⑥帝国の成立

   【第一次文輪彼我戦争】


 文輪では、自国内で敵と味方とに別れて争う内乱のほとんどを彼我戦争と呼ぶ。この名付け親である二条里は、その理由を以下のように述べている。

「誰それの乱などと言う表現は、勝者の観点により起こされた名前である。内乱というものには、正義も悪も存在しない。ただただ、自国内で流血する不利益どころか有害なものである。故に、文輪が彼我に分かれて争ったという事実は認めても、どちらが勝者でどちらが敗者かが分かる名前を付けてはならない。そうする事で、最後には敵味方なく、協力して政治を行なうべきなのである」

 このように、自己の理想に対して一歩も譲らない姿勢を取った二条里は、しかし、その人生で幾度となく内乱を経験する事となる。それでも、彼は相手を許し、共同経営するように努めるのであった。それも、可能な限りは武力を用いずに。

 しかし、既に決戦の火蓋は切って落とされている。この状況で、何にも増して優先されるべきは勝利する事である。故に、彼は勝利に向けた準備を始める事となる。


 ここで、これまでの流れを簡単に説明するが、これについての記載は反二条里派のマスファナ・ケーナ著『アンチ・二条里』による。この記載は常に明確であり、彼が反二条里派であるということを差し引けば、史書として申し分のない正確さを保持している。しかし、なぜこれほど詳細な第一次文輪彼我戦争の経過を書き残したかといえば、彼が嘆いたからである。決して、第一次文輪彼我戦争は緻密な計画のものではなく、それゆえに、計画倒れの部分も多かったのである。その為、二条里をまだ、芽のうちに摘み取れた可能性のあるこの戦争の指揮官には、ケーナも不満を隠せなかった。

 それで、この文輪彼我戦争の発端であるが、それは、大崎の内政官就任から始まる。彼にとっては、この人事が不服であったと、『アンチ・二条里』は言う。自分が文輪に参画した以上は、世襲制の(当時はそう勘違いされていた)皇帝にはなれずとも、最高職に近い執政官や常任委員長にはなれると、確信していた。それが、内政官という執政協議会初選出にしては厚遇されているこの人事に対してさえ、不満を持たせたのである。ちなみに、この彼に対する評価は悪いものではなかった。以下、辻杜帝と二条里のものである。

「大崎は、頭はよい。しかし、経験の不足と、いざという時の決断力が弱い。帝政樹立戦争後に活躍するだろう」

「大崎内政官は、二次元では有能な人材です。しかし、立体となると、不安材料が見当たります」

 当時の文輪は、国際情勢の中で荒波にあっているような状況であった。その為、平時であれば大いに使える人材も、その格が下がってしまうという欠点があった。しかし、それを素直に受け入れられるほど、大崎は従順な人物ではなかった。また、彼はこの時、四十一歳。人間として、最も脂ののった時期でもあった。故に、彼の不満は水面下で蓄積し、ロシア戦線の事後処理班として送られたことで爆発した。別段、辻杜帝は閑職に送ったつもりではなかった。むしろ、属州化した地域の安定化と、東欧戦線の構築の足がかりとして、非常に重要な仕事を任せたつもりであった。しかし、それを受け取りきる人物ではなかった。それに加えて、豪州戦線という華々しい舞台に、二条里という若輩が送られることが決定する。大崎の我慢の限界であった。

 三月二十日、大崎は最初の狼煙を上げる。内政官の権限で、『大崎軍団管理法』を提案し、可決させたのである。この内容は、代理執政官が設置された際、帝国内の全て指揮官は軍団編成に許可を要するとしたのである。また、本来は軍団保有が認められていない代理執政官も、軍団保有を認めるという内容であった。

 これに対し、反対意見も噴出した。しかし、結局は大崎の裏工作によって票が割れ、常任委員会を通過したのである。執政官は、拒否権を持っていたものの、戦地にある執政官にはその権利はない。二条里は、手を出せずに終わったのである。

