2. L'acqua cheta rompe i ponti.

 ◎   ◎   ◎


全方位カメラに向かって叫んでいる若い男性が、有機ELディスプレイのフローティングウィンドウに映っている。口の端から泡を飛ばしながら、男性はせわしなく背後を指さしている。そのさきの"絵"を視聴者に見てほしいらしい。広角レンズに映りこんだ周囲の、いかにも迷惑そうな顔たちに気づいている気配は微塵もない。

「ルーヴル……か」

 耳の下に貼りついたワイヤレス骨伝導イヤホンを無造作に指でいじりつつ、机イスに置いたラップトップでストリーミングを観ていた青年がため息をもらした。

 薄手のスリーブシャツにオールドブラウンのウルフヘア。いまは机の下が見えないけれど、普段通りならバスケットシューズ。

 青年の名は都那瑠烈桜となる・れお。飾り気のないありふれた美大生、という感じだけれど教室ではかえって地味さが目立つもの。

 焦げ茶色の瞳は情熱を持てあまし、自分でも説明のできない焦燥感を隠しきれていない。

「おっ、プロフェッサー"アンドレア"の授業中にストミー配信サービスか? リィオも優等生やめたかついに。えらいぞえらい」

 隣で机に突っ伏した"レインボーヘア"がジャラジャラ鳴る腕を伸ばし、幼子でも褒めるように烈桜の頭をぽんぽんと叩く。さきまで寝息が聞こえていたけれど、虹色のショートボブはウルフヘアの一挙一動に鋭い。

「やめろって瑠華るか! あとそのよび方もよせってっ」

 腕輪やら指輪やらがフル装備された手を払い、烈桜がクラスメイトの羽千依莉瑠華はちより・るかをにらみつけた。声の大きさを自覚して慌てて講義室を見回している。ディスプレイに映っているルーヴルの"眼"から、ついでに私も別の"眼"へ移動する。場所は、烈桜のラップトップカバー裏。

 百八十人を収容可能な大講義室は、お世辞にも満員とは程遠い。巨人の肋骨さながら教室を横切る幾列もの机イスには人影がぽつぽつと、合計して十数人がいいところ。講義はライブ配信もされていて、遠隔地の受講者もそれなりにいるらしい。といっても、こっちの生放送ストリーミングを視聴している人数は多くない。

 ディスプレイ裏ステッカーの私の"眼"には、つまり、講義室はガラガラに映った。

「ルネサンス初期、のちにヴェロッキオの師となる彫刻家ドナテッロは、フィレンツェの織物職人の息子として生まれ、多くの作を残している。たとえば一四一七年、『聖ゲオルギオス像』をオルサンミケーレ教会の依頼で制作し……」

 幸い、学生たちは真剣に各々のデバイス(大学の支給品じゃなくて、個人の)へ目を落としているし、教壇でルネサンス初期の美術品を次々にホログラフィで宙に散りばめている教授は、完璧に自分の世界へ入って作品それぞれの特徴や時代背景について熱弁をふるっている。

 ちょうど、その"ホロ展覧"に私も出てきたので教室前方の"眼"も確保できた。制作年代は少しあとになるけれど、教授は授業中たいてい、私を傍に置いている。

「ふぁ~あ……」

『ストミー』の"眼"では瑠華が、微睡みを背伸びとあくびで締めくくっているところだった。それから躊躇なく机に腰を下ろすと、おまけにあくびをもう一つ。背中は完全に教壇向きで授業は眼中になし、といったようす。

「リィオのレポって、ラ・ジョコンダだったよな。好きだなーホント。どこまでいった?」

 左右でカラーリングのちがうスニーカーとローヒールをぶらぶらさせつつ、トレードマークの"サングラス"の下から目をこすりながら瑠華が眠そうな口を開く。両脚のニーハイソックスが、すっかり流行り廃れたサイバーパンク調にケバケバしいネオンをフラッシュしている。

