⑤ヨーロッパ自由平和連合

   【ヨーロッパ自由平和連合(EUFP軍)】


 四月二十四日、渡会が本国で英気を養っている頃、ロシアでは、元帥の職にあった木田が敗北を喫した。その相手は、どこの国家にも属さず、古代の兵装をした一団であった。決して、木田が指揮官として問題のある人物であったわけではない。事実、この後には木田は常任委員長にまで昇進している。この奇妙な一団は体則を利用する、強力な軍であった。これが、文輪がEUFP軍の存在を明確に知った最初の機会である。

 このEUFP軍であるが、その実体は市民による志願兵を中心とした義勇軍であった。この義勇軍は最高司令官と元老院、軍部からなり、各国の要請や最高司令官の指示により活動した。実は、この四月二十四日以前にEUFP軍と交戦した軍が文輪にはあったのである。それは、アメリカの二条里軍であり、この時は一勝一敗の五分となった。その二条里は、この軍との最初の邂逅でこのような言葉を残している。

「整然としており、誇りを持った軍だ。敵として対すれば恐ろしいが、味方にすれば勝利を得られる」

 このように二条里が激賞したEUFP軍は、小隊→中隊→大隊(若しくは連隊)→師団(α編成隊→β編成隊)→軍団→軍という区分けを持つ。そして、それを指揮する将校は、以下のような戦闘官でくくられている。


兵士…EUFP軍の根幹を成す兵士達。全員がヨーロッパ市民権を有し、軍役と納税の義務を負う。

第八種戦闘官…EUFP軍における最下位の指揮官。十人程度から成る小隊を率いる。

第七種戦闘官…EUFP軍における下の位にある指揮官。上級・下級とに分かれ、七十名から八十名前後の中隊を率いる。兵士達の選挙によって選出され、編成隊会議に参加する権利を有する。

第六種戦闘官…騎馬隊の兵士であり、第七種戦闘官から上るか、編入の際に自分で馬を準備するかによって就く事が出来る。

第五種戦闘官…中隊の集合体である大隊(または、連隊)を率いる。七種戦闘官選挙によって選ばれ、全軍会議に参加する権利を有する。

第四種戦闘官…大隊や連隊の集合体である旅団を率いる。上・下に分かれ、上のみ第一大隊を率いる事が出来、作戦会議にも参加する権利を有する。

第三種戦闘官…旅団によって編成される師団に相当するα編成隊(一万四千前後)及びβ編成隊(三万二千)を率いる事が出来る。同時に、作戦会議への臨席も許され、発言権を常に持つ。

第二種戦闘官…軍団を自由に指揮する権利を有する。最高司令官による任命で就任し、紅い直垂の着用を義務付けられる。

第一種戦闘官…軍を指揮する権利を有し、時には司令官としてほぼ全軍の指揮を執る事が出来る。また、近衛隊は全員がこの官であり、紫の直垂の着用が義務付けられる。

最高司令官…EUFP軍の全てを束ねる司令官。凱旋式の挙行許可を握り、軍隊発動の最終決定権を持つ。


 因みに、当時のEUFP軍最高司令官はジュリアヌス・ブラットン。後の文輪執政官でもある。詳しい事は後に述べるが、彼も抜群の政治センスを持った人物であり、EUFP軍の基礎を作り上げるには最適の人物であった。そして、この人物に各国の要人から救援の要請が行なわれたのである。これに対して、ジュリアヌスは出兵を約束した。この結果が、四月二十四日の会戦であった。

 四月十五日、木田元帥は増強された十個軍団を以って出陣し、最初は優位に戦いを進めていた。特に、ロシア=ベラルーシの戦いでは一万の兵を捕虜としたほどである。しかし、そのようなものは前座にしか過ぎなかったのである。

