④欧州への道

   【ロシア戦線】


 ここで項目を一つ割き、辻杜帝が唯一直接指揮した戦闘であるロシア戦線について触れていきたい。これは、帝政樹立戦争後、数十年にわたって語り継がれ、終には辻杜帝が大帝の尊称を与えられる理由の一つにもなった出来事である。だが、実際の内容としては単に一個軍団で以って、ロシアを二週間のうちに崩壊させたという一言で終わるのである。それでも、これが大帝に繋がる布石となるのは、この戦争が帝国建設へ向けての布石になったからである。

 このロシア戦線の始まりは、ロシアが核兵器の使用を検討し始めたという事実に起因する。これが、二月の頭である。なぜ、このような軍事機密が公表されたかといえば、ロシアが発射前に他国へ安全保障を求めたからである。それは、日本へ打ち込んでも、他国は使用せず、核戦争を行わないという確証を欲したからである。これに、当然として反発する国もあったが、核保有国は条件をつけながらも、それを可としたのである。

 しかし、発射を目前に控えた二月七日、突如としてモスクワの情勢は引っ繰り返った。文輪が、僅かに六千の兵力で政府を覆したのである。その指揮官は辻杜帝。このニュースに、ロシアは無論のこと、世界中が動揺した。

 その動揺の中、辻杜帝は部隊を大隊単位で次々と送り出して核関連施設の制圧を命じ、同時に国内の政情安定に努めた。これにより、確かに混乱はあったものの、大国が一つ崩れた衝撃にすれば、驚くほどに少なかったようである。そして、辻杜帝はロシア国民には手をつけず、作戦を続けて二月二十一日に作戦を完了した。その後、辻杜帝はこのロシアを属州ロシアとして帝国の直轄領とし、帝政樹立戦争後には、これを本国とすると表明したのである。要は、吸収合併であった。

 加えて、辻杜帝は同日に驚くべきことを表明した。これは「辻杜指針」として、以後の帝国に引き継がれる精神となるが、核兵器・生物兵器・化学兵器の全廃を宣言したのである。しかも、その主導は帝国政府ではなく、中小の団体からなる外部機関に委託したのである。これに、大国の核保有を嫌う中小国家は賛同した。特に、これらの国家は辻杜帝が記者に答えた言葉に感動していた。それを、ここで紹介したい。

「今、我々が行なわなければならないのは、分裂ではなく統合である。来るべき未来は、世界が一つの国家として運営され、一国が利益を主張する形であってはならない。故に、その障害となるものを私は排除するつもりだ。一つは、国境。これは、どのような形であろうと消してゆくつもりであり、これがこの一連の戦争の目的でもある。その為、敗者にも同盟者にも友人として、帝国の運営に参加してもらっている。こちらからの干渉は不要であるが、こちらへの干渉は必要不可欠だからである。私としては、次の皇帝は日本人ではなく、世界で最も優れた政治力を持った人であることを望んでいる。そして、もう一つの障害であるが、それは核兵器である事を私は信じて疑わない。この人類の惨禍は、多くの人々を苦しめるだけでなく、各国の平等性を不当に犯すものでもある。第一、友を作るに、棍棒を持って脅すようなやり方は有益ではなく、馬鹿馬鹿しいとしか言えまい。そして、この金を食うだけで何ら我々に利益をもたらさないものは、二十一世紀においては消え失せるべきものであろう。それよりも、互いの言葉に立脚して、政治は動かされるべきである。そして、それだけが人類を破滅から救う近道である」

 現代の政治がこの一言で体現されるようであれば幸福であろうが、実際の世界はこのようには行かない。そういった意味では、この平行世界は非常に幸福であると考える事もできよう。だが、この裏には来るべきレデトールとの戦争が念頭にあった事も忘れてはならない。その時は、人類全てで戦う必要があると、辻杜帝は考えていてもおかしいところはない。想像ではあるが、「人類を破滅から救う」という件は、このことを暗示していたのかもしれない。

 とにかく、ロシアを制圧した辻杜帝は、このような中で帝国の勢力を拡大し、志願兵などで十個軍団を編制するにまで至った。ここで、帝は大崎と阿良川にこの軍団を任せ、さらには、皇軍から六個軍団を割き、東欧戦線の構築を命じて本国に戻ったのであった。