 だが、二条里の方もこの動きを黙って見ているわけには行かなかった。そこで、二条里は執政官通達の形で、法案発布を遅らせたのである。これを、大崎は執政官の議会制度軽視という言葉で批判したが、これに返ってくる反応は薄かった。法案自体の可決は、二条里も否定していない。また、執政官通達は戦地にいる執政官に与えられた権利でもある。正当な権利であった。執政官が対案や廃案という方策を用いる事のできなかった間に、このような法律を決めようとする方が、彼らにしてみれば、おかしかったのかもしれない。兎に角、当分の間は凍結という形で進められると決定された。

 だが、大崎は諦めなかった。今度は、辻杜帝が失踪した隙を狙って、代理執政官への就任を執政協議会に申し出たのである。同僚代理執政官には、これまた反二条里派の阿良川を指名しての申し出である。これを、議会はほとんどの反対もなく受け入れた。辻杜帝の失踪という重大事件と、東欧戦線の暗い戦績は、議員に影を落としていたのである。

 これで勢いを得た大崎は代理執政官通達により、例の『大崎軍団管理法』の発布を早める事に成功した。これこそ、執政官への越権行為とも言えるのだが、これにより、軍団編成の権限を与えられた大崎は、最後の仕上げをする事に決める。

 六月一日、二条里が軍団編成を行ったという連絡を執政協議会は受け取った。これに対し、『大崎軍団管理法』が施行されたことを知らせる使者を送っていた(実際には、大崎が途中で握りつぶしていたのだが)執政協議会は混乱する。誰一人として、二条里執政官の考えが分からなかったのである。ここに至り、大崎は辻杜帝の失踪が暗殺であるという偽の情報を公表し、その首謀者が二条里である事を知らしめたのである。辻杜帝を暗殺するのは容易なことではなく、二条里執政官ほどの力の持ち主でなければ不可能であるという宣伝は、彼らに確証を与える。この恐怖が全会に広がったところで、大崎は執政協議会非常事態宣言の可決を求めた。そして、可決されたのである。

 残るは、常任委員会だけとなったが、常任委員会は非常事態宣言を出すのを拒んだ。この時の副常任委員長が二条里派であった事が、この理由であるが、この抵抗も空しく潰えた。宣言の採択をすら、言を左右にして応じない副常任委員長から採決権を奪い、即時採決を行なったのである。こうして、常任委員会も非常事態宣言を出し、両院による『執政協議会・常任委員会最終事態宣言』が二条里に向けて発せられたのである。


 このようにして、国賊の指定を受けた二条里であったが、彼がどのような心境であったかを示す史書は存在しない。唯一、肉薄が可能であろう手記でさえ、

「非常事態宣言を受けると、二条里は三個軍団を率いてロシアに攻め込み、大崎を破って、彼我戦争を終結させた」

としか、残されていないのである。二条里は真実を部分的に書くことで、この時の心境を表に出さないようにしている節が窺われる。そこで、この後の記述は他の史書を頼る事とする。

 さて、最終事態宣言の発令を知らされた二条里は、大崎と阿良川がロシアにいたり、そこで、大軍を擁しているという知らせを受ける。この大軍と言うのが、史書の記述によってやや違うため、平均的な値で信憑性もある四十個軍団とする。これに対し、二条里の方は戦力が拡大したというものの、二十二個軍団でしかなく、大崎軍の半分程度しかなかった。それでも、二条里軍の方は将校から兵士に至るまで、粒ぞろいの精鋭であり、どのような戦場にも耐えうる軍であった。

 六月五日、二条里は第一、四、七軍団を率いて、夜半にベルリンを出発した。この後に、霧峯が隷下の七個軍団を率いて続く。残りの十二個軍団は内田補欠執政官指揮の下、欧州に残されることとなり、EUFP軍の牽制に使われる事となった。

 この知らせを受けた大崎軍は、急いで戦闘準備に取り掛かる。だが、この準備は二条里軍相手には遅すぎた。レーニングラードに待機していた第一軍が、六日の午前一時には撃破されたのである。この時、二条里が率いていたのは第七軍団だけであり、速攻で十六個軍団を混乱させたのである。この時は、阿良川の救援によって大崎も退却するのに成功した。

