③三方面作戦

   【帝政樹立戦争】


 日本政府を転覆させ、完全に独立した文輪は、次の政策として、直ちに辻杜帝が韓国へ、山ノ井執政官は中国へ、二条里執政官はアメリカへと向かった。そのうち、辻杜帝と山ノ井執政官は今回の建国について賛同を得るのが主要な理由であった。ただし、これは表向きのものであり、実際には、同盟を締結するべく、向かったのである。ゆえに、山ノ井には条約締結権が与えられていた。一方、二条里執政官の方には国連参加の模索が求められた。こちらの方は、欧米諸国、特にアメリカが交渉前に反対の意思を表明しており、厳しいものとなる事が容易に予想された。加えて、アメリカとロシアが合同で安全保障理事会に文輪の制裁決議案を提出しようとしていた。

 十二月七日、辻杜帝は韓国政府との会談に臨む前に韓国メディアの取材を三つも受けた。いずれも、単独でのインタビューであったという。そこで、辻杜帝は必ず「歴史上の兄」とした韓国からの協力を求め、深々と頭を下げ続けた。

 これに加えて、会談の前日には戦争関係の資料館や史跡を熱心に回り、解説者の話をよく聞いていたという。そして、その全てで護衛をつけず、傍には通訳と法務官の渡会だけが付き従っていた。その為、市民は誰でもその姿を捉えることができたのである。また、誰でも質問を投げかける事ができ、辻杜帝はその多くに答えていった。こうして、韓国政府との会談に挑む前には、辻杜帝の名前は韓国人の多くが知るところとなっていたのである。

 十二月十日、辻杜帝は韓国政府との交渉を行い、翌日には同盟の締結を決定した。しかし、その中には驚くべき条文まで含まれていたのである。

 まず、韓国政府に対して内政干渉を行なわないにもかかわらず、韓国人が常任委員会に参加する事を求めたのである。それも、その指定方法は韓国政府に委ねられ、文輪にはその権限は存在しない。また、帝国選挙における投票権を全て韓国人に与えたのである。加えて、韓国との二重国籍も認め、帝国の国籍さえ所持していれば、自由な往来が可能となった。

 この対価として、韓国に求められたのは、韓国内部の防衛時の兵力供出義務と、社会資本整備協力のための費用を負担する事だけであった。それも、全額ではない。研究者の試算では半額程度であったという。

 この内容での同盟締結を認めた韓国政府は、それと同時に、文輪を日本に代わる独立国として認めたのである。だが、この動きに危機意識を持ったのは中国政府であった。

 中国政府にとって、今までの日本は三つの意味で与しやすい相手であった。第一に、敗戦国である日本は容易に、中国に対して強気に出る事をしなかったこと。第二に、外交が稚拙で、容易に利益を追求できたこと。第三に、軍事力が弱く、アメリカさえ黙らせれば戦争でも勝利しうる事。これらの理由により、中国は日本を放置していたのである。だが、それが文輪の出現によって大きく狂う事となる。まず、相手国の心理を利用し、また、民衆の心を先に掴む事で外交を有利に進めるという技術を身につけていた。即ち、日本政府よりも数段は外交が上手かったのである。また、文輪の軍団兵は、少数といえどもアメリカ軍を撃破し、その軍事力が強力であることを示していたのである。ゆえに、中国政府も放置を許されない状況に陥る事となり、安保理でアメリカ・ロシア案に賛成する意向を決定したのである。そして、十九日には山ノ井執政官との会談を拒絶し、文輪の主権を認めないと通告したのであった。

 だが、同じ中国でも文輪に目をつける組織は存在した。彼らは、文輪と中国政府との交渉が決裂したのを確認すると、山ノ井執政官を招待したのである。その組織は、典伍式率いる反乱軍の一味であった。

 山東省のどこかで会談を開いた両者は、三日三晩に及ぶ論議の末に、以下の項目を締結した。


一、 典伍式軍は文輪帝国の覇権を認める。

二、 文輪帝国は典伍式軍の為に山ノ井以下七個軍団を援軍として派遣する。

三、 派遣時の兵糧は全て文輪自身が負担し、典伍式軍はそれを一切、負う事は無い。

四、 中華人民共和国政府との戦争終結後、中国は連盟自主権を与えられた上で、文輪帝国の自治州となる。

五、 この同盟の効力が発動されるのは二〇〇二年一月四日からであり、以後、五年ごとに更新される。

六、 文輪帝国の支配領域が世界全域に及んだ時、中国は文輪帝国の本国となる。


 ここで、連盟自主権という言葉が利用されているが、連盟自主権とは、与えられた地域が税・兵役の義務を負うと同時に、文輪による社会制度整備や経済支援を受ける事の出来る権利である。それと同時に、防衛される権利、自治域内において法を定めて政治と裁判をする権利、人民全体が文輪市民権を得る権利が与えられる。その為、この権利を得ると同時に、常任委員会における議席を得る事となる。最初は、三議席までではあるが、それ以降の選挙においては独自の候補を立てる事が出来る。その上、それまでは自地域への法案に対する拒否権を持ち、領域内に軍隊を置く事も許される。つまりは、ほぼ本国と同様の権利を得る事が出来るという事である。