   【北米戦線(二)】


 二月十五日、ニューヨークの近辺の制圧も完了し、休息も十分に与えた二条里は、急ぎ南下を開始した。その頃の二条里軍は南北の軍を合わせて十三個軍団を率いる身であり、一個軍団の頃から比べると大きく成長していた。それでも、彼は事あるごとに各軍団を回っては、そこで寝食を共にしたという。これは、晩年になるまでの彼の癖とも言うべきものであり、その為に彼はどのような兵士からでも親しまれ、かつ、信頼されていた。そして、その同僚である霧峯も内田も、同様の方法を用い兵士たちからの信頼を勝ち取っていたという。

 さて、このように順調な行軍を続けていた二条里軍であったが、二月十八日、一日遅れで東亜と中東における敗報が二条里の下に齎された。この時の心境を、手記では一切語っていないが、「この報告を受け取ると、私は速やかに軍を南下させ、ゲティスバーグ南に布陣する敵軍へと急いだ」という事からも、彼が僅かながらに動揺したということは明確である。その為か、その後の行動も早かった。

 二月二十日早朝、二条里はゲティスバーグに待機していたアメリカ軍を急襲した。無論、行軍速度を予測していたアメリカ軍はこれに応戦する。だが、この日の二条里軍は勢いが違った。まず、二条里自身が列からはみ出すほどの勢いで突撃し、先頭を切って敵陣地に飛び込んだのである。後れを取った軍団兵も、司令官を殺させまいとこれに続き、怒涛の勢いでアメリカ軍を屠った。

 夜明けから僅かに二時間で終結したこの戦闘を、二条里は自らゲティスバーグ南の奇襲と名付けている。正攻法ではなかったと、彼自身が認めたのである。だが、その成果は確かに大きなものであった。一万二千もの死傷者と八万の米軍を捕虜としたにもかかわらず、二条里軍の損害は僅かに死傷者が三百名程度であったという。この大勝に、二条里軍全体が沸いたのである。

 この戦いの後、二条里独裁官は他の二戦線へ向けて使者を放った。但し、これは何かの連絡の為ではなく、苦境に立たされた友への励ましであった。ここでは、現存している、山ノ井常任委員長への書簡を紹介する。



  山ノ井幸一常任委員長へ


 昨日、急使の報により、貴方の軍が壊滅したと知りました。貴方の活躍は遠い北アメリカの地で聞いておりましたが、この突然の知らせに、正直、未だ信じる事が出来ないほど混乱しています。それでも、この手紙を書くうちに、皆さんの苦境が思われ、非常に心苦しいものです。

 しかし、ここで落ち込み、引き下がっていてはなりません。寧ろ、積極的に動くべきです。確かに、二十個軍団の壊滅は誰よりも貴方にとって大きな悲しみであった事でしょう。それと同時に襲い掛かる敗北という現実も心痛めるのに十分なものであります。私も先日、痛々しい敗北を喫してしまいました(カンベンとの戦いの事か)が、前に進む事で更なる勝利を得る事に繋がりました。また、本日にはゲティスバーグにて勝利を収めました。これを広めれば、文輪の威が伝わり、自ずから、戦う者は少なくなるでしょう。

 今は苦境の中に在ります。しかし、決して希望を捨てるような事は成されないで下さい。私達の崇高な理想を現実のものにするには、避けては通る事の出来ない道なのであります。寧ろ、今こそ、チャンスだと考えるべきでしょう。苦境の中で新たな道を開く可能性に巡り会えたのです。この機会を最大限に利用し、世界帝国を築き上げていきましょう。

 遠い地より、皆様の、常任委員長の勝利をお祈りしております。


 二月二十一日

     文輪二代執政官  二条里 博貴



 二条里執政官は相手が誰であろうとも、その相手に好感を抱かせる名手であったという。後には、多くの敵将を抱きこみ、文輪の中に組み入れてゆくが、それを成し得たのは、このような部分に現れる彼の気配りも一つの要因ではなかったか。

