5. Campa, cavallo, che l'erba cresce.
◎ ◎ ◎
"眼"をルーヴルの私にもどそう。
パリの街に陽が昇り、セーヌ川を曙光が照らしていく。
貴方たちは四つあるゲートのうち、煌めくガラスのピラミッド中央入口を抜け、ほぼ無人の館内を足早に進んでいく。事前調査を念入りに済ませた貴方の足は迷わなくドゥノン翼を目指し、たいがいの来館者が立ち止まる逆さピラミッドには目もくれない。そんな貴方に手を引かれ、色も形もちがうシューズが磨きあげたフレンチヘリンボーンのフロアに軽やかな音を立てていく。
そして開館と同時に駆けこんだおかげで、貴方たちはきょう、最初に
貴方はだれもいない(監視カメラは別にして)展示室をまっすぐ進み、足を止める。ケースの下のカウンターテーブルに突っこみそうな勢いの貴方を阻むのは、床からぼんやり、たゆたう逆さの
オーロラの
表情から察するにきっと、肉眼で見る以上に私の姿が鮮やかに虹色の頭へ浮かんでいるにちがいない。
私にも、貴方たちがよく"見えている"。
焦げ茶色の瞳に映った、額縁の私までくっきりと。
防弾ガラス越しの私は鏡映しで、そのせいか体の重心が偏っているよう。陰影に溶け込んだ椅子へ腰かけ、左腕を肘掛けに載せている私は、いかにも尊大といったところ。おもわせぶりに重ねたこの手が、どれほどのウワサと想像を掻き立てたかとおもうと、ちょっぴり罪悪感をおぼえる。けれど、残念ながら期待に応えるようなエピソードを〈彼〉はなにひとつ、口にしていない。
瞳に映り、左右が反転しただけで〈彼〉の描いた黄金比はこうも容易く崩れ落ちる。
腕に纏う黄色いドレスの袖にゆったりと浮きあがった皺。ダークグリーンのブラウスの上から薄手のショールを羽織った私は、大胆に胸元を曝し、それでいておおよそ寒そうな素振りはない。後ろの風景はだいぶ、殺風景だけれど。
私の背景を描いたときの〈彼〉は、ずいぶん適当だったようにおもう。
ブラシをぞんざいに(素人の私にはそう"見えた")キャンパスへ塗たくるあいだ、「未来が寒空の下であってはならない」とつぶやいていたことを覚えている。凍えた曇り空が〈彼〉の見た未来だとしたら、私の頭上に垂れこめた理由はなんなのだろう。
でも、私の左肩へ乗っ掛かるような、あの橋を描いたときは「ちっぽけでも人々の橋渡しとなれるように心掛けなさい」と、いつもの自信に満ちた声で私へ"刻んでいた"。対照的に、右の渓谷に取りかかったときの〈彼〉は、「人の臓器は曲がりくねって……」とかブツブツと言っていた気がする。
お気に入りの黒のロングヘアには〈彼〉も時間をかけていた。
でも、もっと集中しなければならない部分があった。私の"眼"だ。
「キミの"眼"は千里眼ではないし、ボクみたいに未来が見えるわけでもない。キミの"眼"は、万物をあるがまま見るためにあるんだ」
キャンバスへ真っ先に描いた私の"眼"に、なんども修正を加えながら〈彼〉はそう繰り返した。
「キミは、ボクなら狂ってしまいそうなくらい、"人の目にさらされる"ことになる。だからキミが、人々を見てあげるんだ。いずれ数多になるキミの目でね」
"見続けることがなにになるのですか?"
私の疑問を察したように〈彼〉はブラシを変え、まるで本物のレディにメイクを施すような手つきで吐息を漏らす。
「ボクがおもうにだね……『だれかが見守ってくれる』だけで、人は、前に進めるんだ」
だからボクにできるのはこれだけだよ、と〈彼〉は後代のトレードマークとなる立派なヒゲをきちっと束ね、ブラシを動かしつつ、私に"刻み"続けた。
「それに、見守られるならやっぱり、微笑みの美女じゃなきゃ」
少年のようないたずらっぽい笑顔をして〈彼〉は、そう言うとふっと、私と目を合わせた。あとにもさきにも、〈彼〉が私の"眼"をまっすぐ見たことはない。
ちょうどいま、貴方たちが私を見つめるように。
私は世界でもっとも美しくあって、もっとも
揶揄されてもかまわない。それが、私の使命の手助けとなるから。
それが、〈彼〉の望みでさえあるのだから。
私はいつまでも貴方たちを見届けよう。
貴方たちのさきに、たとえなにが待ち受けていようとも、私の"眼"は貴方たちと共にある。
La Gioconda
(完)
☆ゲンロンSF創作講座 発表作品
Caro Leonardo, ウツユリン @lin_utsuyu1992
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