 中国政府からの拒絶に対して、山ノ井は揺さぶりをかけることにしたのである。そして、山ノ井は文輪帝国に戻ると、第十軍団から第十六軍団までを召集し、訓練を施した。条約の内容が中国に知れ渡り、中国からの宣戦布告を待ちながらの準備であった。

 一方、同じ執政官でも二条里の方は、非常に苦しい外交を迫られる事となった。まず、常任理事国に文輪肯定派の国家が無く、安保理においては既に、制裁決議の審議が行なわれていた。その上、常任理事国は経済封鎖を開始し、加えて、制裁及び経済援助を掲げての貿易の妨害をも始めたのである。これには、文輪も悲鳴を上げざるを得なかったのである。

 だが、二条里は外交努力を忘れなかった。まず、日米安全保障条約の破棄を宣言し、逆に、その分で浮いた歳費を中南米の経済発展に回すという政策に出たのである。さらに、ロシアや中国にはエネルギー支援を申し出、アメリカに対しては他国との開戦時に軍団派遣のの用意ありと告げた。加えて、東南アジアやアフリカの地雷除去協力や農・工業支援を提言したのである。

 この間に、二条里は帝国に対して独裁官の擁立を求めた。この理由は『手記』の中に、アメリカに対する防衛線の構築のためであったとある。事実、この直後に二条里は、第一軍団をアメリカ本土に密航させている。二条里自身は最悪の場合、このままの状態で開戦をしようと考えていたのである。

 それでも、二条里は最後まで外交努力を続けた。ワシントンにも行き、多くの高官と会談を重ね、底辺からの巻き返しも狙ったのである。だが、結果は変わる事はなかった。十二月二十五日、国連安保理は文輪への制裁をついに決定した。すなわち、文輪は国連軍の下に制圧されるものと決められたのである。その軍の主力は米・中が務め、後方支援をロシアが中心となって行うという事まで決められた。この事は同時に、国連が結成以来始めて機能されると決まったという事をも示している。つまり、文輪に対しては旧東西両陣営が危機感を覚えたという事でもあった。

 しかし、この裏で文輪は明るい材料も手にしていた。それは、発展途上の中小国家からの支持を得た事で食料の補給がある程度までは維持できたという点である。また、アメリカとの離縁により、自由な外交を展開できるようになった点も、文輪にとっては大きな利点であった。そして、何よりもこの事実上の宣戦布告により、文輪は戦争を仕掛ける大義名分を得たという点でも大きかったのである。

 二〇〇二年一月一日、文輪は両院体制の下での政治を開始した。初代常任委員長には山ノ井幸一が就任し、二代目執政官には二条里博貴と内田水無香とが就いた。そして、その同日に二条里は内田から指名を受けて独裁官に就任したのであった。ただし、この時は三部統合協議会を設置せず、機動兵団長主席を空席に、機動兵団長副長には同僚執政官の内田を任命した。これは、二条里が特別軍部を有すると宣言した瞬間でもあった。

 また、この日に両院が正式に組織される事となった。この中には、今までに出てきた渡会や水上が各々法務官や護民官として参画している。また、新たに大崎や阿良川などが内政官や法務官として参画している。文輪は、新たな人間を求めていたのである。だが、全てのポストが定員通りに設けられたわけではなかった。未だ、多くの席が執政協議会には残されていたのであった。

 これらの準備と外交問題で忙しかった辻杜帝であったが、それでも、その日の夕刻にほぼ全ての議員を集めて所信表明演説を行なった。これ以降、新年の恒例行事となる所信表明演説であったが、辻杜帝のそれは、非常に簡潔であったという。この後の第一次文輪彼我戦争によって資料が紛失してしまっているために、概要しか後世には伝わっていないが、その内容は非常に簡潔であったという。超大国による威嚇に対して、正面から戦いを挑むと宣言したとも言われている。とにかく、この年は長崎で行なわれた演説によって、これから半年の文輪の指針は定められたのである。そして、この四日後の一月五日、辻杜帝は国連に対して宣戦布告を発し、帝政樹立戦争が始まるのであった。






   【北米戦線(一)】


 一月五日に宣戦布告を発せられたアメリカは、しかし、これを真剣に受け止める事はできなかった。文輪とアメリカとの間には大きな国力差があり、旧来から考えると、戦力にも大きな差があったためである。そのため、アメリカ内部では日本侵攻へ向けての準備中でしかなく、それ以上には、大した準備をしてはいなかったのである。

 だが、この認識は覆される事となる。一月十四日、突如としてサンフランシスコ一帯で文輪の一隊が軍事作戦を開始したのである。これに、カリフォルニア州は州兵を差し向けたが、文輪はこれを破り、翌日の昼には市内全域を制圧したのであった。

 この電撃作戦に、アメリカ政府は真剣な対策を求められることとなり、すぐさま、四軍を投入すると決定された。だが、その間にも五万近くの兵力を抱えた文輪は勢力を拡大し、州兵では対抗できない勢力となってしまったのである。