 また、彼は逆境を恐れる事も無かった。二条里はその執政官、独裁官、皇帝の時代を通して、一度も自己の苦境を嘆いたり、悲しみに暮れて全てを放棄してしまう事は無かったのである。当然、人並みに悲しむ事はあった。それでも、その直後には切り替えをし、敗北ならば勝利に、失墜ならば栄光に繋げている。

 話が逸れてしまったが、このようにして勝利を得た二条里は、敵軍の捕虜を即日解放すると、更なる勢いで南下し、首都であるワシントンを目指した。間者からの報告では、そこに大統領であるジョージ・ウィルソンと副大統領とが共に居座っているということであった。これに、二条里はレデトール星人との戦闘を考えたと、手記の中にはある。確かに、アメリカ合衆国では大統領と副大統領とが同時にいることはまずない。片方が倒れても、国家運営ができるようにするためであるが、この原則を破ってまで一緒にいる意味はそれ以外には考えられなかった。また、危険が迫っている中で、国家元首が逃げないというのも、その証拠であろう。それでも、二条里は怯むことなく進軍し、二月二十三日にワシントン攻撃を開始した。

 激戦であったと、どの史書も同じ表現でこの戦いを形容する。唯一、この表現を用いなかったのは二条里自身の手記だけであり、その中では、この戦いをこのように表現している。

「二条里軍は朝から晩まで戦い続け、交代もなく、負傷兵ですら、前線で戦い続けた。それでも、ホワイトハウスへと入るには、一昼夜もかかった」

 事実、ホワイトハウスの前には三重の囲みがあり、それを突破するのに、一晩かかった。そして、その囲みを突破すると、二条里と霧峯・内田の三人でその中へと突入した。無論、通常の軍ではレデトール人との戦闘は大きな犠牲を出すと判断したためである。この間の指揮は、第一軍団の軍団長である柳沢に一任された。

 しかし、ホワイトハウスの中で待ち受けていたのはレデトール人でないことが間もなく明らかとなる。実際には、それよりももっと深刻な平行人の一派でであった。






   【平行人と相違空間】


 ここで、もう一つの文輪の敵となったものの正体について言及しなければならない。ただでさえ、レデトール人がおり、繁雑を極めるのだが、これについても詳述しない限り、話が先に進まないので仕方がない。

 まず、相違空間の説明から。

 相違空間とは、体則及び技令によって創造された空間のことである。要は、外付けの世界であり、パソコンと外付けのハードディスクのようなものであった。しかし、ハードディスクと相違空間の違いは、ハードディスクが外的要因(人間)によって設置されるのに対し、相違空間は内部にある人間が設置できるところである。また、この創造には大きな力が要るために、小規模なものならともかく、地球に匹敵するほどの大規模なもので、永久的なものは滅多に存在しない。

 しかし、この一連の世界では存在し、その中では文明が営々として築かれていたのである。それが、「平行相違世界」と呼ばれることになるものであり、この項のタイトルでもある平行人はこの世界の住人である。故に、彼らは強力な体則と技令の能力を持ち、通常の世界とは異なる文明に生きていた。

 だが、その歴史は悲惨である。彼らの祖先は、当時の支配者に追われてこの空間を創造し、逃げ込んだのである。レデトール人も同じような経緯であったが、この後の展開も、それと同じである。(出てくる支配者も同じである)その為、ここでは割愛するが、結局は支配者の子孫の死滅に伴って分裂し、レデトール星とは異なる運命を歩んだ。大小の国家が乱立し、それがやがては大きな四つの国となって、地球との対決姿勢を鮮明にしたのである。しかも、その中でその姿勢をとったのは、強硬派で、最大の国家であるギジガナアニーニア帝国であった。逆に、第二位の大きさを持つユヌピス王国は、平行相違世界の繁栄のために、地球との共存を試みたのである。これは、国際問題にまで発展し、最終的にはギジガナアニーニア帝国は単独で対決を試みたのである。それでも、外部には仲間があった。それが、レデトール星である。