 四月二十四日、突如として三万の義勇軍がレーニングラード付近に出現し、会戦となった。それは、いつものように文輪優位に進み、戦線を見る見るうちに後退させた。

 ところが、突如として一万ずつの兵力が右舷と左舷の後方から襲い掛かって来たのである。つまり、この三万の義勇軍は戦略的に後退し、伏兵のいる地点にまで誘き寄せてから一気に屠ったのである。これにより、三方を囲まれた木田軍は瓦解し、その包囲網を血路を開いて逃げ延びる他には無かったのである。

 この日の戦闘で、木田軍の一万の兵士が死に、一万の兵士が捕虜となった。それに加え、負傷者は三万にも及び、無傷で戦線に立てるのは一万弱の兵力でしかなかったのである。

 しかし、悲劇はこれだけでは終らなかった。レーニングラードが陥落し、そこでも二個軍団を失ったのである。更に、敵の進路を妨害する為にノヴゴルド、トヴェリ等に配置した軍団兵も呆気なく敗北し、三個軍団を失った。こうなれば、最早モスクワに閉じ篭るしかなかった。不幸中の幸いにも、その頃にはスウェーデンが陥落し、それによって若干にしても士気が上がったのである。その為、これに支えられた木田軍は十万近くに増大した敵に対して、ゲリラ戦を中心とした防衛戦を戦う事になるのである。このスウェーデン攻略を担当していたのは、クラッフス補欠執政官であった。このような暗雲の中で、文輪は欧州戦役を迎えるのであった。






   【欧州戦線(一)】


 四月十日、モスクワから出発した山ノ井軍は三十個軍団を率いて、既に、属州ロシアへと進攻してきた事のあったベラルーシやウクライナへと進攻した。この時、山ノ井軍が率いていたのは三十個軍団。当然、司令官は山ノ井であったが、本隊を率いていたのは水上であり、彼は三日でキエフを陥落させた。

 ここで、彼の下に戦書が届けられる。その送り主は第一種戦闘官のリトアスであった。これを受けた水上は、指定してあった黒海の畔に至り、そこで初めてEUFP軍と対峙したのである。

 この日は四月二十日であったが、この頃には、既にEUFP軍自体の情報は水上に入ってきていた。しかし、それを眼前にした水上は、その軍に強い危機感を覚えた。そこで、彼は本隊八個軍団では少ないと考え、即座に孔李蘭と金延中に援軍を要請した。翌日、両軍が到着してから布陣を行なった。それは、明らかに今までの文輪の布陣とは異なり、両翼に軍団兵を配して中央に機動兵を配したのである。一方、EUFP軍の方は定石通り、両翼に騎馬兵を配して中央に歩兵を置いたのである。両軍とも、歩兵が三列横隊である事に差異は無かった。

 しかし、会戦が始まればその差異は明らかになった。先ず、先駆けて突撃した機動兵が敵陣中央を破り、それを真ん中から二つに分けた。その間に、すかさず歩兵が入る。また、敵騎兵に対しては素早く行動し、突撃の為の空間を与えない事で出鼻を挫いた。これにより、EUFP軍の歩兵は味方の騎兵と水上軍とに半分にされた上で包囲されたのである。

 この敵騎兵をも利用した三方包囲は、しかし、相手の予想外の抵抗により、また、敵戦力の個々の強さ故に完璧な成功とはいえなかった。それでも、水上軍は優勢に進める事が出来た。そして、夕闇が周囲を完全に覆いつくし、通常ならば夕食という時間になってやっと決着が付いた。

 文輪軍の死者は千二十名、負傷者は三万七千にも上った。一方、EUFP軍の死者は四千七百、負傷者は五万二千、捕虜は一万七千となった。即ち、水上の勝利であったが、被害も甚大であったのである。

