第一章 帝政樹立戦争

①文輪帝国の成立

   【戦前の世界情勢】


 帝政樹立戦争が始まるのは西暦二〇〇一年十月四日とされている。この日、文輪帝国の前身である文輪(正式名・文輪王国)が形成され、独立宣言を行なっている。その後、この文輪は同年の十一月下旬に建国宣言を行い、翌年の三月には帝政樹立宣言を行なう。こうして、帝政文輪帝国は形成されてゆくが、その過程を語る前に、文輪が生じる前の世界情勢に触れてゆきたいと思う。ただし、これについては我々が知る歴史と酷似する部分が殆どであり、詳述は控えさせていただきたい。ちなみに、このことからこの平行世界は二〇〇〇年より前には我々の世界の歴史から完全に分かれていたものと考えられる。

 まず、文輪の母体となった国であるが、それは極東の国、即ち、ここ日本である。当時、日本の総理大臣を務めていたのは川鍋龍次であり、この辺りが、我々の歴史とは異なる部分となる。しかし、国会議員の多くは我々の世界と差異は無く、歴代の総理大臣に至っては、全く同じである。

 また、殆ど差異が無いと言う点では、他の国も差異は無いが、日本の同盟国であるアメリカ合衆国に至っては、ジョージ・ウィルソンと、ジョージまでは一致しているのである。ただし、この世界では世界同時多発テロは起きておらず、代わりに、大統領暗殺未遂事件が起き、その主犯格と思われる人物が日本人であったために、日本との外交関係が非常に悪くなっていた。

 また、ヨーロッパではEUの機能が強化され、EU自体が軍を持つべきであると言う議論が行なわれていた。これに対し、イギリス・フランス・イタリア・ドイツが反対し、独自に軍を強化する動きも行なわれた。

 この動きに対し、ロシアも態度を硬化させた。前任の大統領が急逝したロシアでは、代わりにフルチョフ(原文の表記の中にブレがあり、ほぼ正確に分かっているファーストネームだけを掲載)が就任し、軍備の増強を決定していた。

 その南にあるアラブ諸国では、イラクにおいて同じく、前任の大統領が急逝し、内部でシーア派とスンナ派とクルド人とに分かれ、内乱が始まっていた。これに対し、隣国のイランが介入し、これを阻止しようとしたアメリカとの間でイラン・アメリカ戦争が勃発している。

 ここから東に目を移すと中国があり、そこでは、農民革命が行なわれていた。この危機に際して、中国は人民解放軍だけでは不足と判断。ロシアのフルチョフに応援を依頼し、黄河を境に攻防を繰り広げていた。この反乱軍を指揮していたのは、典伍式であった。

 朝鮮半島では、二〇〇〇年の南北会談以来、その両国において、反日感情が激化していた。日本製品排斥運動が激化し、二〇〇二年のサッカー・ワールドカップの開催でさえ、危ぶまれる状況であった。この背景には、二〇〇一年夏の川鍋首相による韓国併合正当化発言があり、川鍋首相はこれを政府の公式発言として発表したのである。

 このような世界情勢の中で文輪は発足し、帝政樹立戦争を迎えるのであった。






   【文輪発足】


 二〇〇一年七月。川鍋首相を議長とする閣議において、ある重要な政策が秘密裏に決定された。その後、その政策は秘密裏に発布され、十月三日に執行される事となる。その名も、軍団教育政策。即ち、全国の中学校に守衛隊(我々の世界では自衛隊に相当するが、この前後に組織が改変されている)を派遣し、教育を行なうというものであった。だが、その真の目的は軍による国家掌握であった。

 なぜ、このような政策が決定されたのかは後述するが、この政策は実際に行なわれ、第一弾として全国十の都県、四百の中学校に派遣された。そして、その当日に中学校とその周辺が占拠され、強制的な教育及び、勤労奉仕が強制されたのであった。これにより、その日だけで千七百名前後の市民が死亡したとされ、反抗しようとする意識さえ奪われようとしていた。

 だが、ここに政府の計画には無い誤算が生じることとなる。翌日の十月四日に長崎市内にある中学校が自力で支配から脱却し、日本国からの独立を宣言したのである。報告では、その中学校は自らを文輪と称し、辻杜龍一を代表として軍を形成。同日中には、長崎市内の殆どを制圧したという。そして、最も驚くべきことにはその軍団が体則と技令という名の二つの特殊能力を有しているとのことであった。

 ここで、先にこれらの特殊能力について紹介する。

 まず、体則のほうであるが、これは自身の肉体に働きかけ、その能力を高めると言うものである。そのため、銃弾で肉体を貫通させることは、容易には不可能であり、また、動作速度も飛躍的に上昇する。そのため、この世界の行軍速度では、人の足で時速百キロなどと言う記載が出て来る事もある。ただし、その体則によって守られた武具により攻撃を受けた場合には、傷を負ったようである。