 とはいえ、これらの兵力を二条里は全て自らで集めたわけではなかった。五万といえば八個軍団であるが、そのうち、二条里が文輪として供出したのは、僅かに一個軍団だけであったのだ。では、残りの五個軍団はどこから生じたものなのか。この答えは、アメリカ国内で起きた反政府運動の結果であった。正しくは、アメリカ自由連合が文輪の傘下となったのである。この主要な構成員は体則や技令を備えた人たち、つまり、文輪と同じ母体を備えた人たちでもあった。

 このアメリカ自由連合(UFA)であるが、実は、この代表の名前は伝えられていない。この理由としては二説あり、一つには代表の名前が後世に伝わるのを嫌ったために伏せたというものであり、もう一つには、同格の代表が複数人あり、記す事ができなかったというものである。研究者の多くは後者の意見を採用するが、私には前者の理由が正しいように感じられる。なぜなら、もしも複数人も代表がいるような組織であれば、二条里による接収は混乱無く済むはずが無く、分裂しないでは済まないからである。このような記述は、一切無い。第一、二条里もそのような不安定な組織を接収するわけが無く、互いに同格である事を認め合い、内部に分裂が無ければその名前を記すことはできたはずである。そもそも、記録好きの二条里がその私的な手記の中でさえ、それも、死後に発見されるまでその存在が知られていなかったにもかかわらず、残していないのである。これは、政治上の配慮とは言いがたい証拠であろう。

 さて、話が少し横道に逸れてしまったが、この軍の内実をもう少し詳細に話したい。この軍は二〇〇〇年の五月に結成され、その目標は政府打倒であった。しかし、目的は二派に分かれている。一派は、アメリカ政府による弾圧からの解放であり、もう一派は、経済上の格差是正であった。ここで、アメリカ政府による弾圧とあるが、これは体則や技令などの特殊な能力を用いる事のできる人たちに対するものであった。ゆえに、前者のグループには元来からの特殊能力保有者が多く、後者のグループには後になって習得したものが多いのである。そして、この前者のグループの中に、この北米戦線以降、帝政樹立戦争において二条里の同僚となる霧峯瑞希が属していたのである。この霧峯も、両親をアメリカ政府に奪われており、その恨みもあってこの軍に参加し、十四歳という若さにも関わらず、司令官として重責を担っていたのである。無論、この人事は霧峯の能力の高さを示しており、二条里はアメリカ自由連合を組み込むと同時に、霧峯に執政官の戦略単位である二個軍団を率いさせたのである。ゆえに、この六個軍団は二条里と内田と霧峯とが二個軍団ずつを率いての行軍だったのである。この中に、旧アメリカ自由連合の代表は含まれていない。

 そして、この若いというよりも幼いという印象が強い三人が率いたサンフランシスコ・サンディエゴ攻防戦は、終始、文輪軍の優勢のままに幕を閉じたのである。特に、二条里軍の機動性を生かした攻撃の威力は凄まじく、その突撃の前には、アメリカの州兵では太刀打ちできなかったのである。また、ここで一軍を任された霧峯も、軍を大きく展開させながら、アメリカ軍の機動力を殺ぎ、さらには、側面を攻撃させる事で州兵を四散させたのである。これを評価した二条里は独裁官の権限を利用して霧峯を機動兵団長主席に任命した。

 この戦闘による死者は、両軍合わせて三十七名という少なさであった。その代わり、アメリカ軍の方は四万近くが捕虜となり、即日、解放されたのであった。これは、二条里の政策によるものと考えられており、彼我の被害を最小限に食い止めるべく、捕虜を推奨したのであった。そして、この捕虜は即日、退役をさせた上で解放したのである。また、二条里はアメリカ自由連合の指揮官の一人と自身とで演説を行い、このような非常の手段に訴えなければならなかった事情を釈明したのであった。ここで二条里は流暢な英語を用い、同時に、少しだけ練習したとされるスペイン語でも演説を行なったとされる。それは、非常にたどたどしいものであり、これが州兵に対して、憎めない印象を与えたとされる。その後、捕虜になった兵士たちを一人一人褒め称えた上で、二条里は全軍を解散したのである。これにより、二条里を慕った兵士たちが三千も現れたのである。二条里は、この兵士たちを文輪として正式に迎え入れ、占領地の守備に当たらせたのであった。この五個大隊は、アレックス=ハリソン軍政官に与えられた。

 以上のような処理を終えた上で、二条里は東進する事になるが、その前に、二条里は全軍を二つに分けたのであった。内田・霧峯率いる四個軍団を北軍とし、二条里自らの率いる二個軍団を南軍としたのである。この時、二条里は縁起が悪いからと言い、第四軍団を自身の指揮下に加えている。(本来なら、第一軍団と第二軍団を率いるべき)そのため、内田が第二、第三軍団。霧峯が第五、第六軍団を率いるという変則的な編制となった。