 だが、この戦場での主導権は常に二条里の方にあった。二条里は、司令官が大崎と阿良川と黒磯護民官の三人である大崎軍の虚を突いた。三人が大崎の敗北と霧峯執政官の到来によって混乱している隙に、首都のモスクワを制圧したのである。さらに、そこに残されていた二個軍団を隷下に入れるとモスクワの守備を担当させ、三個軍団を以って、最も兵力の少ない黒磯軍十個軍団に夜襲をかけ、これを瓦解させたのである。これまでの行軍は僅かに三日。ここまで至ったところで、二条里は三個軍団を休息させ、大崎と阿良川の出方を窺ったのである。既にこの時、二条里は十二個軍団を接収し、黒磯を捕虜としていた。

 六月九日夜明け前、二条里の下にモスクワに向けて大崎と阿良川が進軍中であるとの報が伝えられた。これに、二条里は狙いを定め、霧峯軍に向けて斥候を放つ。彼は、このモスクワ南で大崎と阿良川を包囲するつもりであった。それも、モスクワという大都市を餌にした上でである。これに、戦闘の経験がない大崎は見事に乗ってしまう。これで、第一次文輪彼我戦争の行く末も決まった。

 早朝、大崎軍はモスクワへの進軍中に、右方からけたたましく襲い掛かってくる一軍の姿を認めた。これに続き、左方からも同様の一軍を認める。さらに、前方からはモスクワから駆けつけた一個軍団がその通り道を塞ぎ、大崎は三方を包囲されたのである。

 大崎に不足していたのは、司令官としての経験だけではなく、能力もそうであった。彼は、激励を続ける事で圧倒的に有利な兵力を生かすことができると信じきっていた。だが、混乱した軍の建て直しほど、難しい作業もない。彼は、それこそ平面では優秀であっても、立体では平凡であった。敗北し、壊滅した軍は捕らわれ、混乱の中、大崎も阿良川も捕虜となるのであった。

 このモスクワ南方会戦による二条里側の死傷者は二十七名であったのに対し、大崎軍の方は二千七百名が戦死し、一万が負傷する。残りはほとんど捕虜となり、ここに第一次文輪彼我戦争は終結したのである。また、失踪していた辻杜帝も、阿良川の供述によって発見され、帝国は平常な状態となったのである。

 だが、この時に処罰されたのは皇帝への不敬罪となった阿良川だけであり、大崎は元の内政官に復帰したのである。阿良川の方もその職を追われたものの、禁固三年で済まされ、内乱の当事者としては驚くほどに少ない処罰で済んだのである。とはいえ、辻杜帝が失踪中に成立法案はすべて白紙とされ、彼らの政治の痕跡は抹消されたのであった。

 このような処理を辻杜帝と法務官の安西に任せると、二条里はベルリンへと戻り、さらには、休む間もなくユヌピス王国へと向かうのであった。






   【バラリア条約】


 六月十二日。この日は、文輪がかのローマ帝国やモンゴル帝国を超越した日として、記憶される事となる。それまでの帝国は、人種や民族を超えたつながりによって成立するものであった。この成功例が先の二者である。だが、文輪は人種どころではなく、地球という枠をすら超える帝国、種別という枠をすら超えた帝国として君臨するのである。

 元々から、平行人との同盟を模索し続けていた二条里は、その中の第二位の地位を占めるユヌピス王国にその焦点を定めていた。そこで、彼はゾ・デラスタ・デベデジアニアと接触し、その打診を続けていたのである。このデベデジニアは、後にその名を残すこととなり、大デベデジアニアと呼ばれる事となる。そして、この大デベデジニアの尽力によって交渉の場が設けられ、ユヌピス王国の首都であるバラリアで条約の締結に至った。以下はその内容である。


一、文輪及びユヌピス国は互いに互いの国を侵してはならない。

二、文輪はギジガナアニーニアがユヌピス国に攻め込んできた際には、ユヌピス国に軍事援助を行う。

三、その際、回復用の要員はユヌピス国が負担し、兵糧などは文輪が責任を持って負担する。

四、ユヌピス国は平行相違世界の秩序を守り、平行人に対する敵対意識を和らげる義務を負う。

五、文輪は人間による平行人の支配を防ぎ、平行人も基本的権利を持つことを認める。

六、貿易が可能であればそれも検討に入れる。

七、その際、関税自主権は相互に保障する。

八、治外法権は互いに持たないものとする。

九、犯罪者の身柄引き渡しについては互いの警察組織を通じて、必要とあれば行う。

十、条約の更新は五年ごとに行う。

十一、ギジガナアニーニアの脅威が消えた際にも条約内容の更新を検討する。


 この条約は、ギジガナニーニア帝国に攻められ、不利な状況にあるユヌピス王国と結んだものである。二条里も、もう少し厳しい条件で条約を締結したとしても、批判はされなかったであろう。しかし、二条里はそれをせず、ユヌピス王国に対して非常に寛大な条件で条約を結んだのである。