 逆に、技令のほうであるが、これは自身の精神力や想像力に依存し、物質や元素、空間や時間などに影響を与えるとされる。この力を用いた場合には、科学の法則が無視される事が多く、この能力が軍団内で一般化することは禁じられたようである。また、体則とは異なり、この能力は全ての人が身に着けられるものではなかったようであり、一部の人だけがそれを習得できたそうである。

 以上の二つの能力を身に着けていた文輪であるが、ここからは『二条里の手記』を基に話を進めてゆく。ちなみに、この二条里は結成された文輪の初代執政官であり、後には、文輪の皇帝を二度も歴任する事になる人物である。また、これに加えてゾ・スルヴィア・ガーナニーアが二十年後に記す事となる『帝国比較論』を用いたい。

 さて、十月四日に独立した文輪であるが、その組織はまだ単純なものであった。まず、皇帝があり、その下には執政官二人とその下位組織である執政協議会が設置された。また、軍編制の方は百人隊(百人)から始まって、大隊(六百人)、軍団(六千人)の三つが単位とされる事になった。そして、結成当初の兵力は二個大隊であり、翌日には、二個軍団と三個大隊にまで成長した。

 これに対する守衛隊の兵力は十八万である。兵力差が大きく、この時点ではまだ、勝負にはならないはずであった。だが、文輪は待つという事を嫌った。

 十月五日、辻杜帝は軍を二つに分けることにした。そのうち、第一軍団を辻杜帝自身が率いる事とし、第二軍団の方を執政官である二条里に託す事とした。第一軍団の目的は九州の南半分の制圧であり、第二軍団の目的は北九州の制圧と本州へ続く道の確保であった。そして、残りの三個大隊はもう一人の執政官である山ノ井幸一に託され、長崎を守ることとなった。

 十月八日、最初に戦端を開いたのは二条里率いる第二軍団の方であった。小倉から門司にかけて行なわれたこの戦いは、関門海峡攻防戦と名付けられ、文輪成立後、初めての戦争となる。

 まず、二条里は福岡へ入ってすぐに、守衛隊によって占拠されている地域の解放を開始した。この時、日本政府は長崎での失敗を受け、福岡に守衛隊を六千人規模で派遣し、北九州の制圧を図ったのである。

 これに対し、二条里は速攻で勝負を決する事にする。第二軍団を大隊ごとに分けた二条里は、それを四方八方に放ったのである。特に、そのうちの三個大隊には守衛隊の陣営地を攻撃させた。そして、敵が出てきたところで小競り合いを行い、負けた風を装って散り散りに逃げたのである。これを、文輪早期鎮圧を命令された守衛隊は深追いした。

 これで、勝負は決まった。まず、三個大隊を追う中で守衛隊は、前方を内田水無香率いる三個大隊によって阻害された。次に、後方を二条里率いる二個大隊によって防がれ、挟み撃ちの形となる。これに加えて、右翼を二個大隊によって突かれた守衛隊は、残った一方に向けて逃げるより他に無かったのである。それでも、守衛隊は、戦車などの近代兵器を持ちながら、その半数近くを捕縛される事となるのである。

 また、二条里は抜け目無く、守衛隊の持つ物資を接収した。これにより、不足しがちであった食料状態が少しは改善される事となる。そして、このまま攻め進んだ二条里は、十月九日の夕方には、関門海峡を制圧した。

 これとほぼ時を同じくして、辻杜帝も南方に控える六千兵と対峙した。そして、この戦いも辻杜帝の戦勝によって三日後には勝負が決する事となる。この後、辻杜帝は長崎へと戻り、代わりに、山ノ井執政官に第一軍団と新たに編制した第三軍団を与え、本州の制圧に向かわせたのである。それと、ほぼ時を同じくして二条里執政官が失踪する。次に、歴史上に出現することとなる、同年の十一月五日まで。





   【日本制圧】


 この間に、何が行なわれたのか。この事については、二条里執政官自身は一言も語ってくれてはいない。しかし、この間に北海道へ行き、そこで二個軍団を編制、訓練したことは事実である。ただし、それだけに一ヶ月もの時間をかけたのかは、はなはだ疑わしい。なぜなら、その二個軍団の編制された日として登録されているのが十月二十日だからである。十月半ばの時点では未だ、近畿以東の交通は制限されていなかった。故に、北海道に至るまでに一週間もかかるとは考えられないのである。

 そこで、研究者はいくつかの仮説を立てている。その中でも、有力なものを三つだけ紹介しよう。

 一つ目の仮説は、二条里が経費削減の為に公共交通機関を利用しなかったと言う説である。恐ろしく、庶民的な理由であるように思われるかもしれないが、実際、当時の文輪は金銭的に逼迫していた。これは、後に二条里自身が食料を買う際に記している。その為、二条里がその分の費用までを惜しんだと言う説は最も有力な説となっている。