 ここで、通常の軍事を知っている人間ならば、二条里が素人であったと思うであろう。なぜなら、相手よりも所有している兵力が少ない場合は、相手の兵力を小出しにさせ、それを各個撃破するのが常套手段だからである。ゆえに、研究者の中には二条里の勝利は幸運に依るとする人が少なくないが、私はこの意見には賛同できない。なぜなら、兵力とは単純な数の差ではないからである。無論、数の上でも勝っている事は大切であるが、兵力を考える際には、その力量まで考慮に入れる必要がある。近代戦争であれば、それには機動力や火力などが含まれるであろうが、文輪軍にはそのほとんどが効かない。そのため、文輪の兵力を考える際には、この守備力や特殊な能力による攻撃力の増大なども考慮する必要があるのである。それを考えると、二条里率いる六個軍団は、アメリカ軍の大兵力に匹敵したのである。だが、これもこの後に起きる事件によって覆る事になるのではあるが。

 また、二条里には動員できる軍団数に限りがあった。それは、当時の文輪の経済状態とその勢力圏を考えれば当然であり、それを最小限に抑えなければ政治を行う事ができなかったのである。しかも、ここから支持を拡大してゆくには、勝利を収めてゆくしかない。そうなると、小手先の技術を考えながらも、決戦を念頭に入れた行軍となったのである。

 さて、この後の北米戦線の動きであるが、二月十日までは、調子よく進んでゆく事となる。その中で、二条里軍は南北合わせて十三個軍団にまで増強される事となった。これに、各地の守備隊を加えると、その兵力は二十個軍団に及んだ。

 ここで、二条里は独裁官の権限で「二代目二条里執政官軍団分割法」を可決し、辻杜帝に許可を得た上で一月二十五日に施行したのである。この法律は、各地の司令官が軍団を編制しやすい様に、全ての軍団に統一的な番号を付けるのではなく、地域によって付けると変えたのである。これにより、例えば今までは「第一軍団」と呼ばれていた二条里指揮下の軍団の名称が「北米第一軍団」となり、山ノ井の率いていた「第十軍団」は「東亜第一軍団」として改称されたのである。そして、北米は第一から十までを南軍、第十一から二十までを北軍、第二一から三十までを守備隊としてその軍団に番号を付けたのであった。ちなみに、「第四軍団」だけは「北米第四軍団」となり、これ以前の番号が継承される事となった。

 このように、北米戦線以外のことにまで十全に手の回っていた二条里であったが、二月十日、二条里に最大の危機が訪れる事となる。

 二月十日、六個軍団を率いた二条里はアパラチア山脈の南部にまで達していた。異様に早いが、二条里としては、地球規模で考えた際の内乱は早期に解決したかったのである。すなわち、後に来るであろうレデトールとの戦闘に備えておきたかったのである。そのため、二条里はアメリカ軍を強行的に撃破し、アメリカの制圧を続けたのであった。近代的な軍装で身を固めた兵士たちでは、二条里軍の相手にはならなかった。

 だが、その前に中世以前の武装に近い一団、四万二千が姿を現した。その手には、剣や槍などが握られ、盾を装備し、鎖帷子を主とした鎧まで装着していた。加えて、その陣形は密集式の古代の布陣であり、近代戦闘の象徴である戦車や銃などは一切、存在しなかった。近代的なものといえば、輸送車や彼らの食料だけであった。

 さらに、この一軍は古代戦争の戦い方も心得ていた。彼らは二条里軍を包囲する事で、その殲滅を図ったのである。これには、二条里も虚を突かれる事となる。それでも、踏みとどまって戦い続けた二条里軍は、二時間ほど持ち堪えたあとで、全軍が退却を始めたのである。

 敗走する軍の中で、二条里は殿を務め、最後まで第四軍団と共に戦場で戦い続けた。七倍以上になる敵を相手にしながら、二条里は各軍団が速やかに退却できるよう、指示を出し続けた。そして、全軍が退却するのを確認して、彼は西へと逃げたのであった。敵からの追撃を押さえながら。

 この日の戦闘は、アパラチア南の戦いとして、後世に伝えられる事となるが、この戦闘が二条里にとっては最初の敗北となる。後に、二条里は多くの戦役において勝利を重ねていく事となるが、彼は人生で僅か四度の敗北を多く語った。それは、多くの部下を亡くしたことに対する、戒めであったのかも知れない。この日の戦闘で、二条里軍は四千七百もの死者を出した。逆に、敵軍の方は僅かに十七名であったという。

 逆に、この戦闘によって沸き立ったのは、敵軍の方であった。この、二条里を敗北させるという大金星を挙げた将軍はカンベンとされ、ヨーロッパ自由平和連合(EUFP)からアメリカ軍支援の為に派遣されていた。この団体については、後に詳述するが、帝政樹立戦争中期から末期にかけての難敵となる。しかし、この時は戦勝に浮かれ、全軍が緩んでしまった。無論、痛烈な打撃を二条里軍に与えた以上、そう簡単には復帰するまいという確信があったからである。

 だが、二条里は僅か半日で全軍を回復させると、翌日の昼にはカンベン軍を追いかけ始めたのである。これまでの経緯を、二条里はその手記の中でこう書いている。

「二条里は翌日、全軍を集めて戦死者の埋葬を行なった。それと同時に演説を行なうと、全軍の中には恥の意識が生じた。そこで、全軍の戦意が高まったという事を確認すると、二条里は全軍を率いてカンベンの軍を追撃した」