 まず、第一、五、六、七、八、九、十項はどの条約にも含まれるものである。また、この条約の目的が軍事協定であった以上、第二項もまた当たり前のものである。加えて、第十一項にも不思議なところはない。

 だが、問題は第三項である。これが、今後の文輪が拡大してゆく中で用いる事となる、「能力供給主義」である。本来、軍事協定において援助される側は、その戦費などの一部を負担させられる事となる。また、往々にして兵力の供出も義務付けられる。それが、ユヌピス王国にはそれができるだけの力があったにもかかわらず、救護要員だけを求めたのである。これはなぜか。

 恐らく、その理由は第四項の履行を確実にしたかったからではないか。今、文輪は宇宙人と平行人という二つの勢力から板ばさみとなり、苦しい状況にある。その打開には、是非とも片方に敵対行為を止めてもらう必要があった。しかし、宇宙人の方はその数も多い。一方、平行人の方は僅かである。この打算の末、まずは容易であろう平行人の方に手を伸ばしたのである。

 また、ユヌピス王国の方でも、地球人と敵対するのは明らかに不利益であるという考えが大勢を占めていた。それでも、平行人の世界を統御しようと思えば、理由なくしての仲直りは危険であった。平行人でも開明派はこれに賛成であったが、市民はあまり乗り気でなかった。それが、ギジガナアニーニアからの侵攻の阻止と抱き合わされる事で、進展するのである。

 このバラリア条約が結ばれた時、王城には多くの平行人が詰め掛け、ユヌピス国王と文輪執政官との会談を傍聴している。これだけでも、地球人に対する思いを平行人が持っている事が分かる。加えて、二条里が過去の指導者による弾圧の謝罪と、以後の友人関係に対して切なる希望を抱いているとの演説をすると、城内の興奮は最高潮に達したとある。このような中で結ばれた条約は、文輪帝国が崩壊するまで維持され続ける事となる、最長の条約となった。






   【欧州戦線(四)】


 第一次文輪彼我戦争の直後、EUFP軍は再び行動を開始した。なぜ、絶好の機会であった彼我戦争の間に動かなかったのかと思われるかもしれない。だが、EUFP軍は動けなかった。二条里がロシアへと向かう前に指示しておいた積極的な攻勢が功を奏し、EUFP軍はその先手を奪えなかったのである。

 だが、彼我戦争の情報を(その時には終結していたのだが)手に入れると、陽動作戦を無視し、ロシアへその軍を向けたのである。加えて、この時はEUFP軍も陽動作戦を用い、文輪の視線をベルリン防衛に向けさせたのである。

 それを、二条里は鋭くも見抜いた。そこで、彼は休めておいた隷下の三個軍団を率い、最強行軍で東へと向かったのである。この時、二条里は時速百二十キロという行軍速度の最高記録を更新する事となる。この記録が破られるのは先のことだが、この時の二条里の心情が窺い知れよう。

 再び東欧へと舞い戻る事となった二条里は、ミンスクに入ってから情報を集め、敵の戦力を知る。その後、南下を続けた二条里軍はキエフ北でEUFP軍と対面し、驚いたEUFP軍の突撃により、攻撃が開始された。

 激戦ではあったが、終始、主導権は二条里の方にあった。彼はその軍を以って側面を突き、相手が怯んだところで逆の方を攻めるという事を繰り返し、最後には、混乱したEUFP軍の背後にまで回りこみ、完全包囲の形にまで持ち込んだ。これには、EUFP軍の抵抗も空しく終わり、二時間程度で全軍が降伏した。

 この戦いでの死傷者は両軍合わせて五百と少なかったが、二条里軍はEUFP軍四万五千のうち、二万五千を捕虜とすることに成功する。だが、この日の戦闘の意義はそれだけではなかった。敵将ジュリアヌス・ブラットンを捕虜とするのに成功したのである。