 これが文輪のヨーロッパにおける初めてのEUFP軍との交戦であった。そして、この三日後に例のレーニングラードの会戦が起きるのである。

 この二戦の結果は、ヨーロッパ中に反文輪の動きを巻き起こした。特に、緒戦に於ける敗戦が、西欧の人々に、文輪と戦おうとも、大きな犠牲を出す事がないという事を知らしめたのである。これによって、EUFP軍は敗北を恐れる事無く戦うようになり、終には、四月末の会戦によって、水上軍を撃破した。その時は、中東から駆けつけた渡会率いる二個師団が救援に駆けつけた為、大敗こそ避けられたものの、この勝利によって、反文輪派がヨーロッパ中を完全に支配したのである。

 また、北海戦線の方も状況は芳しくなかった。ノルウェーが各地の軍隊を集結させて抵抗した為である。これに対し、クラッフスも容易には進む事が出来ず、一進一退の攻防を繰り返すより他に無かったのである。

 このような、EUFP軍が絶対に有利な中で、二条里がイベリア半島に上陸するのであった。






  【欧州戦線(二)】


 五月七日、二条里・霧峯両執政官及び内田補欠執政官は十三個軍団と共に、セツバル付近に上陸した。その際、二条里軍はポルトガル軍と交戦したが、易々とそれを退けている。そして、その翌日にはスペイン・ポルトガル連合軍を降し、リスボンを制圧したのであった。

 しかし、この勢いの良いスタートダッシュとは裏腹に、二条里は戦後処理に戸惑う事となる。二条里自身は思いの外、人民による抵抗が激しかった為とする。しかし、実際にはこれ以外の問題もあった。

 この頃、ロシアで大崎と阿良川が木田を山ノ井軍の将軍に降格させ、自らが二十個軍団を指揮するように変えている。この二人は、さらに募兵を行い、四十個軍団まで増強するという計画をも立てていた。この二人は、二条里や山ノ井に対して反感を覚えていると、水上は手紙の中で二条里を心配しているが、その動向が気にかかった。また、この頃に大崎の方は帰国し、代理執政官への就任を画策していた。彼にとっては幸いにも、この時は辻杜帝が失踪していたのである。二条里らを失脚させようと思えば、最大の好機はこの時であった。これに対して、二条里は牽制球を放っている。

 また、それと同時に北アメリカ大陸のアラスカ地方の制圧を指示している。制圧と言っても、属州化についてではなく、準本国アラスカとして編入したのである。その為、代表者の選抜や市民権授与に関して多少の問題があったようである。故に、二条里はアレックスから相談を受け、その処理を行っていたのである。実際には、選挙の期日を定め、一部を除いては全ての人民に文輪市民権を与えただけであったのであるが。

 以上の三点の理由から足止めを喰らった二条里は、その手記にもあるように、防衛線を組むに十分な時間を与えてしまったのである。そこで、二条里は軍を二分し、早急に事を決する事に決めたのである。目指すは首都のマドリード。六個軍団を率いた二条里は、第一軍団を先頭に先を急いだ。当然、二条里のこの六個軍団は精鋭である。特に、第一、第四、後に加わる第七軍団と言えば後に伝説の三個軍団と呼ばれるようになる兵達である。強さであれば文輪屈指のものであった。それでも、この行軍で三十人を失っている。

 五月十六日、ロシアの方では何とか文輪が勢力を盛り返し、少しは敗色が払拭されようとしていた頃、十六日には、セリビアを制圧した。そこに、一人の間者が飛び込んでくる。話によると、謎の一隊が南下し、近付きつつあるとの事であった。そこで、二条里は第四軍団だけを率いて軍を北に向けた。守備の全権は柳沢軍団長と第一軍団四千五百に任せられる。これで、準備は十分であった。

 しかし、そこに敵が徒歩で時速二十キロもの速さを出しているという情報が齎された。その為、二条里は行軍速度を第五次にまで高め、先を急いだ。そして、程よい場所に待ち受け、そこに布陣したのである。それから十分ほどして、敵が姿を表した。指揮官はテレーサ第一種戦闘官。これが、二条里にとっては二度目のEUFP軍との戦いとなった。