 劇的な場面においても、二条里は時に、このような淡々とした文章を書いた。ここでも、それが示されている。しかし、ここで注目したいのは、恥の意識を与えたという演説である。この詳しい内容に関しては、二条里は一切、語ってくれてはいない。そこで、ここは少し後に書かれた史書である「帝政樹立戦争Ⅳ~アメリカ戦線」から引用する事とする。


 二条里は、多くの兵士を棺に詰めさせ、それから、キリスト教徒にはその祈りを教徒の代表に行なわせたうえで、追悼演説を行なった。

「戦友諸君。このような形で私がこの演壇に立たなければならないという事は、非常に心苦しい。先の戦闘によって、諸君は奮戦し、包囲されながらも敢然として敵に立ち向かった。それに対し、我々はその心にある臆病に負け、恐怖に負け、敵軍を前にその背を向けてしまった。このようなことは、文輪始まって以来の事であり、諸君に対して向けるべき顔が無い。本来ならば、戦争の後に歓喜を分かち合えたであろう。しかし、それをすら、我々は奪ってしまったのである。今、このようにして諸君の死を悼んではいるものの、本来ならば、この罪深き我々には謝罪する以外には無いのである。否。謝罪をする権利が与えられるのかも怪しい。諸君、この不遜な司令官に対して、百難を与えよ。思うが侭に呪うのだ。その代わりに、残る三万の軍団兵に向けてはその悲しみや恨みを与えないで欲しい。それをすべて、私が引き受ける代わりに」

 この演説が終わる頃には、全て軍団兵が涙に明け暮れていた。地に頭をつけて、謝る者もあった。その中で、百人隊長の一人が叫ぶようにして、言った。

「独裁官、私を戦場に戻してくれ。このようなところで、私は戦友の死を悲しむだけでは、顔向けできない。どうか、戻してくれ。そして、彼らの意思を継がせてくれ」

 この百人隊長の言葉は、周囲にいた他の軍団兵にも伝わり、次第に、大きな輪ができていった。そこで、二条里は剣を抜き放つと、それを天空に掲げて叫んだ。

「おお、戦友よ。その想いこそが亡き戦友たちへのはなむけとなろう。行くぞ、戦友諸君。この屈辱を雪ぐのだ」

 この後、二条里の軍団兵は各自の陣幕に戻り、装備を整え、二条里の下へと集合した。そして、彼らは一丸となって追撃を開始した。南中の前であった。


 このように、二条里は劇的な演説を行なったが、その後の行軍も劇的であった。その行軍速度を最高度である時速三十キロにまで高めると、そのまま北東へと突き進んだ。言うまでも無く、その目的はカンベン軍の追跡だけである。そのため、二条里は全軍に食料の携行を三日分しか許さなかった。

 翌日、アパラチア山脈を越えた二条里軍はカンベン軍に追いついた。そして、その勢いのままで突撃をかけたのである。

 突然の攻撃に、カンベン軍は怯んだ。それでも、四万二千の中の精鋭七千を軸に、カンベン軍は防戦を試みる。だが、その日の戦闘の主導権は二条里の方にあった。二条里は、第一軍団と第四軍団を率いてカンベン軍の背後に回り、さらに、側面へも展開した。

 三方を囲まれたカンベン軍は囲まれていない方へと逃げ延びるしかなかった。若しくは、全滅しか残されていない。しかし、その一方も第三軍団の軍団長であったボブの機転により、塞がれてしまった。逃げようにも逃げられず、武器を振るうにも場所の無くなったカンベン軍は降伏するしかなかった。

 この戦闘による、二条里軍の損失は皆無であったという。逆に、カンベン軍の方では二千が戦死し、残る全軍が捕虜となった。それでも、翌日には二条里軍から解放され、奪われたものは兵糧物資の四分の三であった。四分の一は、必要分として残されたのであった。

 二〇〇一年二月十二日、二条里はニューヨークに入り、そこで北軍と合流した。アメリカでの戦闘開始から四週間という、非常に順調な進攻であった。しかし、文輪の他の戦線では、問題が起きようとしていた。






   【東亜戦線(一)】


 文輪は、二〇〇二年度の一月から三月を三つの地域の制圧に当てようと考えていた。北米戦線、中東戦線、東亜戦線の三つである。このうち、北米戦線はアメリカの事実上の宣戦布告に対する報復であり、中東戦線の初期も、アメリカ軍の駆逐が中心であった。だが、この東亜戦線だけは別であり、同盟軍である典伍式革命軍の救援のためであった。その為、最初に派遣された兵力は条約にあるとおり、七個軍団であった。その後、典伍式からの支援である二十個軍団と文輪本国からの増派三個軍団により、最終的には、東亜戦線に派遣された三十個軍団となった。そして、東亜方面司令官には山ノ井幸一が配され、同次長には水上智也、同補佐には今上知孝が任ぜられ、この三人で最後まで戦役を進めてゆく事となる。

 一月十五日、山ノ井は行動を開始し、同盟を結んでいた東南アジア各国からの支援を受け、中国へと南部から攻め込んだ。しかし、その前には既に、日本海において海戦が(小規模ではあるが)行なわれた。この結果は、五分五分であったという。その為、日本海の制海権は文輪・中国のいずれのものにもならず、山ノ井は南部からの進攻に作戦を変更したのであった。