 この時、二条里は彼を無条件で解放している。通常ならば、捕虜として本国に送還するのが慣わしである。それでも、二条里はそれをせず、半時間ほどの会談を行なっただけでこれを解放するのである。後には、これを巡っての論議も起こる事となるが、これ以降、EUFP軍の動きが静かになってゆくのである。

 六月十四日、さらに南下を続けた二条里軍はドナウ川のほとりにまで至る。この時、二条里はマヌソフという将の率いる一隊が北進を続けているという情報を得た。そこで、二条里はこの大河を渡らず、その手前で布陣する事となった。

 初めの報告から三時間後、二条里はそのマヌソフ率いる八千の軍と遭遇した。そこで、そのまま会戦が始まるわけであるが、この戦いはいつもの戦いとは異なっていた。この一軍そのものが、レデトール星からの一軍だったのである。その為、兵士一人一人の戦闘力が高く、二条里軍はやや苦戦を強いられる。それでも、二条里の精鋭である三個軍団はいつもと同じように戦う事ができた。だが、これもマヌソフの用兵の上手さによって崩れる事となる。決戦用にと北方に隠しておいた第四軍団がマヌソフ軍別働隊の攻撃を受け、崩壊したのである。これで、勝負は決まった。

 勝ち戦のとき、二条里は最初に戦場を去るが、負け戦のときは最後まで残る。この時も、そうであった。彼は全軍を北へと逃がす間の殿を務め、全軍が無事に退却できるよう、見守ったのである。その上で、彼は戦場を後にした。

 この会戦の結果、一千百七十二の死者と六千もの負傷者を出す事となった。特に、第四軍団の被害は凄まじく、軍団の兵員を補充しない二条里の方針により、終には三千をも切ったのである。それ以外の軍団でも、燦々たる有様であった。二条里の完敗である。

 だが、二条里はブカレストにまで後退しながらも、戦いを諦めてはいなかった。まだ、マヌソフ軍は北上を続けつつある。また、手許には、数こそ少ないものの、無傷の第四軍団さえあった。これに、回復の終わった第一軍団と第七軍団があれば、この状況も十分に挽回できると、二条里は踏んだのである。

 その夜、二条里は夜陰に乗じてブカレストを立った。交代要員として、ロシアからの援軍である二個軍団を置いた。その上で、彼はやや東よりに南下を続け、ある地点から、一気に北西へと駆け抜けた。マヌソフ軍の間者を追い抜いて、急襲する必要があった。

 十五日未明、二条里軍はマヌソフ軍の後方を攻撃した。この急襲に、マヌソフも冷静に対処する。だが、この時の二条里の決意は固かった。そして、その決意は全軍に伝わり、マヌソフ軍の中央を突破したのである。それでも、二条里はなおも攻撃を続け、終には、敵将マヌソフを一騎打ちの末に捕らえたのである。

 この結果を、二条里は素直に喜んでいる。「手記」の中で「レデトール軍に初めて勝利した」とあるぐらいであるから、尋常ではない喜びようである。その上、彼はこの戦いで捕虜になったマヌソフの説得に成功し、文輪の傘下に加える事にも成功している。これによって、レデトールとの関係改善の兆しも見え、二条里としては喜ばしい限りであった。二条里は敗戦と退却から好転する事の天才であるが、これもその一例である。

 そして、この一戦を転機として、帝政樹立戦争は急速に終息へと向かっていった。レデトールのもう一軍であるクララテホ軍も文輪の傘下に加わり、イギリスの方でも、勅使川原主導の下、全土制圧が完了している。イタリアの方では、二条里が主導的に進攻を行い、二十四日にはカンネーでの会戦を行なったものの、それ以外にはほとんど戦闘を行なうことなく、二十六日には制圧を完了した。また、その前日にはEUFP軍のジュリアヌスと会談を行い、EUFP軍の降伏を確認したのである。以下は、その時の状況である。


 EUFP軍側はジュリアヌスを筆頭に二十名が壇上に立った。その姿はいずれも壮麗で、きちんとしたものであるという事がはっきりと示されていた。逆に、二条里軍の方は両執政官と他七名の軍団長が上り、それに応えた。だが、二条里軍の方は戦闘中という事もあり、粗末な軍服姿であった。