 両国は、互いに不可侵を誓った。その上で、共通の敵である地球を撃破し、その領土を分かち合うものと決めたのである。これで、ギジガナアニーニア帝国の動きは活発なものとなった。まず、平行相違世界第四位の国家であるドレドステア共和国が一蹴された。僅か、三ヶ月の間に首都を蹂躙され、住民はその殆どが奴隷とされた。これにより、平行相違世界の勢力均衡は崩れ、それを後ろ盾にして、地球への介入を深めて行ったのである。そして、ギジガナアニーニアはレデトール方式を踏襲し、アメリカにその勢力を築いたのである。その中で、二条里らによってアメリカは蹂躙され、ここまでの勢力縮小を求められたのである。これには、武力で対抗するより他にはなかった。

 二月二十四日、二条里らはこの中に飛び込んでいった。ジョージ・ウィリアムと二十七名のギジガナアニーニア人がその中では待機しており、死闘を繰り広げたと、二条里は手記の中で振り返る。特に、ウィリアムとの戦闘では、二条里は重傷を負い、三日三晩、生死の境を彷徨っている。それでも、戦況は常に文輪のほうに傾いており、同日の夕刻には、ホワイトハウスの占拠が完了した。ギジガナアニーニア人は全て戦死。文輪側では、二条里が病院へと搬送された。

 二条里が戦闘不能状態である間にも、戦闘は続く。しかし、主導的に戦いを進めてきた大統領の死は、アメリカという国家に、大きな衝撃を与えた。同時に、その大統領がアメリカ人でないという事が報道されると、国内は完全に混乱した。故に、この後の戦闘は戦後処理に近く、三月三日には戦闘終結宣言が発布され、アメリカは文輪の属州として編入されると決まったのである。ロシアに続く属州であるが、その対応も同様であり、帝政樹立戦争後には本国編入が約束された。

 以上の処理を終えた二条里は、本国への帰還を果たす。指揮下の十三個軍団は、アメリカ属州に残されることとなった。彼らに与えられた次の仕事は、欧州戦役に向けての準備と休養である。また、本国に帰還したところで二条里は独裁官を退任した。元々、独裁官の任期は六ヶ月である。それでも、この非常時の大権委譲は長期化されるべきでなかったと、二条里はその手記で述べている。その後、執政官も任命されなおされ、三代目執政官には、二条里と霧峯とが就任することとなった。内田が解任される形となったが、内田は新たに設けられることとなった初代補欠執政官に、デスフォート・クラッフスと共に就任することとなった。この補欠執政官は、執政官の補佐役に相当し、皇帝がその必要性を認めた場合に独自、または執政官選挙で得票数の次点を得た者を任命することができた。任期は執政官と同じく二年であり、途中で執政官が空席となった場合には、繰り上がって執政官となった。執政官の空席を避けるのも、この官職の目的であった。

 さて、以上のような処理を受けた上で、二条里と霧峯の両執政官はオーストラリアに向けて出発した。この時、二条里に与えられたのは、皇軍の四個軍団であったという。これにより、残った皇軍は一個軍団となるのだが、辻杜帝は、僅かなこの兵力で本国を防衛できると確信し、二条里も、これだけの兵力があれば十分と考えていたようである。ともすれば喜劇に見えるが、この頃の文輪が抱えた最大の問題は、兵力の少なさであった。辻杜帝も、二条里になけなしの軍団を搾り出したのである。しかし、二条里はこれでも多い位ですと、笑って見せた。この辺りに、帝政樹立戦争の悲壮さが見え隠れしないでもない。

 とはいえ、実際に二条里はこの四個軍団で全てのことを終わらせてしまう。三月十七日に作戦が開始された豪州戦線は、四月十日のキャンベラの会戦を最後に、終結するのである。その間、二条里がその兵力を拡大することはなかった。そして、彼はこの戦闘が終わると、すぐに霧峯を引き連れて属州アメリカへと戻ったのである。この理由は、この時既に始まっていた欧州戦線に参加するためであったという。その為、残りの四個軍団は二つに分けられ、片方はそのまま属州となったオーストラリアに残され、残りの半分は本国に帰還することとなったのである。属州総督は、デスフォート・クラッフスと決まった。

