がかかる事はなかった。デスフォート帝によってその指揮下に入った鉄道網はウァッロ執政官の移動を迅速にし、その速さを利用したメスタエ軍の撹乱は確実にその補給を苦しくした。兵站の妨害は帝政樹立戦争の頃からデスフォート帝の得意技であったが、ここでもその能力が役に立ったのである。これにメスタエ軍は困る事となる。略奪をしようにもその先々で小隊が撃破され、敵の行軍を妨害しようにも、その目的は果たされぬままに小隊が消滅した。加えて、先鋒のレベス軍のマン・トゥ・マンディフェンスに当たるデスフォートは会戦には応じず、その代わりに、夜襲や兵站の妨害を行なう。こうして、メスタエ軍は水を得るのも困難となり、厭戦気分がレベス軍から浸透し始めた。

 これに焦ったのは、マスラア国王である。王はその為に、自軍を南へと向け、レベス軍に合流した。王はそこで士気の回復を考えていたようである。だが、その結果は共倒れであり、近衛軍さえも士気が低下した。そして、三週間もする頃には兵士の間で脱走が始まり、軍の規律の維持さえも厳しいものとなった。

 加えて、王国内ではマスラア国王の甥であるヒエ・マニクスが征服された地域を回り、その支持を説いて回った。自分が登位した暁には、無闇な徴兵と重税を廃止し、自治の拡大を行なうと宣言したのである。この勢いは日に日に増し、十月の中旬には既にクーデター寸前にまで激しいものとなっていた。無論、この全ての黒幕であったのはオーガスタ外務官であった。

 動揺するメスタエ軍に対し、デスフォート帝は悠々と戦いを進める。これに耐え切れなくなったのは、マスラア国王である。王は直接デスフォートに手紙を送り、そこで決戦を申し込んだのである。これを、デスフォートは受けた。待ち望んだ形で、自分が主導権を握る形での決戦が実現した。

 十一月三日、デスフォート帝は函館郊外でメスタエ軍と対峙し、そこで、対決の時を待った。その間、両陣営からは小隊が繰り出され、戦機を探る小競り合いが行なわれる。これをつぶさに観察し、敵軍の緩みや指揮の衰えなどを嗅ぎ取るわけだが、辻杜帝のように僅かな変化で攻めるような事は決してしなかった。デスフォート帝は自軍の損失を限りなく抑えたかったし、限りなく大きな勝利を得ようとしていたのである。これには、決して時間を惜しむような事はしなかった。

 十一月十七日、いつものようにデスフォートは布陣し、相手の布陣を待った。いつもなら、メスタエ軍も申し合わせたかのように布陣を完了し、小競り合いを始める時間である。だが、この日はメスタエ軍の布陣が遅れ、やっとの事で対峙はしたものの、その戦線はいたるところに綻びを持つものであった。

 その時、デスフォートは全軍の中央に躍りだし、高らかに剣を掲げた。そして、

「戦士諸君、もはや時は熟した。行くぞ、メスタエ軍を破るのだ。祖国に栄誉を掲げるのだ」

と叫ぶと、その赤い直垂を翻し、メスタエ軍に襲い掛かったのである。

 戦いは、機先を制したデスフォート帝の側に有利な状態で進んだ。一方、メスタエ軍は王自らが前線に出て戦うにもかかわらず、各所で戦死者がかさむばかりであった。やがて、踏みとどまって戦っていたメスタエ軍も後退し、崩壊した。そして、この後の追撃も鮮やかであった。差し向けられた機動兵は随所で敵を破り、終には、マスラア国王を捕虜としたのである。

 このようにして終決したメスタエ戦争であったが、この戦争における双方の戦死者は十二万三千であった。一度の会戦によって、これほどの死者が出たと言うわけであるが、その内約は文輪が二万三千、メスタエ軍が十万になる。文輪の過去の戦闘の中でも、最大規模の被害である。これは、デスフォート帝の戦略上の欠陥を指摘するものではない。ただ、彼にとっての不幸は新設したばかりで、名ばかりの皇軍を率いていた事である。それに、デスフォート帝の武将としての才能は辻杜帝のようには高くはなかった。それで、三倍以上の相手をするのは酷であったとしか言いようがない。それでも、勝利したデスフォート帝は凱旋式挙行の申し出を断り、その費用を遺族の為に割いたのであった。

 とはいえ、デスフォート帝も文輪皇帝である。成すべき事は知っており、混乱していようとも、忘れる事はなかった。帝はマスラア国王と会談し、講和を結んだ上でメスタエ国に帰したのである。これ以降、メスタエ王国も文輪傘下の国として共存してゆく事となる。文輪にとっては政治的な安定が最優先であり、無闇な領土拡大には無関心であった。これは、デスフォート帝のこの処置により始まったと言って、差し支えないであろう。

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