3. Chi trova un amico trova un tesoro.

 安東先生の部屋は学者の書斎というより、画家のアトリエにちかい。

 八畳ほどの教授室は四方の壁を背高の本棚が取り囲み、中央の空いたスペースを大小のイーゼルに立てかけられた描きかけのキャンバスが占めている。パレットやブラシ類をある程度片づけているあたりが〈彼〉の工房に似ている。

 私の位置はというと、キャンバスの一つがそう。安東先生は最近、頭のなかのイメージだけで私の模写を試みている。先生のために言っておくと、私だけじゃなく、たとえば横のキャンバスではハンカチを持ったご老人がスケッチのまま、色付けを待っている。

「安東先生……?」

「烈桜君か、はやかったな。そこのソファを使ってくれ。すぐいく」

 控えめなノックに振りかえった安東先生が烈桜の姿を認めると、そう促してからキャンバスに向きなおった。ちょうど先生は私の髪に取りかかっている真っ最中で、手が離せない。

「あの先生、拝見しても?」

 もちろんだとも、と振りかえらずに即答する安東先生。北欧家具のやわらかそうなペアのソファの脇を抜けて、ラップトップを抱えた烈桜が近づいてくる。

「ラ・ジョコンダの模写ですか」

 そう言って目をこらす烈桜は作画者の邪魔にならないよう、距離を取って背後に立っている。

「ああ、そうだ。模写は、ただ先人の真似をするためではない。画家の吐息を感じとり、なぜ、彼らがこのように描いたのか、そして題材をえらんだ理由を考えることに意義がある」

 淡々と答える安東先生の声は講義というより、自らの信じているものを口にしている響きがあった。

「画家の、吐息」

 噛みしめるように先生の言葉を繰り返す烈桜。ラップトップを抱えた手を握りしめるのを私は見逃さなかった。

「とはいえ、想像に頼らざるをえない部分は多いがね。われわれは所詮、過去の偉人へ想いをはせるのが精いっぱいだ。……さて烈桜君、待たせてしまったな」

 毛先を細い丸筆で整え、安東先生がパレットに置く。回転椅子を回すと見学者へ向き直った。

「きみのことだ。わたしがよんだ理由の察しはついているんだろう?」

「……瑠華のことですか。あいつが先生に迷惑をかけているのはわかっています。おれが代わりに謝ります」

「いやいや。たしかに瑠華君のおふざけは困ったものだが、まぎれもなく彼女の才だ。デジタルアーティストは数あれど、呼吸するように表現してみせる者は少ない」

 頭を下げる烈桜を制し、地毛パーマをゆらす安東先生。立ちあがって烈桜をソファへ促す。

「そこでわたしは、瑠華君をパリのボザールに推そうとおもっておるんだ」

「ボザール・ドゥ・パリですかっ?!」

 座りかけた烈桜が素っ頓狂に叫ぶのも無理はない。ボザールはフランスの高等美術学校のことで、モネ色の魔術師ルノワールたちが学んでいた場所として知られている。なかでも、パリ国立高等美術学校ボザール・ドゥ・パリはもっとも権威のある学府だ。

「でも教授、どうしてそれをおれに?」

 烈桜の表情は"訳がわからない"と言っている。こういうところは実に鈍いというか、人が良いというか。そんなものは決まっているというのに。

 案の定、安東先生もデキのよくない学生を諭すように鼻をならした。

「きまっているだろう。きみは瑠華君の親友ではなかったかね。彼女はきみが行かないだろうことをよんで、ことわったんだからな。言っておくが、ボザールの推薦枠はひとりだ」

「ことわった……?」

 今度の烈桜はショックを受けている顔だ。狼狽えているといってもいいくらい、顔から血の気が引いている。私も驚いたけれど、烈桜ほど青ざめた顔はできない。

「とりあえず、わたしのほうで保留ということにしてあるがね。編入手続きにはまだ時間がある。ただ、瑠華君は意思が固いから、そうそう変えんだろうとはおもうが」

 烈桜の向かいに座り、安東先生がじっと見つめる。

「おれは……おれもアーティストを目指していました」

 うつむいてぽつぽつと話しはじめる烈桜。その目はさながら、道しるべを探す旅人のよう。

「ですがいまは、迷っています。アーティストよりも自分にはやらなければならないことがあるんじゃないかって」

「まずこれだけ言っておこうか。本学を出たからといって芸術家になるわけではないし、なれるほど容易い世界でもない」

 戒める安東先生の言葉は、やはり正しい。

 いまも昔も、自分の腕一本で生計を立てられる者は限られている。人も社会も変わりゆくけれど、それだけは結果として変わらない。アーティスト芸術家はなおさら厳しい世界だ。

「そもそも、将来の可能性など無限にある。しかし……きみの迷いは、そういう類いではないのだろう?」

「……はい」

 うなずいた烈桜の手元をちらりと見て、安東先生が続けた。

「いち教員としては、才ある者をより伸ばしてやりたいと願うのが本心だ。だがそれも、あくまで本人次第。突き放すつもりはないが、最後は本人が決めねばどうにもならん。わたしがきみをよんだのも、そういうことだ。瑠華君を説得できるとすれば、きみしかいないだろう」

 時間をとらせたな、と立ちあがった教授に遅れて立った烈桜が頭を下げる。その顔はわかりやすいほどに暗い。

「そうだ烈桜君」

 部屋を出ようとした長袖の背中をよび止め、安東先生がツイード生地の内ポケットから輝く紙切れホロチケットを差し出す。

「意見がききたいと、きみが持ってきた中間レポートだが……わたしがどうこう言うより、自分でたしかめてくるといい。ルーヴルには先人たちの足跡そくせきが息づいている。きみたちにはよい刺激となるだろう」

 それは、ルーヴル美術館のアカデミアパスと、パリ行きのペア・オープンチケットだった。

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