 こうした中で、帝政樹立戦争は後半を迎えようとしていた。







   【東亜戦線(二)】


 欧州戦線へと移る前に、残った二戦線の経過を追わなければならない。

 二月十七日の敗戦により、大きな打撃を受けてしまった山ノ井軍は、その軍の再建を水上法務官に委ねた。この時、山ノ井自身は西安会戦で負った深手の治療するのに、その力を注がねばならず、それだけの余力がなかったのである。とはいえ、全軍の前に立つことは止めなかった。その為、各軍団に山ノ井への信頼が芽生え始めたのである。重傷にも拘らず、それを押して出て来る常任委員長には、感服したのである。これを、水上は利用し、集中的に訓練を与えることとした。これが、この後の戦いではプラスに繋がる。また、兵力の損失を補うべく、新兵で以って不足分を補い、全軍を定数の六千とした。また、同時に、本国の予備兵のうち三個軍団を招集し、合計して三十個軍団、十八万の兵力を集結させたのである。そして、この全兵力を以って、北進を再開したのである。

 この時、三人の人物を文輪に引き入れている。孔李蘭と金中延、尹周全を司軍官に任命し、それぞれに三個軍団を任せた。水上は、これによって各軍団の把握を充実させようとしたのである。事実、これによって各軍団の指揮系統は充実し、戦闘時の機動性は拡大した。

 ここで焦り始めたのが、中国政府である。一度は、打撃を与えたはずの文輪がその勢力を回復しつつあるとの報は、共和国政府を再び土俵に上げるのに役立った。加えて、山ノ井らは言論の自由を保障し、文輪批判の報道に対して、一切の訂正も削除も加えさせなかった。その分、彼らもメディアに対して情報を公開し、丁寧に案内することで、報道記者の心象にプラスのイメージを与え続けたのである。これにより、一部の報道は文輪に傾倒し始めたのである。一種の熱狂が各都市で革命前夜の様相を示し始めた。共和国政府も、再び王穎丙の特別軍の発動を決定した。

 三月二日、瀋陽の西で遭遇した両軍は、互いに決戦を急いでいた。山ノ井軍の方は、二条里軍の北米戦線終結に焦り、共和国政府のほうは、典伍式への兵力集中の為に焦っていた。その為、彼らは盛んに小競り合いを繰り返し、その戦機を探り続けたのである。そして、その戦機が七日に訪れた。

 その日、王穎丙は騎兵を繰り出し、文輪側の水上は精鋭である第二軍団を繰り出していた。本来、騎兵と歩兵とでは、単純な戦力において差が出てしまう。その為、この小競り合いでは、必ず騎兵戦では王軍の方が勝利を重ねていた。だが、この時はその様相が違った。兵力が互角であったにもかかわらず、第二軍団の小隊が騎兵団を押し返したのである。これに、山ノ井軍は大いに沸き立った。これに、全軍の士気が十分に高まったという確信を得た水上は、攻撃の開始を命令した。

 南中の直前に始まったというこの会戦は、文輪の一斉突撃によって幕を開けた。今度は、一糸乱れることなく、三列横隊を保ちながらの攻撃である。これだけで、人民解放軍はやや気後れしてしまう。しかし、王は自ら左翼の騎兵団をその隷下に収めると、全軍に突撃を命じ、騎兵には、両翼からの包囲を命じたのである。

 包囲は驚くほど簡単に行なわれた。側面から背後に躍り出た騎兵団は、そこからの攻撃を開始しようとする。だが、ここで彼らも挟み撃ちにされたのである。

 この時、挟み撃ちを担当したのが、水上の創設となる、機動兵である。この兵科は、速攻や追撃など速さが求められる時に用いられるものであり、後には、騎馬隊によって編制される。だが、水上のそれは単に、全軍の中から足の速いものを集め、それで特殊訓練を施した一隊に過ぎなかったのである。故に、徒歩であった。それでも、彼らが一丸となった時の突撃力は凄まじく、通常の騎兵団に相当したのである。これを、水上はわざと布陣させず、陣営地の守りに利用した。そして、敵軍の騎兵が左右に躍り出たところで出撃を命じ、陣営地を捨てての攻撃を開始した。

 これにより、混乱を生じたのは王軍の方であった。背後から襲撃され、また、文輪の第三列によって包囲された彼らは、成す術を知らなかった。王穎丙は右肩を負傷してから捕虜となり、それに伴って騎兵団も降伏した。