 開戦直後、テレーサは二条里に向って一騎打ちを申し出る。当然、軍の犠牲を嫌う二条里はそれを受け、暫しの交戦の末にそれを下した。通常ならば、これで全ては決するはずである。しかし、テレーサ率いるEUFP軍はその程度では怯まなかった。寧ろ、指揮官の労に報いるべく、彼等は団結して奮起したのである。

 これに対し、二条里は中央を退かせ、空間を作り、そこに敵兵を誘導してこれを三方から包囲したのである。これで勝負は決した。多くのEUFP軍の兵士達は残る一方に向って一斉に駆け出したのであった。

 この日の戦闘で、八十七名を失い、五百二十三名の負傷者を出したとしている。逆に、EUFP軍は千三百七十五名を失い、八千九百名が捕虜となって敗北したのであった。それに伴い、未だに抵抗していたセリビアの一部の人達が意気消沈して投降した。

 この事を聞き、実際に交戦した後、二条里はやっとヨーロッパにEUFPなる軍が存在するという事を理解したのであった。そして、この事が二条里に次の手を打たせる事となる。

 二条里は捕虜を全て釈放し、休息を与えてから全軍を率いて一路、マドリードを目指した。二条里はこれを、スペインに圧力をかけ、EUFP軍を誘き出すためとしている。だが、実際にはもう一つの理由があった。それは、強力な敵と戦う前に、枝葉は切り落としておきたかったのである。即ち、スペイン軍などにかかずらう気等毛頭無かったのである。

 十九日、マドリードを早々と陥落させると、二つの情報を手にする事となる。一つは、霧峯・内田率いる七個軍団が北部スペインを制圧した事であった。もう一つは、大崎と阿良川が代理執政官に就任したというものである。しかし、その時重要であったのは圧倒的に前者の方であった。故に、二条里は二個軍団をボブに与え、カルタヘーナ等の南部スペイン制圧に送り出した。

 それから、二条里は霧峯と合流すると、第一次行軍速度で北上を始めた。因みに、途中で軍の募集を行なったそうであるが、集まったのは僅かに五千七百。二条里は仕方なく、これで第七軍団を編成した。

 二十五日、その日二条里はサラゴサを制圧したのであるが、そこに、日本から呼び寄せていた勅使川原によって敵軍の接近という情報が齎された。そこで、二条里は自ら偵察に出向き、そこで再びEUFP軍を目にするのであった。

 二条里は最早待たなかった。急いで陣営地へと戻ると、作戦会議を招集して作戦を伝え、第四夜警の前には第一、第四軍団を率いて出立した。そして、第五夜警の頃、第一軍の指揮官であるゲルマニッチェの軍と激突し、それを撃破した後、終にEUFP軍の最高司令官としてのジュリアヌスと対峙したのであった。

 これが、互いにその能力を認め合う者同士が激突した最初の戦いであったが、展開としては至極単純なものであった。最初は一進一退を繰り返していたものの、ジュリアヌスが新しい隊を投入したのに合わせて二条里が敵陣に飛び込み、それを合図に七個軍団の伏兵が襲い掛かると、勝負は決まった。この日の戦闘で二条里側の犠牲は僅かに七十八。対するEUFP軍は二千八百の死者に六万二千が捕虜となった。

 だが、この戦いの最も大きな意義は、EUFP軍の目を二条里に集中させる事に繋がったという事であった。これ以降、EUFP軍の主力は東方から西方に移動してゆく。それと同時に、東欧戦線は一息を吐けたのである。これは、敗北感に塗れていた軍団兵達に安堵感と再起へのエネルギーを蓄えるに十分であったのである。また、二条里による捕虜の処遇も欧州における人民の心情を少しづつではあっても変えてゆくのに役立った。これが後には二条里軍の増強に繋がってゆく。