 この状況に、中華人民共和国政府は兵力を二分せざるを得なくなった。だが、文輪軍の方が兵力としては少なかったために、中国政府は文輪に対する兵力を八万とし、典伍式の軍の四分の一程度しか当てられていない。確かに、八万といえば山ノ井軍の二倍の兵力に相当し、通常の軍略としては、正規のものである。しかし、相手は文輪であった。

 一月二十一日、山ノ井軍は人民解放軍八万と遭遇した。それでも、怯むことなく山ノ井は展開し、翌日には四万と八万とが激突する事となった。これが、香港西の会戦であり、文輪と中国政府とが初めて対峙する大規模な戦闘となった。だが、その内容は至極単純なものとなった。

 展開した人民解放軍に対し、文輪は正面からの攻撃を行なった。無論、激しい応戦が行なわれたが、文輪の軍団兵には、ほとんど効果がなく、呆気なく撃破された。僅かに、三時間ほどの戦闘で人民解放軍は瓦解し、捕虜二万と死傷者三千とを出したのである。

 しかし、これで危機感を覚えた中国政府は文輪との戦いにおいては、近代兵器が通用しない事を悟り、急遽、その軍の中から精鋭を選び、特別隊を編制した。この特別隊は十二に分けられ、その司令官には王穎丙が就任した。後に、彼はグラファードの下で軍団長を務め、対外戦争において輝かしい戦績を収める事となる。さらには、典伍式が帝位にある頃の凱旋式では御者としてその雄姿を示す事となる。だが、これは後の話である。

 話は逸れたが、特別隊を組織した中国はそれを訓練し、実践に投入できる程度にするまでは、後退を繰り返しながら、その兵站を脅かし続けた。これが、山ノ井をこの戦役中悩ませる問題となる。そういう意味では、中国は非常に困難な敵であった。元々、ゲリラ戦法は中国が得意としたところであった。

 さて、その後の山ノ井軍は勢力を沿岸部中心に拡大していった。この途中、要所要所で山ノ井軍は中国の海軍基地を押さえながら進攻し、その海軍力を弱める役割を果たし続けた。その為、本国からの援助を受ける上ではやや有利となった。また、この間に典伍式の軍は四川省を中心に足場を固め、五十万近くもの大兵力を保有するまでに至っていた。ゆえに、彼はその中から十二万を山ノ井に割き、無償で譲渡するという事まで成したのである。

 だが、この十二万を受けた時、山ノ井は大いに喜んだが、水上は喜べない部分もあったという。その理由を、彼はこのように述べている。以下は、山ノ井と水上との対話である。

「二十個軍団の加入は、本当に嬉しい。僕は、根っからの軍人じゃないけど、気分は戦勝将軍のようだ。これなら、二条里君の軍にも匹敵しそうだ。ねえ、水上君」

「さあ、僕には分からないが、この軍の食い扶持の保障がこの軍には不可欠なのは確かじゃないか。二条里君の軍と僕たちの軍とでは、この差が大きくのしかかっているよ」

 この水上の分析は、後に正しい事が証明される。元々、貧しいが故に典伍式軍に参加した彼らは、食が保障されなければ、軍律を守らせるのもこの当時では困難であったことが、後の西安会戦で証明される。このことを、水上は最初から見抜いていたのである。逆に、二条里軍は常に食糧不足に悩まされながらも、その少ない食料で全軍の士気を維持していた。むしろ、目標を持って行軍していた二条里の軍団兵にとっては、多少の困難は苦でもなかった。無論、二条里自身も兵糧確保には苦心してはいたのである。だが、現実はそれほどには甘くなかった。そして、その厳しい現実は山ノ井軍にものしかかってきたのである。

 二月十五日、山ノ井率いる一軍が西安の南にまで至った。この頃、山ノ井はその軍を二つに分け、二十個軍団を山ノ井と今上が指揮し、残りの七個軍団を水上が指揮する事にしていた。このうち、水上軍の方は主に沿岸部の安定を目的とし、山ノ井軍の方は内陸部の制圧に主眼を置いた。その為、山ノ井は西安南部に人民解放軍の一軍が集結しているという間者の報告が入ると、その全軍を西安に向けたのである。

 だが、間者の報告の中にその軍が古代の兵装を以って待機しているという情報が含まれていたにもかかわらず、それを山ノ井は握りつぶした。大した情報ではないと考えたのであろうが、これが、二条里軍以上の悲劇を生む事となる。一方、これより遅れる事半日にして、水上も同様の報告を受け取ると、直ちにその軍を西に向けたのである。水上には、その重大性が直感的に分かったのである。以下は、後に水上自身が語った言葉である。

「あの時は、私も現実離れした報告を、一瞬だけ疑いました。それでも、間者の言葉が本当であれば裏があると思い、急いで西へと向かいました。直感的ではありましたが、何か嫌な感じがしましたので」