 二つ目の仮説は、二条里が技令の修行をしていたと言う説である。これは、後の第一次文輪彼我戦争の際に行なわれる二条里の速攻が根拠となるが、『司書の塔』と呼ばれる施設において、二条里が修行をしていたとする説である。だが、実際に二条里が司書になったと言う記録はあるものの、それだけの短期間で修行を終えた人物など、他にはいなかった。ゆえに、この説は他の二つに比べて説得力が弱い。

 第三の理由は、単に二条里が登録を忘れたという説である。その為、日付がずれ、実際の編制日よりも遅くなってしまったと言う説である。根拠としては、官僚体系の未整備にある。

 以上のような理由が挙げられている、二条里執政官消失事件であるが、いずれにせよ、十一月五日までの間に、文輪と日本政府との対立は激化の一途を辿っていた。

 十月十五日、二個軍団を率いた山ノ井執政官は本州に上陸。そこで、一万人規模の守衛隊と戦い、勝利を収めている。その後、十月二十日には、京都に上洛。十月二十五日には、愛知に至っている。

 しかし、ここで山ノ井は開戦以来最大規模の敵を迎えることとなる。即ち、日米連合軍七万がそれである。この時は、防衛長官であった有沢が前線を訪問し、激励を行なっている。そして、山ノ井も劣勢で、かつ戦争経験や訓練経験の少ない兵士たちを率いて悪戦苦闘を強いられたのである。それでも、十一月二日に辻杜帝から法務官渡会と水上の率いる二個軍団を援軍として受け、何とか互角に戦うようになってゆく。

 このような中で十一月五日、二条里執政官が突如として出現し、二個軍団で以って青森を制圧した。さらに、同日中には北海道全域が文輪への帰順を宣言し、文輪の傘下に入ったのである。

 だが、日本政府も守衛隊を投入し、三万人の兵力を福島に配置した。加えて、首都である東京にも三万人の兵力を置く事を決め、九日には、七千の兵力が集結した。

 これに対し、二条里は軍を二つに分けた。第四軍団を内田法務官に預け、南下を続けさせ、残る第五軍団を率いて東京へと向かったのである。その行軍速度は時速五十キロとされ、後の文輪の行軍速度に換算すれば、第八次の行軍速度となった。

 十一月十日早朝、関東平野の中を漆黒の軍団が駆け抜けた。それと同時に、首都東京攻防戦が開始されたのである。兵力的には、守衛隊の方が優位にある。しかし、不意打ちによって機先を制したのは文輪の軍団、即ち、軍団兵であった。混乱した守衛隊は後退を余儀なくされ、正午前には、中央官庁は完全に制圧された。そして、同日の午後五時に二条里は首相官邸において、辻杜帝より発せられた勝利宣言を代読したのである。

 しかし、その頃は未だ中部及び東北において激戦が展開中であった。その為、二条里は休む間もなく北上し、福島で戦闘中の第四軍団の救援に駆けつけたのである。その際に率いていたのは、第五軍団のうち、第九・第十大隊の九百だけであったという。それでも、挟み撃ちされ、さらに、内田法務官の指示によって左翼も攻められた守衛隊は完全に壊滅したのである。

 さらに、二条里は戦後処理を常任委員である向田に任せ、第四軍団を指揮下に再び入れて首都へと引き返した。それから、第五軍団に休息の支持を与えると、第四軍団を率いて愛知へと急いだ。だが、それも長野に入る直前で引き返す事となる。戦争の早期収拾を図った辻杜帝が、自ら二個軍団を率いて救援に駆けつけたためであった。これにより、日本政府の敗北を知らされてもなお頑張っていた日米連合軍も壊滅したのである。

 これで全ての戦闘を終わらせたと思い、東京に入った辻杜帝であったが、すぐに休息が与えられる事は無かった。十一月二十日、日本政府の川鍋首相以下二百名の閣僚や議員らが、守備に就いている軍団兵を撃破しながら、都心部へと向かってきたのである。それも、体則や技令を駆使しながら。






   【レデトール】


 この時初めて、文輪は自分たちがこれから挑む事となる敵の正体を知ったのである。それは、決して地球の中だけで済むような相手ではなく、ましてや、日本などという狭い範囲の話ではなかったのである。相手は、レデトール星人。紛れも無い、地球外生命体であった。


 ここで、このレデトール及びレデトール星人なるものに触れておこうと思う。なぜなら、このレデトール星人こそが、私たちの世界とパラレルとを明確に分けるものであり、それと同時に、これからの文輪の敵を説明するのに最も適当な存在だからである。