 歩兵は、それでも、奮戦した。騎兵が降伏したと知った後でも、各将校の命令に従い、忠実に戦い続けたのである。だが、やがては手の空いた機動兵の突撃によって瓦解し、その多くが捕虜となった。

 夕闇の深まる頃に終結したこの瀋陽会戦により、人民解放軍は十三万が捕虜となり、七千二百が死傷した。一方、文輪側の死者は八百七十と少なかったものの、負傷者は全軍の半数である九万にまで及んだ。

「この日、文輪は新たなる時を迎えた」

 これは、当時の史家である黒岩巳喜男の『新史』第一章の序文にある一言である。彼は、この時には文輪の会計監査官として水上に従軍していたのだが、この決戦で感銘を受け、史家の道に進むのである。故に、彼の史書の中には水上の記述が異様に多い。そして、彼はこの戦いの意義を以下のように書く。

「この日の勝利は、単に中華人民共和国に勝利したという事に意義があるのでは無い。文輪が多くの人材を抱えているという事を初めて示した事に意義があるのである。それまで、文輪の中で十分に戦う事が出来たのは二条里・内田・霧峯執政官及び辻杜帝だけであった。それが、この日を境に、多くの人材が十分に戦闘を行う事が可能になるのである。その先駆けを作ったというのは大きな事であり、一人の英雄が国家を支えるのではなく、全て人民が支えるという機会平等が正式に成り立つのである」

 これは的を射た意見であるように思われる。確かに、巳喜男の述べている四人は文輪史上最良の指揮官の部類に入る。しかし、それでは英雄達が支えるだけの「国」であり、多くの人々が単なる被支配民となってしまう。彼らの理想からかけ離れてしまうのである。それが、この勝利によって回避され、多くの人々が自らの能力を全て捧げる事で支える「国家」となるのである。

 そして、この意義が分かったのか、二条里も水上に手紙を送っている。その一部を紹介したい。

「今回の勝利は、私や辻杜先生が今までに築き上げてきた戦跡を遥かに凌ぐものだった。この勝利により、アジア戦線の行方が定まっただけでなく、帝国の行く先も綺麗に定められたからだ。恐らく、君の功績は未来栄光に亘って伝わり、この帝国も大きな力を得る事だろう」

 このように、勝利者としての栄誉を味わい、かつ、多くの賞賛を受けた水上であったが、彼自身は勿論のこと、山ノ井も今上も、これによって目が曇ることはなかった。彼らは、勝利の余韻を残しつつも、残った地域の制覇を典伍式軍と連携しながら進めたのである。これにより、中国は統一され、三月二十日には、戦闘終結宣言を発したのである。

 三月二十二日、山ノ井は中国を離れることを決定した。あくまでも、山ノ井の目的は典伍式の援助であり、統一後には、長居無用であったからである。その為、彼は指揮下の軍団を次々とロシアに送り、そこから、ヨーロッパへの輸送を依頼したのである。そして、その手配を済ませてから、山ノ井は典伍式と対面した。

 互いに勝利者である彼らは、顔を合わせるとすぐに、深々と礼をしたという。そして、山ノ井が協力への感謝と連盟自主権の付与を申し出ると、典伍式は笑った。

「いやはや、文輪は大きな国になられた。今では、アメリカもロシアも従えている。私も、その原動力を拝見させていただいたが、それで納得いたしました。我々は文輪の傘下に入って正解であったと」

「いえいえ。私のほうこそ、貴方のカリスマ性と器の大きさには、感服させられました。いかがでしょう、後に文輪皇帝となられては」

 この一言に、典伍式は大いに笑った。だが、この冗談とも取れる話は、後に現実のものとなる。典伍式は第五代文輪皇帝となり、帝国の礎を築く人物となるのである。

 このように、諸事を済ませた後で、山ノ井らは中国を後にした。そして、三月二十八日、再び日本の土を踏むのであった。






   【中東戦線(二)】


 欧州戦線に向けて辻杜帝が準備を始めた頃、中東では渡会以下二十個軍団が失踪していた。失踪、という表現を用いるのは、実際に彼らの位置を文輪本国は把握する事ができず、大いに混乱したためである。また、史書の中にもこれを説明するだけのものは存在せず、歴史の謎の一つとして残されている。それでも、この彼らの位置を正確に把握していた人物があった。それは、北米の統一に邁進しているはずの二条里である。

