4. Patti chiari amici cari.
キャンパスを歩きながら、烈桜は自分の気持ちを整理しようとしていたのかもしれない。
廊下の突き当たりを曲がらずに顔をぶつけたり、並んで歩くカップルのあいだを迷わず突き進んだり、あげくの果てには階段を踏み外しそうになって、たまたま擦れ違ったラグビー部のたくましい腕がなければ行き先が病院になっていた。
「……どしたそのアザ?」
だから、暗室に入ってきた烈桜をあきれ半分、心配半分の表情で瑠華が見たのも無理はない。
「あーいや、転けただけ」
額をこすりつつ、見えすいたウソをつく幼なじみに、アトリエの主は「あっそ」とそれ以上は詮索しなかった。烈桜がラップトップの筐体に貼ってあるステッカーのおかげで、私は二人の様子がよく"見える"。
ここは写真科がかつて使っていた現像室で、デジタルの波に押しながされて以降は物置にされていたものの、瑠華が入学したあとはそのアトリエと化している(安東先生の口添えで)。視覚サポートデバイスの光量調整がめんどうらしく、暗室のほうが落ち着いてアートに専念できるとか。
「おまえの新作か……」
漆黒の烈桜の足元では、ゆっくりと、
「うわっ?!」
烈桜が"牛銀河"を踏まないよう避けて歩いていると、突然、目の前に
「やっぱ、リィオはいいリアクションしてくれるぜ~。どうだ、この大作?」
腰を抜かした烈桜に手を差し伸べつつ、瑠華が得意げにサングラスを跳ねあげる。暗闇で瑠華のネオンカラーファッションは、クラシックな地球外生命体の登場シーンを彷彿とさせなくもない。
「……デカ牛はいらないんじゃないか?」
床に落としたラップトップを拾い、瑠華の手をおそるおそる握る烈桜。やわらかく温かい手がひょいっと、烈桜を引きあげた。普段と変わらないおどけた様子で、新鋭のデジタルアーティストが首を振る。
「なにいってんだリィオ! サプライズなくしてなにがアートだ」
「おまえのサプライズは下手すりゃ、びっくりさせすぎて死人が出るぞ」
「おっと、ペースメーカーか。さすが医師志望。そいつはわすれてた」
パチンと指をならすと、サングラスを掛け直した瑠華が宙に向かって両手を動かしはじめた。期待の芸術家の目には、新しいアイディアが見えているのかもしれない。
「なあ瑠華」
ただ、手を止めない瑠華の「ん~?」という気の抜けた返事はいつものこと。
「ボザール、いけよな」
「いかねぇよ」
瑠華の即答に一瞬、烈桜がひるむ。手が震えていた。
それでも烈桜は一歩を踏みだす。ミルキーウェイの中心に一歩、近づいていく。
「こんなチャンスがそうそうないのはおまえだってわかるだろ。だから……」
「んじゃ約束、わすれたんだレオ?」
サングラスを外し、手を止めた瑠華が目をつぶった。ホログラフィプロジェクターのキーンという小高い音が現像室を満たしていく。
「三歳の誕生日。庭で夜空をみながら約束したよな。『アタシたち自身が二人を
両腕をだらりと垂らし、銀河の真ん中で顔を上に向けるその声は、とても静かだった。
私は、かつて烈桜が私の画像を壁紙にして以来、ずっと彼の部屋を"見てきた"。
よく片づいている部屋には美術に関する本と、医学書がずらりと棚にならんでいる。本棚のところどころにはスペースがあって、いくつもの写真が収まっていた。どれもが烈桜と瑠華のツーショットで、二人の歩みはこの写真たちでもじゅうぶんわかるほど。
医学書をめくっているときに行き詰まると、決まって烈桜は、引き出しから古い一枚紙を取りだした。目を通しては、うなずいてから勉強にもどる。そういうことがなんどもあった。まるで、その紙に「がんばれ」とでも言われているように。
烈桜の瞳に映っていたのはいつも、拙い幼子の描いた絵。烈桜の表情を見れば"画家"の察しくらいつく。それに、現代に無数ある私の"眼"で見るかぎり、蛍光クレヨンの丸と線分の集合は、手をつないで立つ二人の絵で間違いない。その背後に散った黄金色の点々は星々なのだろう。
「……そんなわけない」
「へぇ~でもレオ、アタシひとりにパリ行ってほしいんだろ?」
「さきに行っててほしいんだ。おれは医師になっておまえの目を治したい。
「レオさ、なんか勘違いしてない?」
銀河の中心に立つ瑠華が幼なじみへ顔を向ける。焦点の合わない双眸がまるで、数多の可能性を見る
「べつに自分の目が不憫なんて、おもっちゃいないから。視力がなくなってアタシはほんとうの自分になれたんだよ」
まるで烈桜の表情が見えているように、瑠華が「わからない?」と首をかしげてみせる。