「だから机に座るのやめろって。ジョコンダはおまえも選んだじゃないか。あー、テーマはなんだっけ……サイバーパンク的仮装?」

「ちげーよ。わざとだな、こいつっ」

 ニヤつく烈桜の肩をひっぱたく瑠華。

「アタシのはな、美の融合アートフュージョンっつったろ。『複合現実層による古典美術の再定義』だ。で、リィオは?」

「おれは『リーザ・ゲラルディーニの背景の考察』だけど」

「ぶっ。お固っ」

 口を押さえた瑠華が頬をヒクつかせる。

「おまえな……」

「悪りぃ悪りぃ。んで、進み具合は?」

「まぁ、ほぼ終わっちゃいる……けど」

「けど~?」

 やたら語尾を伸ばしながら顔を寄せる瑠華。嗅覚がない私にはわからないけれど、瑠華は香をつけるタイプじゃない。

「ち、ちかいって」

 だとしたら、昔の刑事ドラマに出てきそうな仕草でサングラスをズラす同級生に烈桜が顔を赤くさせるのは、なぜだろう。ますますキレイになっていく幼なじみへの照れ隠しだけではないはず。瑠華はファッションにこそ拘れど、メイクは無頓着だ。でも、肌はよく手入れされてキメが細かい。

「い、いやさ、本物みてみたいなーって」

「モノホンねぇ」

 色付きメガネから覗いた瑠華の目は、光を求めて彷徨うように"焦点が合っていない"。慣れない人はギョッとするけれど、付きあいの長い烈桜はそんなことない。もちろん、目が泳いでいる烈桜とは、またべつだ。鼻をならして体を離す瑠華に、烈桜がこっそり息を吐く。

「こっのご時世にかリィオ?」

 アクセサリーをジャラっと鳴らし、リングを着けた親指が後ろに向いた。

「……以上のように、偉大な芸術家たちのよき師でもあったヴェロッキオは、十五世紀の中ごろ、メディチ家の支援を受け、この『David』を……Dis doncなんてこった!」

 イタリアの偉大な音楽家ヴィヴァルディをおもわすアロンジュ風の白髪をゆらしつつ、とっさにフランス語が出てくるアンドレア教授。こと、美術史専門の安東先生は、こよなくルネサンス美術を愛するイタリア語とラテン語まで流暢に使いこなす御仁だ。

 教授室でボローニャからの交換留学生と快談するところも"見た"し、奥さんも知らない自宅の書斎で、Vergiliusウェルギリウスの『Aeneisアイネイアス』を情緒豊かにポスターの私へ朗読してくれたこともある。もちろん、そのポスターをルーヴル美術館で購入したときの安東先生も、私は"見ていた"。

Madameマダム・羽千依莉っ! またきみは! Vマテリアル教材にレイヤーするんじゃないと、いつも言ってるだろう!」

 文字通り、顔を真っ赤にさせた安東先生が講義室の後ろを指さす。

「アートフュージョンっすよ、プロフェッサーアンドーレア!」

「わたしの名前は安東だ! それにこのレイヤーはなんだっ?!」

 有名サッカークラブのユニフォームに着がえ、右手の短剣の先端に赤いユリの旗を垂らしているのは、安東先生が解説中のブロンズダヴィデ像。ただし、先生の肩あたりまでしかないホログラフィのダヴィデ像がすっかり、サッカーのスターに様変わりしてしまっている。足元のゴリアテはサッカーボールという徹底ぶり。

 背を向けたまま、イタズラの張本人は「なんでもない」と言わんばかりに頭の上で手を振っている。さしずめ、スタンディングオベーションに応じるアーティストだ。そのモーションで、教材ダヴィデが筆を持つ画家にイメチェンしたのは予想通り。