 事実、この「嫌な感じ」は、見事に的中する事となる。だが、その事を知る由もない山ノ井はいつものように全軍を展開し、小競り合いを始めた。ここでは、文輪が優勢のまま終わったが、食糧不足のために戦闘開始直前の士気としては、非常に低いものであった。これは、人民解放軍の努力の成果であるが、実際には、それほどまで少なくなっていたわけではない。それでも、人間は尽きるよりも尽きてしまう可能性のほうをより恐れる。また、先にも述べたとおり、彼らが求めた第一は食の保障だったのである。故に、この士気の衰えは当然であった。そして、山ノ井はいつものように勝利を収めれば、この士気も回復できると考えていたようである。

 二月十七日早朝、山ノ井軍は陽光が大地を照らすのに伴い、陣地の前方に人民解放軍が布陣の完了した状態で待ち構えている事が明らかになった。これに驚いた山ノ井は、全軍を急いでたたき起こし、速やかに布陣したのである。兵士たちも、それに従った。だが、朝食を摂っておらず、士気の衰えていた彼らの動きはやや緩慢であった。そして、その緩慢さがこの会戦では致命傷になった。

 十二万の山ノ井軍に対し、古代の兵装を纏った人民解放軍十八万は、最初から包囲殲滅戦を企図していた。開戦早々、この方針に山ノ井は気づき、全軍を広く横に展開するように命じた。敵の展開に合わせて、自分も展開し、その包囲を逃れようと考えたのである。文輪の足の速さは一般に最大で時速二十キロを超えたという。また、日本から連れてきていた二個軍団は、それ以上の運動が可能であり、これで敵騎兵にも対抗しうると考えていたのである。だが、これを狂わしたのは十八個軍団の士気の衰えた兵士たちである。

 開戦後、山ノ井軍は人民解放軍の動きと同じ速さで移動する事ができた。この時、日本からつれてきた二個軍団を両翼に配していたが、残りの軍団もこれに対応する速さで移動できたのである。だが、ここに空腹とそれによる士気の衰えとが重なった。それに加え、彼らは文輪としての正規の訓練を受けたわけではない。その為、やがてはその動きは緩慢となり、一時間がたつ頃には、二個軍団と十八個軍団の間に僅かな隙間ができたのである。これを、人民解放軍を指揮していた王穎丙は的確に騎兵で突いた。

 勝敗は完全に決した。中途で寸断された軍団は、戦闘力自体は人民解放軍に勝りながらも、混乱した状況下ではこれを発揮する事など不可能に近かった。誰しもが、背後に向けて潰走を始めた。それでも、被害を最小限に抑えることができたのは、日本から連れてきた二個軍団が踏ん張り、騎兵を横から攻撃する事でその勢いを殺いだためであった。また、山ノ井と渡会が手近な兵士と共に、最後まで戦い続けたためであった。

 南中、寒風と陽光とに照らし出されたのは多くの血と戦死体であった。それも、そのほとんどは文輪のものであり、人民解放軍のものは、数えるまでもなかったほどである。この西安会戦により、山ノ井軍は死者一万三千と負傷者三万を出し、六千が捕虜とされた。加えて、残りの軍団兵の殆どは落ちてゆく中で四散し、最早、軍隊としての様相を成していたのは二個軍団だけであったという。

 この惨憺たる状況の中で、ようやく水上軍が到着した。西安会戦からは、僅かに一日遅かっただけであったという。この時、水上軍は昼夜兼行の行軍で急ぎ、僅かに四日で五百キロもの距離を踏破したのである。二条里軍に比べれば遅いが、当時の文輪としては、それでも、驚異的な速度であった。そして、到着すると彼は四個軍団に休息を取らせると同時に、残りの三個軍団で負傷者の手当てと消滅した十二個軍団の捜索を命じた。これにより、多くの兵士が戻り、一旦は消滅した十二個軍団が、二万五千の欠員を抱えながらも、復帰したのである。とはいえ、彼らをすぐに前線へと投入するわけには行かず、これから暫くは訓練に当てる事としたのである。

 このような状況の中でさらに、文輪に敗報が届いた。それも、今度は中東戦線からのものであった。






   【中東戦線(一)】


 帝政樹立戦争における方面隊のうち、最も多くの兵力を本国から供出したのが、この中東戦線であった。中東方面司令官には渡会和貴法務官、同次長には土柄昌喜、同補佐には木國宗男が任ぜられ、初めから十二個軍団もの大兵力を配せられた。これは、近衛軍団と皇軍とを合わせた皇帝直属軍団の十一個軍団を抜き、当時の文輪としては最大の規模を誇る一軍となったのである。だが、その司令官が法務官という、執政官や常任委員長に比べれば一段下の官職の者が務めたというのは面白い。これは、辻杜帝が渡会の能力を心配したためであったという説もあるが、真相は定かではない。兎にも角にも、彼らは中東に派遣され、そのアメリカ勢力を除き、石油の潤滑なる輸入が可能なように手配する事が求められた。

 一月十二日、渡会は中東での行動を開始した。この時、これを援助したのはトルコであり、二条里が国連工作を進めている間に、苦心して勝ち取った同盟関係であった。そして、トルコを出発した渡会軍七万は東へと向かい、アメリカ軍と交戦中のイランへと向かったのである。この時、既にイランには軍事協力を約束(これをしたのは、二条里であったが)しており、渡会はその履行を急いだのであった。それでも、途中で渡会は募兵を行い、三個軍団を現地で編制した。これで、渡会軍は九万になる。当然、アメリカ軍の総兵力には及ばなかったが、渡会にはこれで十分であった。