 さて、このレデトール星人であるが、その祖先は我々と同じ人間であった。その彼らが地球から出ることになったのは、紀元前八千年紀であり、当時、地球を支配していた人々から逃れるために、各々が技令や体則を利用して脱出した。また、それ以外の能力保持者も、地球の外に逃げ出す事となる。その為、地球に残ったのは、僅かな体則や技令の使用者を除けばそれらの能力を持たない人々となったのである。

 しかし、彼らの悲劇はここから始まった。例の地球を支配していた人々が、彼らを追ってそのまま居座ったのである。そして、今度は逃げる事も許されず(支配者は強力な能力を持った人々であった)、その圧政に苦しめられる事となる。その間に、彼らの地球に対する憎しみは広がってゆき、同時に、それを晴らす事が生きる支えになったのである。

 この彼らも、我々の歴史で言う紀元後一六〇〇年頃になると、例の支配者たちの子孫を打倒し、自力で自治を獲得したのである。その後、その星の内部で覇権を巡る争いが起き、それが一八二八年に終わると、地球へと戻るための技術開発を開始したのである。そして、再びワープ理論と技術を獲得した彼らは、地球を支配するべく、侵攻作戦を開始したのである。

 だが、この作戦は単純に地球へと攻め込み、そのまま制圧するという方法では行なわれなかった。むしろ、彼らはそれを十全に楽しむ事とする。即ち、指揮官に選ばれた人物とその部下が地球上にある国家の指導者となってその国を支配し、互いにその国で軍を編制してから天下統一を争うというゲームにしたのである。これにより、世界中で有力な国や、一部の、政治の難しい国の政治家が揃いも揃って、レデトール星人となった。それも、地球に住む人間が気づかぬ間に。そして、これが日本政府による守衛隊支配の理由にもなったのである。だからこそ、国際社会から批判される事も無く、このようなことを実行できたのである。彼らの最終目的は人類支配であり、人間をどう扱おうが、構いはしなかった。


 だが、川鍋の支配計画は失敗した。失敗したからには、正面から挑むより他にないと、川鍋首相は決心したのである。そこで、彼は地球人としての川鍋の仮面を脱ぎ捨て、レデトール人の優秀な指揮官であるグリセリーナ・ハバリートとしての本性を曝け出したのである。こうなった以上、並の軍団兵では対抗できなかった。

 この非常事態に、辻杜帝は指揮官のほとんどを東京に集結させた。そして、二条里・山ノ井執政官以下十二人の高官を前に、こう言った。

「もし、俺を信用できるようなら、付いて来い。あの日、俺と一緒にこの圧政から人々を救うと約束した事を果たしたいと思うなら、俺に付いて来い。ただ、俺のために付いて来ようとする奴がいるなら、ここに残れ。俺は死ぬ気だ。自分の命は惜しめ」

 これに対して、最初に答えたのは二条里であった。

「皇帝がここで戦死するような事があれば、この帝国も死にます。同じ死ぬなら、私が死にます。死ぬ気で付いて行きます」

 これで、高位の指揮官の意思は固まった。そして、特別小隊を十三個率いた彼らは、合計千三百の兵力でハバリートを迎え撃った。

 十一月二十日、お台場を戦場にして、初の対レデトールの戦闘が行なわれた。最初から激戦が展開され、辻杜帝も最前線で戦い続けた。途中、常任委員の木國率いる第十一特別小隊が全滅したほどである。それでも、渡会法務官が的確にレデトール軍の虚を突いたのと、二条里執政官が、一人でハバリートを押さえ込んだこともあり、戦況は文輪有利に進んだ。そして、二条里がハバリートを討ち取ったことで、勝負は完全に決した。

 誰しもが、戦闘に勝つ以外にはないことは知っていた。だが、指揮官の不在は大きな障壁となる。そのまま、戦い続けたレデトール人は、降伏の勧めも聞かずにその全員が大地を朱に染める事となった。

 この日の戦闘で戦死したのは、文輪軍は二百七十八人であり、レデトール側は二百十七人であった。負傷者は五百三十二人。この中には、二条里執政官と内田法務官とが含まれている。そして、辻杜帝自身も深手を負っていた。

 それでも、当日中に首相官邸へと戻った辻杜帝は、混乱する市民に対して、記者団を通して文輪王国建国宣言を行なったのである。同時に、守衛隊解散の命令を下し、市民には普段どおりの生活へと一週間以内に戻るよう、依頼したのである。

 辻杜帝の、傷つきながらのこの宣言に、市民は戸惑いつつも、それを静かに受け入れた。また、翌週には税制改革の指針を発表し、明確な税制を導入する事に決めたのである。これにより、辻杜帝の人気は上昇した。そして、辻杜帝の指揮の下、政治体制の整備を急いだのであった。

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