 以上の事を、恐らく二条里は全て考慮に入れた上で行動したものと思われる。その根拠としては彼の積極的な広告にある。特に、東欧に向けて間者を放ち、その情報が可能な限り多くの人々に伝わるようにしている。そして、この二条里の作戦は的中した。EUFP軍によって押されていた東欧諸軍団は勢いを取戻し、EUFP軍は二条里を封じる為にその重心を西に移したのである。故に、この後の戦いも激戦となった。






   【欧州戦線(三)】


 サラゴサ会戦の後、二条里は四個軍団を編成した。とはいえ、これらの軍団を直接率いる事となったのは上嶋と勅使川原の両人であった。因みに、上嶋は勅使川原と共に欧州へと来た二条里下の『修行者』であり、山ノ井派の一人でもあった。これらの新人二人に四個軍団を付与させるのであるから、二条里も豪快な『修行』を積ませる。とはいえ、これが後の戦いで非常に大きな効力を発揮するのではあるが。

 さて、合計十八個軍団に増大した二条里軍は、それでも、十個軍団だけを率いて東北の方へと進軍した。フランス国境を目指してのものであったとしている。その間に、カルビンはマドリード防衛に、勅使川原はセボリェラ山脈の制圧に、上嶋はボブの救援の任を受け、奮戦していた。故に、二条里はそのまま仏・西国境越えを成せると考えていたのである。

 だが、五月二十八日、フランスとの国境の近くに辿り着いた二条里は、そこで多くのEUFP軍が潜んでいるのを目撃する。さらに、それを受けて偵察を放っている間に、ボブからの急使が飛び込んできた。二条里直々の救援を求めたのである。

 そこで、二条里は軍を二つに分けた。この場合、軍の分け方は自然と夫々の配下の軍団となる。この場合も、二条里は第一、第四、第七軍団を率いてラリサへと急いだ。この時は三時間で着いたとされる。そして、そこで見たのはボブに預けた軍団の燦々たる有様であった。だが、二条里は叱責する事は無かった。ただ、淡々と事情を聞き、一言二言ボブに掛けただけであったという。それ以外の時間は、軽傷の兵士の選別に当てた。

 到着から一時間後、二条里はラリサの攻撃を開始した。開戦当初、二条里軍は優勢に戦いを進め、第四、第七軍団を先頭に、有利に戦いを進めた。しかし、スペインを支配していたレデトール人の攻撃により、その勢いは逆転した。特に、大将であるセデリスト・ギルギニーアの攻撃により、半数近くの軍団兵がその場に崩れ落ちたという。

 これに対し、二条里はギルギニーアに一騎討ちを挑んだ。後には、一騎打ちにて勝る者無しと呼ばれる二条里であるが、この頃は未だ、十分な強さを持っていたというわけではなかった。故に、苦戦したようである。とはいえ、最終的には勝利し、大将を失ったレデトール軍は空中分解した。

 この戦いの結果、文輪側は千五百七十八人を失ったとしている。特に、第四軍団は千百五十八人の戦死者を出し、三千六百騎にまで減少したとしている。また、負傷者も一万七千にも及び、死者は多くとも重傷者は無かった第四軍団を除けば、行軍は不可能であった。逆に、敵側は二千五百の死者を出し、逃げ切れたのは一万騎であったとしている。それ以外は、負傷、無傷の別はあったにしても、捕虜となった。

 この辛勝の後、二条里は第四軍団だけを率いて引き返し、霧峯軍と合流した。そして、数の減っていたEUFP軍を撃破すると、国境を越え、フランスに入ったのであった。

 翌日、二条里は前日の捕虜のうち、参戦を望む者で二個軍団を編成し、それを日本から駆けつけた宮里と安西に預けてスペインの守りとした。その代わり、カルビンには急ぎ合流するように指示を出し、自身はフランス西部の制圧に乗り出したのである。そして、それは予想以上に速やかに行なわれた。手記では、出発した日には西部フランスの殆どを制圧しているとある。実際には、リモージュからオルレアンの間ではなかったかと言われている。その根拠としては、二条里軍の通常の行軍速度と、二条里の性格からして、古代に戦のあった跡をゆっくりと歩んだのではないかとの予測の二つである。事実、二条里は後に、帝政戦争の途中でトゥール・ポワティエ間に立った時には私も時の流れに身を委ねざるを得なかった、と述べている。