 このような、ある種特殊な状況の中で口火を切ったのはジュリアヌスであった。

「史上、偉大なる人々は、多くの戦いを乗り越えながらも、多くの敵を許してきた。そもそも、戦争と言うものは罪ではない。それは人類普遍の原理であり、長らくそれは継承されてきた。それは、彼らがその事を熟知していたからである。だが、少なからぬ者達はこれに反し、勝者の権利を行使して、その理に背いた。その後、彼等の多くは滅亡し、今ではその急先鋒であったアメリカも、貴方方によって滅ぼされてしまった。そして今、貴方は歴史上、最も重要な位置にいる。我々は貴方方に、講和を申し込もうとしているからだ。だがもし、貴方方が勝者の権利を行使し、我々を悪として断罪するのであれば、貴方方は将来、多くの先人が越えてきた衰亡の道を辿る事だろう。我々は自分達の責務に従っただけである。祖国を守るという責務に。故に、貴方方が我等の祖国を蹂躙し、我等の心身を侵そうものなら、人類普遍の原理に反する事であろう」

 ジュリアヌスの声が両陣営の間に響き渡った。そして、それは卑屈な降伏ではなく、堂々とした降伏であった。それに対し、二条里も全軍、特にEUFP軍の精鋭達に向かって話を始めた。

「私達は各自の責務に正直に従い、ここまでやって来ました。そして、皆さんも祖国を守るという責務に従い、ここまで頑張ってこられました。さて、私達は、戦争を犯罪だと考えています。それは、多くの人々を殺し、多くの人々の尊厳を侵してゆくからです。それは、私達がこの六十年近くの時間を掛けて学んだものです。ですが、そこには正義も悪もありません。ただ、そこには勝者と敗者があります。それでも、戦争という犯罪を起こしたという事では、両者とも全く相違がないのです。ですから、私達、この場にいる全員が犯罪者なのです。故に、私達には貴方方を裁く権利などありません。寧ろ、祖国を守る為に奮闘した皆さんに敬意を払わなければならないほどです。そして今、皆さんとの会談により、それが可能となりました。それと同時に、我々人類全てが尊厳と平和を回復したのです。但し、これも本来ならば、私達がこの地に乗り込んだ時点でも可能でした。それを踏みにじられ、また、その為に多くの流さなくてもよい血を流さなければならなかった事は、本当に残念な事です。ですが、私達はそれでも勝者の権利を行使せず、また、皆さんを断罪する気などありません。先ず、退役希望者は退役されて下さい。そしてその後、残った兵士達は発展途上地域開発の皇帝直属部隊として、若しくは、私達の同盟軍としてこの世界を防衛して頂く事にします」

 二条里の演説が終わると、その場は一瞬だけ静まりかえった。だが次の瞬間、両軍の兵士達は互いに抱きしめ合い、歓喜の声を上げて内乱の終結を喜び合った。そして、その中で講和の締結が行われると、全員が――兵士も将も関係なく――その喜びを全身で表現していた。


 こうして、帝政樹立戦争は終わりを告げ、ここに帝政文輪帝国が始まるのであった。






   【第一次ギジガナアニーニア戦役】


 だが、これで終わると思われていた戦争は、まだ続く事となる。ただし、今度の戦役は帝政樹立のための戦いではない。ギジガナアニーニア帝国との対外戦争であった。文輪にとっては、最初の(ただし、マヌソフとの会戦を除く)対外戦争となる。この戦争に、辻杜帝は自ら出陣する事はなかった。しかし、平行相違世界の政府首脳を本国に招くなど、積極的な外交を仕掛けてはいたのである。その上で、辻杜帝はこの戦争の指揮を二条里と霧峯の両執政官に一任した。

 これを引き受けた二条里は、まず準備として平行相違世界における兵法を総覧した。その後、大デベデジニアに依頼し、この戦時において実践演習を行なっている。これによって、平行人の軍略の要綱を理解した二条里は隷下の三個軍団と霧峯及び四個軍団を率いて平行相違世界へと再度渡る。そこで、ユヌピス国王と接見した二条里は、ユヌピス国王からの援軍依頼を受けて王城を飛び出した。