 イランに入国してからの渡会軍は連戦連勝であったという。近代兵器の殆どが戦闘中には意味を成さなくなるために、これが当然といえば当然なのであるが、一月の末には、二条里軍の本土襲撃もあり、アメリカ軍は撤退を余儀なくされたのである。これにより、渡会軍の軍事的な目的は完了したのである。いや、正しくは完了するはずであった。だが、ここで渡会は致命的な誤りを犯す。十五個軍団を抱えた渡会は、そのまま隣国のイラクに攻め入ったのである。

 なぜ、このような事を渡会が行ったかについては、明らかになっていない。それでも、内乱の中にあるイラクを統一する事で、石油ラインの確保を狙ったのではないかという憶測はできる。また、イラクの統一は中東の安定には必要不可欠であった。加えて、これを成せば彼の名声は高まる。二条里や山ノ井に比べて名声の低かった渡会にしてみれば、絶好の機会であったのかもしれない。とはいえ、真実は全て闇の中である。そして、結果だけであれば歴史の中に整然として残されている。

 二月五日、渡会は二十個軍団にまで膨れ上がった軍のうち、十二個軍団を率いてイラクに攻め込んだ。残りの八個軍団は、五個軍団を土柄に、三個軍団を木國に渡し、イランに駐屯させたのである。米軍が撤退するといえども、撤退が完了するまでは、文輪にとっては気の抜けない状態が続いたからである。とはいえ、七万の兵力を擁した渡会軍はイラクでも連戦連勝であった。これに気をよくした渡会は、首都バグダッドで敗北した部族の部族長を集め、イラクの再建を検討する会議を開いたほどであった。

 これに、危機感を覚えた人たちが在った。それは、イランであり、イラクの部族長たちであり、そして、残るは二条里執政官であった。特に、二条里はこの報告を間者から受けると、普段は冷静な彼も叫んだという。

「敵を前後に作る愚策があるか!」

 二条里には、どうやらこの先の展開が見えていたようでもある。この直後、二条里は書簡を辻杜帝と渡会とに送っている。その中身は「イラクへの侵攻は誤りであり、直ちに何らかの方策を立てるべきである」というものであった。だが、これを以ってしても、事態を変えることはできなかった。

 自国を他国に踏み荒らされ、イラクの部族長たちも危機感を覚えた。彼らは内戦を縮小し、残りを対文輪の攻撃に向けたのである。だが、自爆による散発的な攻撃では到底及ばず、そこで、彼らは徹底的に組織的な妨害活動を始めたのである。これには、流石の文輪も流血を避けることはできず、加えて、野営箇所を探すだけでも苦労する有様であった。さらに悪い事には、これにイラン政府も援助を引き受け、秘密裏に軍を動かし始めた。そして、これにアフガニスタンが加わる頃、運命の二月十七日を迎えた。

 その日、渡会はバグダッドより北に十キロの辺りを行軍していた。この時、彼は二個軍団をバグダッドに残していたため、その時に率いていた兵力は六万弱であったという。とはいえ、その士気は衰えており、行軍速度も遅いものであった。そして、その行軍は容易に目に付くものであった。ここに、一軍が駆け込んでくる。イラクの部族長が直々に率いた七千の兵であった。彼らはそのまま先頭を突く事はせず、背後を中心に攻めた。それに加えて、二万の兵力を持った一軍も今度は逆の側面から攻め入り、渡会軍の行軍を断ち切った。

 この事態に、渡会軍の後部は混乱した。そして、その混乱は前方へと伝わり、渡会が呼びかけようとも最早、何の効果もない状況となった。それを、前方からイランの正規軍が十二万で攻め立て、勝負は完全に決した。

 それまで、一糸乱れることなく動いてきた中東軍団は壊滅し、我先にと逃げ出し始めた。これに、中東で編制した軍団と、日本から連れてきた軍団とに差はない。ただ、それでも救いようがあった潰走であったのは、下士官とも言うべき百人隊長が最後まで戦場にとどまり、戦い続けた事で、死者が続出するのを防いだ事であった。その為、この戦闘では多くの百人隊長が犠牲となった。

 このバグダッドの戦いと名づけられた戦いで、渡会軍は敗北したものの、死者五百七十名、負傷者二千七百名という奇跡に近い犠牲の少なさで済んだ。しかし、数の上での被害に比べ、百人隊長が七百二十人中四百十二人亡くなると言う惨状であった。そのうえ、死傷者こそ少なかったものの、逃亡し、そのまま消え失せた兵士の数は七個軍団分に相当する、四万にも及んだ。そして、この成功の勢いに乗られ、中東における文輪の勢力は一気に縮小した。二条里が苦心の末に説得したトルコでさえ、離反したのである。最早、逃げる場所さえ失われたかのように思われた。事実、この直後に渡会以下三指揮官と残りの軍勢が歴史の上から消失するのである。僅かに、一ヶ月ほどのことではあったが、この事が他に与えた影響は計り知れないものであった。

 このように、各地で敗報が届く中、この状況を変えたのが辻杜帝と北米戦線であった。

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