 だが、その日の夜に異変が起きた。スイスとルクセンブルクの使者が開城を申し出たのである。

 これに対して、二条里は罠か真実かを抜きにして、この両国に駆けつける事を申し出た。しかし、勅使川原はそれに反対した。当然、理由は罠であった場合の危険性である。だが、二条里の方にも根拠があった。


・罠であった場合、それを見事に解決する事によって、逆に文輪側の外交カードになる事。

・その場合、二条里がそれを解決できる可能性が最も高い事。

・事実であった場合、確実に覇権を広める事が出来る事。

・また、それで行かなかった場合は、文輪軍が降伏した者を受け入れず、受け入れたとしても容易に見捨ててしまう可能性があるという情報が流れかねない事。


 以上が、二条里の考えた四点の根拠である。結局、勅使川原の方が折れた。それでも、二条里が両国に向うのではなく、二条里はスイスに、勅使川原はルクセンブルクに行く事に決まった。

 第一夜警時、二条里と勅使川原はそれぞれ手勢を率いて陣を発った。だが、これがこの夜の戦いを招く。四時間後、スイスに入国した二条里が見たのは、戦闘に十分備えたスイス軍の姿であった。

 これが、帝政樹立戦争における最も激しい戦いとなったフランス戦争の序曲であった。ここで、両軍の戦力を紹介しておきたい。因みに、この兵力は二条里の手記とジュリアヌスの手記とに因った。


――――二条里軍

  二条里   第四、一、七軍団の計三個軍団

  勅使川原  二個軍団

  霧峯・内田 七個軍団

  カルビン  二個軍団

  ボブ    二個軍団

  他     四個軍団

 計 二十個軍団(九万八千五百)


――――EUFP軍

  スペイン    十万

  西方フランス  三十万

  東方フランス  二十万

  スイス     七万

  ルクセンブルク 五万

  南方フランス  十八万

 計 五十個β編成隊(百万・百六十七個軍団相当)


 以上が、両軍の編成である。これを見ても、圧倒的に二条里軍の方が不利である。そのうえ、EUFP軍はこの作戦を全て二条里に向けるのではなく、霧峯・内田の率いる七個軍団に向けたのである。つまり、『罠』に対する獲物は、彼女達であった。これが、二条里の最も大きな誤算であった。そして、二条里も戦闘を通してこれに気付くと、急ぎ来た道を引き返したのである。道すがら、二条里は第一軍団と第七軍団に召集をかけ、第四軍団だけで最強行軍を布いた。但し、第七軍団は直接、霧峯・内田軍の救援に向うよう指示を出している。

 これは、当に的確な判断であった。また、EUFP軍の作戦に気付いた二条里は、南の方を迂回する作戦を取ったのだが、これも見事に的を射ていた。敵部隊と遭遇する事が少なく、また、遭遇した部隊は第一、第四軍団に任せれば良かったが為、夜が明ける頃には、二条里は霧峯・内田軍の救援に駆けつける事ができた。その時、彼の手許に第七軍団も戻ってきた。

 これで、勝負は決まった。二条里が駆けつけた事を知ると、全軍が勢いを増し、EUFP軍のそれを遥かに凌いだのである。激戦ではあったものの、結局は二条里軍の士気の高さが勝因となった。包囲を破るとさらに攻め上がり、この日の終わりには、フランス全土を制圧するに至ったのである。これで、完全にEUFP軍の作戦は失敗に終った。