 六月二十八日、ギジガナアニーニア帝国とレデトール共和国(星)との間で同盟が結ばれる。同時に、両国は文輪に対して正式に宣戦布告を叩きつけ、ユヌピス王国への侵攻を強化したのである。これに、二条里は僅かな間にしても奔走させられる。それでも、六月末日には前線へと出てきていたギジガナアニーニア皇帝の軍を急襲し、この戦争における主導権を獲得した。これを、二条里は活用する。防御はユヌピス王国の持つ軍に任せ、二条里及びこの時には二十個軍団にまで増強されていた文輪は、各地で襲撃を繰り返した。また、二条里は配下のクララテホと安西に命じ、ギジガナアニーニア帝国及びレデトール軍内部の切り崩しを図ったのである。これにより、レデトール軍は降伏するものが続出し始め、ギジガナアニーニア帝国内部では属州が反乱を起こし始めたのであった。

 ここに至って、両国同盟軍は決戦を急ぐ事となる。七月三日、二条里の下にギジガナアニーニア皇帝から決戦の申し出が齎される。二条里はこれに乗り、全軍を率いて指定されたホグナリッスへと向かった。そこには、既に両国の精鋭である十五万が布陣されていた。それでも、二条里は悠々とその前を進み、いつもと同じように布陣した。これから、暫くは小競り合いが繰り返される。これは二日続き、その中で互いに戦機を探り合った。

 七月六日、この日は、朝から常に文輪の方が有利に小競り合いを進めていた。これに、敵軍の一部が動揺し、その戦線が僅かに乱れを見せた。これに、二条里は目をつけ、全軍に突撃を命じた。

 互いに決戦である事を覚悟した上での戦いは壮絶なものであった。それでも、戦況を常に有利に進めたのは二条里軍の方であった。二条里は的確に援軍を発し、その機動力を生かして、次第に、相手の戦う範囲を狭めていった。その中でも、特に二条里隷下の三個軍団の働きは目覚しかった。ちなみにこの前日、二条里は以下のような演説を彼らに行なっている。長いが、紹介したい。

「戦友諸君、これまで、多くの戦いを経てここまで至る事が出来た事を先ず、感謝する。私達はこれまで、多くの戦友達の屍を越え、多くの困難に立ち向かってきた。当然、そこでは涙を流す事も、血を流す事もあった。だが、ただ自分達の尊厳を、自分達の自由を取り戻す為に、如何なる艱難をも耐え抜き、多くの遺灰を前にしてなお、共に戦う事が出来た。ここにいる人は皆、民族も言語も肌の色も異なるが、共に自由を、という志を抱く事で、ここまで至る事が出来た。第一軍団の戦友達は、日本で私と共に立ち上がって以来、一人も欠ける事無く、最も苦しい中を堪え、ここまで私と共に戦い続けてくれた。第四軍団の戦友達は、アメリカでの結成以来、最も多くの犠牲を払いながらも、先陣を駆け抜け、私と共に敵陣へと飛び込んでくれた。第七軍団の戦友達は、結成こそ遅かったものの、欧州の地における、当に辛酸を嘗めるかの如き日々を挫ける事無く、その臨機応変の速さで、私と共に敵を囲い込んでくれた。当に、ここまでの戦いというのは戦友諸君、一人一人の力と協力の賜物であり、決して揺らぐ事のない、人類普遍の思いが発現したものである。私は今まで、諸君と共に戦いを続ける事が出来た事を感謝したい。そして、是非、明日の戦いに勝利し、共に自由の美酒を味わおうではないか。諸君には、幾ら言葉を尽くしても、決して足りるものではない。とはいえ、私のこの心を諸君に知ってもらいたいのだ。そして諸君、心を同じくして、自由に向かおうではないか」

 この三個軍団のうち、二条里が最も攻撃用として愛していた第四軍団が、この会戦に決着をつけることとなる。二条里は善戦する二個軍団を一気に後退させ、それによって生じた凸型の部分に第四軍団とクララテホ軍を突撃させたのである。これにより、敵軍の中央は撃破され、完全に崩壊した。二条里はこのホグナリッス会戦という第一次ギジガナアニーニア戦役の決戦に勝利したのである。