 なぜ、本国も知り得なかった情報を二条里が掴んでいたかと言えば、彼が持つ重宝部隊のレベルの高さがあげられよう。後には、これが二条里自身の人生を大きく左右する事となるが、彼は独自に間者の集団を持ち、諜報活動を絶えず行なわせていた。その為、自分の担当地域の事はもちろんの事、本国の様子や他の属州の様子、はたまた敵国の情勢までの殆どを把握している。二月十七日の敗北も、帝国の正式な情報より早く、その内容を知りえていた。故に、その後の彼らを把握する上で重要な足跡と根拠地とを割り出すのに、渡会らの行動に遅れる事はなかったのである。

 三月八日、二条里執政官はその手記の中で、渡会らと面会したと記している。そして、手記の内容が真実であるとすれば、渡会は二十個軍団を回復し、再びその指揮下に入れていたとある。ただし、出陣には問題があった。彼の分隊の指揮官で司軍官の位にあるミリイという少女が凶弾に倒れ、重傷を負っていたのである。この少女は、その経歴が一切不明であり、渡会達が見つけたときには、その記憶を失っていたという。そこで、渡会がミリイという名前をつけ、指揮官に迎え入れている。その少女に対し、二条里は手当てを施し、その間に内田と霧峯とが二十個軍団の訓練を担当した。

 三月十日、治療を終えた二条里は帰国の途に着き、それと時を同じくして、渡会軍は再び行動を開始した。

 この時、文輪は直接的にその軍をイラクやイランに向ける事はなかった。まず、それをトルコに向けて進め、援助を求めると同時に、同盟の締結を求めたのである。これに対して、軍を発動しての抵抗を試みたトルコも、渡会軍の猛攻の前に、あっけなく陥落した。それでも、渡会は同盟の条件を変えず、軽いものとしたために、同盟締結に漕ぎ着けることができた。この裏には、内政官の土柄の外交交渉があったとされる。

 このようにして、トルコを本拠とした渡会軍は、その軍を東に向けた。その上で、土柄は部族長の懐柔や民衆の扇動を行い、少しずつその勢力を拡大した。これに、イラクとイランの両国が危機感を覚えたのは言うまでもない。だが、今度は連携をする時間すら、与えられる事はなかった。渡会は、前回の同盟の不履行と破棄を理由に、イランへの侵攻を決定した。そして、決定しさえすれば文輪の軍団兵は迅速に行動できる。

 三月三十日、イランへと侵攻すると、渡会軍は首都を一日のうちに陥落させた。この電撃的な攻勢に、イランは混乱する。そこで、渡会は略奪等の行為を行なわず、同時に、宗教の自由と法制度のおよその保持を確認したうえで、属州化を宣言する。捕虜となった指導者の処刑も、ほとんど行なわれなかった。例外は、あまりにもひどい汚職を行なっていた三人が、財産を没収されただけであった。そして、税制の単純化により、イランは抵抗する余裕も与えられなかった。

 四月二日、五個軍団をイランに残した渡会は、夜の間にイラクへと侵攻した。先頭を渡会が二個軍団で進み、それに十三個軍団が追いすがる。懐柔された部族長には手を出さず、文輪の覇権を認めた部族長にも手を出さず、文輪の受け入れを拒否した部族長にのみ攻撃の矛先を向けた。これにより、部族長達は先を争って渡会の下を訪れ、恭順を誓い始めたのである。

 四月八日、渡会はイラクとイランとを合わせてペルシア属州とすると宣言し、全域に信教の自由を与えた。ただし、これに背き、武力を行使しようとした部族に対しては容赦ない報復を行なうとも付け加える。さらに、数日中には中東全域を制圧するに至り、その領域を三つに分けて、属州アラビア、属州ペルシア、属州メソポタミアとして文輪に編入する。このようにして、中東は統一され、『中東属州』が完成したのである。

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