「そりゃあ、"物をみる"ってことに関しちゃ、まえのアタシにかなわない。デバイスがあったってレオのまばたきとか、無理してるときの目とか、みえないのはかなしいよ」
色違いのスニーカーとヒールが銀河を渡っていく。足取りに迷いはない。
「でもね」
アクセサリーに彩られた両手が烈桜の手を包んだ。
「アタシにはわかるんだ。レオがここにいるってことも、アタシはいま、大好きなアートを大好きな人とみている、ってことも」
「瑠華……」
シチュエーションまで計画していたとはおもわないけれど、銀河の中心で想いを告げるとは、なかなかにロマンチストだ。この位置からは見えないけれど、きっと、烈桜のほうが顔を真っ赤にしているに違いない。ラップトップを抱えた腕が小刻みに震えている。この震え方は拒絶されたときと、ぜんぜんちがっていた。
「だからさ、レオが医者になるっていうなら止めない。でもアタシのためだってなら、ほかの道もあるってこと、考えてほしい」
「……おれは、おまえが自暴自棄にみえた。あんなに好きだった絵画やら彫刻に派手な飾りをつけているのは、目がみえなくなった怒りをぶつけてるもんだとおもってた。だから、おまえの作品をみるのは……つらかった」
腕の震えが大きくなる烈桜。水を差すわけじゃないけど、せっかくいい場面なのに手ブレがひどくて酔いそう。
「ショックだな~アタシ、そんな湿気たツラしてた?」
「ほら、そういう心配させないようにって作り笑いしてるの、おれの目は誤魔化せないからな」
「ちぇっ。バレてたか。だいぶ慣れてきたけど、やっぱ、たまにズーンってなる」
「じゃあガマンするな。親や先生にガマンしてもおれにはガマンしなくていい。落ちこんだときは泣いたっていいんだ」
「……なかねぇよ」
すすりあげる音がするなり、瑠華がドカッと床にあぐらをかいた。赤らんだ鼻は見なかったことにしよう。
「おれも、もうちょい考えるから、瑠華もボザールのこと、考えなおさないか?」
瑠華の横に腰を下ろしながら烈桜がラップトップを開く。宙に浮かんだフライトチケットとルーヴル美術館のホログラフィパスのおかげで、私にも二人の表情が見える。
「ルーヴル行ってからでも遅くない」
「おっ?!」
瑠華がサングラスを掛けると、一気に顔がほころんだ。烈桜と顔を見あわせ、
「スカイフランスの往復チケットじゃねぇかよ! どっから盗んだリィオ?」
「盗んでないし。どうやったらチケット盗めるんだよ……これは、安東先生がレポートの仕上げに、ってくれたんだ」
「さっすが、プロフェッサー"アンドレア"だな。話が通じる」
「……はっ?」
「いやさ、ボザールの話んときに『下見しないと決めらんないし、行くんなら美大生としてルーヴルは欠かせないから、フライトのペアチケットたのむ』って言ってみたんだけど、うれしいね」
言いながら、瑠華がホログラフィのチケットに私と〈彼〉の似顔絵を描きはじめている。なんとなく髪型が見たことあるのはアートフュージョン、なのだろう。
「おまえが頼んだのか?! ずぶといな相変わらず。ていうか、よく先生も買ってくれたな」
「いいっていいって。教え子がボザール入ったら本人よりよろこぶタイプじゃん。それにプロフェッサーはしょっちゅう行ってるし、
「そういう問題か……?」
うんうんとうなずく幼なじみに烈桜はやはりため息をつくしかない。
「できた! みてレオ」
瑠華が烈桜にホログラフィチケットを突きだす。
「これ……ぶはっ!」
短冊状のチケットを横向きにつないだフィルムに、ミニチュアサイズのパリの街並みが描かれていた。エッフェル塔や凱旋門がゆっくりと横に流れ、手をつないだ二頭身の
「な、なんだよリィオ! おかしいか! なら返せっ」
光る
「わるいわるい。そうじゃないって」
チケットを奪い返そうとする瑠華をなだめ、烈桜がパリのランドスケープを上に掲げた。
「やっぱすごいなおまえは。いつか個展やるときは、受付くらい任せてくれよ」
「やだね。つーかレオ、アタシの作品はみたくないっつってなかったっけ」
「え?! いやあれは……その、言い過ぎたっていうか」
ばつが悪そな烈桜の肩にそっと、瑠華が頭をのせる。
「わかってるよ。ねぇレオ? いっしょに個展、開くんだよ。レオの
「……それは趣味が悪そうだな」
「言ったなーこのっ!」
瑠華が頬を膨らませる。それからさきに笑いだしたのはどちらのほうか。
宇宙の片隅で、いつまでも二人の楽しげな声が響いていた。
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