 その後、二条里軍は勝利の勢いをそのままにし、ギジガナアニーニア帝国の首都であるサルスを陥落させた。その翌日の九日には、ギジガナアニーニア帝国及びレデトール星との間に講和が結ばれた。その内容は、以下のようになる。


一、今後、ギジガナアニーニア及びレデトール星は地球及び平行相違世界に対する如何なる侵略行為を行わず、文輪も同様に行わない。

二、二国は文輪と同盟を結び、貿易を開始する。

三、この戦いで占領した地域は、双方共にその全てを放棄する。

四、賠償金は国家予算の百分の一を十年間払い続け、レデトール星はその技術を地球に対して指導する。

五、両国の有力者はその子供の少なくとも一人を地球に留学させる。その資金は文輪が全て負担する。

六、文輪は平行相違世界に対する侵略者を防衛する義務を負い、平行人はその時に食料の優先的な販売と同盟国軍を派遣する義務を負う。同盟軍の規模は、文輪の派遣する兵力の千分の一以上、十分の一以下とする。また、派遣が不可能な場合には、救護兵、若しくは、調理人を派遣する。


 これほどまでに、寛容な講和は世界史上類を見ないが、この内容で辻杜帝も残りの両国も納得し、講和を結んだ。これにより、第一次ギジガナアニーニア戦役は終決し、以後、ギジガナアニーニア帝国はともかく、レデトール星は文輪帝国の最も信頼できる同盟国として存続し続ける事となる。そして、この戦いの終焉により、辻杜帝の役割も終わりを告げるのであった。






   【辻杜帝退位】


 二〇〇二年七月二十日、本国への帰還を果たし、その任務を無事に終えた二条里らは辻杜帝の退位に際して、退官する事となった。二条里や霧峯執政官はまだ、現役の中学生であった。故に、まだ勉強に勤しむべき年齢でもあったのである。

 この時、二条里は執政官の挨拶として以下のような演説を残している。

「全人民、世界市民の皆さん、私は、私達は初めての人類の存亡をかけた戦いに勝利しました。そして、この勝利の影には多くの犠牲と多くの協力が存在します。この場を借りて御礼及び、哀悼の意を示したいと思います。さて、私達はこれから世界政府への道を歩んでいくわけですが、ここで私達にお願いしたいと思う事があります。それは、私達に私達がある地域、ある部族、ある宗教に属している以上に、世界市民としてこの地球という、この宇宙でも稀な星に属していることを自覚していただくことです。私達は長年、内戦や紛争、そして大規模な戦争や対立の歴史の中で生きてきました。その多くの原因は部族、国家、宗教などによるものです。そして、そのために多くの人々は苦しんできました。しかし、世界市民の皆さんは本心ではこれを望んでいません。これを望むのは一部の上層部や政府関係者だけなのです。私達はこれから世界市民として平和を共存して生きていきます。しかし、この先、戦争へと人々を導く人物が出てくるかもしれません。その時には、私達はこの事を思い出し、この人々と戦い、この平和を回復しましょう。それが、私達の責務であり、権利であります。では、これからは『私達として』共に生きていきましょう」

 この三日前に、辻杜帝は地球上の全て同盟国及び属州を本国に編入する事に決定した。次いで、十年以内に本国選挙を以って様々な官職が決められる事を宣言し、それまでは、現在の常任委員会の人間から選出される事となったのである。この時の常任委員会の議員は旧中小国の代表が主であったから、昔のパワーバランスは崩壊したのである。

 加えて、辻杜帝は近代兵器、核兵器の全廃を「初代辻杜帝兵器管理法」によって法律化し、その為の担当官さえ作らせた。以後、およそ四十年の間、兵器処理官が大活躍する事となる。

 このような処理を終えた上での退位であった。無論、常任委員会などからは惜しむ声が多く寄せられた。それでも、辻杜帝は以下の言葉を残して文輪から去るのであった。

「新しい時代を作るうえで、私は必要な人間であった。しかし、それを成長させる上では必要のない人間だ。だからこそ、去る。後はそれぞれが尽力する事で未来が創造されるだろう。人間に残された時間が長いものになるか、それとも、短いものになるかは、諸君の努力しだいである」

 辻杜帝が去って、初めて文輪は帝国の様相を呈するようになる。この命の長さは、これからの施策にかかっていたのである。

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