 この二日に及ぶ戦闘の死者は一万八千二のぼり、負傷者は一万五千にもなったとしている。二条里軍はこの日の戦闘だけで数で言えば三個軍団、割合で言えば実に五分の一を失った事になる。逆に、EUFP軍の死者は九六一八、収容した負傷者は十二万七千、捕虜は二十九万となった。だが、これ以上に大きかったのは指揮官を八名も捕らえた事であった。今までの戦闘ではなかった戦績である。

 以上の戦闘を終えたが、とはいえ、この時の被害は流石に大きかった。二条里は一日の休息を全軍に与える。その間に、捕虜からの志願兵で五個軍団を編成した。

 それにしても、この戦いは二条里の率いた戦いの中では一位二位を争う被害の大きさである。基本的には、二条里は自軍の出血を嫌うが、この時は三個軍団を一挙に失っている。だが、この戦闘はその分、大きな成果を残したのである。例によって、列記する。


EUFP軍の総力による攻撃を防いだ事で、両軍の力量の差を見せ付け、欧州制圧に勢いを与えた点。これは、この後の制圧が加速度的に早くなっている事で分かるが、つまりは、人民による抵抗が弱まったのである。

EUFP軍の罠を退けた事は、如何なる手段を用いようとも撃破は不可能であると印象付けた点。これは、一番目の成果と相まって、EUFP軍に大きな絶望を与えた。

如何なる戦いをしようとも許されるという事によって寛容さをアッピールできた点。これは特に、南アフリカで文輪の覇権下に入ろうか悩んでいた部族や国家を一斉に傘下へと入れるのに役立った。


 以上の三点が、特に大きな成果として二条里軍の上に輝いたのである。とはいえ、流石の二条里もこの時には勅使川原に謝罪している。

「貴方の助言は的確であり、私はそれに従うべきであった。私は貴方とこの戦いで亡くなった軍団兵達に謝罪させていただきたい」

 これは、二条里の手記には見られないが、『新史』の中において、二条里帝の言として紹介されている。どのような成果があろうとも、自身の判断が多くの命を奪った事に対しては、強く反省したのであった。

 さて、西方でこのような死闘が繰り広げていた頃、東欧では、水上及び渡会を中心とした巻き返しの作戦を実行していた。

 先ず、スカンディナヴィア半島の制圧を優先し、そこに兵力を集中させたのである。これは、多方面に展開していた軍を集中させる事を意味したが、流石の連合軍も二十万の文輪軍の前では敵ではなかった。

 次いで、水上は海路から、渡会は陸路からポーランドの制圧に乗り出した。これは、予想以上に上手く行く。軍を二つに分けたポーランド軍は水上の見事な陽動に掛かり、渡会軍の侵攻に対して出遅れた為であった。故に、これも電撃的に行なわれ、五月の二十五日にはドイツへと進撃したのである。

 ここで、文輪に幸運が訪れる。ドイツ国内が、文輪を容認し、受け入れる派閥とそれに反する派閥とに分かれたのである。これにより、進軍はより容易となった。そして、フランス戦争と二条里軍の進撃。これで、ドイツは東西から攻撃を受ける事となった。

 六月三日、終に東西両軍がエルベ川で合流した。東軍は三十万、対する二条里軍は十万であったとされている。だが、EUFP軍は尚もイタリアやギリシアの地で五十万以上の兵力を抱えて健在であった。そこで、二条里は休息を与える事も目的として、率いていた第一、第七軍団を南部ドイツに置いたのである。そして、自身は第四軍団だけを率いてベルリンに入城した。そこで二条里が行った事は情報収集と内政の指示である。特に、この数日間、二条里は全てを戦闘に費やし、情報も内政もひとまず放置していたのである。この事は、二条里に若干の余裕ができた事も示していた。

 だが、二条里に与えられた休息は無いも同然であった。四日の夜、第四軍団と共にミュンヘンへと移った二条里に、翌日、一人の急使が飛び込んできたのである。そして、彼は息も絶え絶えになりながらも、最終事態宣言が発せられた事を二条里に伝えたのであった。

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