「おい瑠華っ。あんまり教授をからかうなって」

「からかってねぇよ。"ディベート"よ、ディベート。現代と古代のアートフュージョンってやつさ」

 腕を引っぱる烈桜に瑠華が茶目っ気たっぷりにウインクしてみせる。ウルフヘアはため息を漏らすしかない。幼なじみの二人はだいたいがこんな調子だ。

 けれど、二人ともちゃんと勉強はするし、成績はいつも申し分ない。美術作品が好きで仕方ないのだ。だから、しょっちゅう"討論"を吹っかけられる安東先生も、その場で叱りはしても、教授会へ上申はしないし、なにかと気にかけてくれる。それが二人を評価しているなによりもの証。

 ホログラフィをリセットさせようとして「ダヴィンチを被せたのか。時代の信ぴょう性はべつとしても、やはり彼がモデルというのは……」と教授がブツブツつぶやくあたりといい、私の異名モナリザを使わないあたりといい、瑠華のジョークが知識に裏づけられていることを表している。

「んなことより、モノホンがいいんならさリィオ、あれみてみな」

 ついと耳元へささやく幼なじみに、わかりやすく狼狽えながらも指された背後の壁を振り向く烈桜。振り向いて、盛大に"吹きだした"。

「どうよ、あれ? "モノホン"のラ・ジョコンダその人だぜ?」

 講義室の最後列、その後ろの壁に私はいた。

 ただ、"服を着ていない"。いわゆる裸婦画モナ・ヴァンナ

「ぶほっ……瑠華っ、おまっ! それはちがうだろ!」

 そうか?、と首をかしげた瑠華が指を鳴らす。

 今度は、裸の私が壁からぬっとせり出して、ファッションモデルばりに歩きながらさまざまな衣装を着ていく。まるで、中世から現代までの服飾の歴史を見ているみたい。

 モデルの私の"眼"から見ると、口の端をヒクつかせて笑いを堪えるサイケデリックなファッションの瑠華と、座った状態でちらちら目を向けてくる烈桜がなんとも対照的だ。烈桜の頬が赤らんでいる。

 おしゃれがしたいとおもったことはないけれど、こうやっていろいろな"私"で疑似体験できるのはまさに、現代ならではといったところ。

「おい瑠華!」

 いきなり立ちあがった烈桜が瑠華の肩をつかんだ。投影中のファッションショーが跡形もなく消える。

「な、なにさリィオ……」

「いい加減にしろ。やりすぎだ」

 烈桜の怒った顔はめずらしい。少し厳しすぎな目で瑠華をにらみつけている。いまの私は、講義室前方のヴァーチャルマテリアルから、二人を眺めていた。

「……レオ、言ってる意味わからねぇんだけど。なにイキってんのさ? モノホンみたいっていうから、わざわざホログラフィで作ってやったんじゃねぇか。感謝されてもキレられる筋はねぇとおもうけど」

 瑠華がサングラスを外してにらみ返していた。普段はひょうきんな瑠華だからこそ、徹底的に落とした声は薄ら寒さを感じる迫力。ちらほら、他の学生が何人か振り返ってまた手元に目を戻すほど。講義を続けながら、二人へ目をやった安東先生に気づいたのは私だけかもしれない。

「本物じゃない。ただの悪ふざけだ。やりたいなら勝手にやれ……おれには見せんな」

「……そうかよ」

 乱暴に烈桜の手を振りはらうと、色違いのシューズが教室のドアの向こうへ消えていった。そっちは視界の外で瑠華に追いつけない。

「くそっ……言いすぎた」

 ラップトップの前に戻ってきた烈桜が歯を食いしばっている。耳元のパッチイヤホンに触れているのはミュートにするためと、罪悪感をおぼえたときの仕草だ。

 ストリーミング(ルーヴルの配信者がセキュリティに見つかったところ)のウィンドウを閉じ、烈桜がトラックパッドの指を滑らせる。刹那、私の"眼"が途切れ、すぐにまた、浮かない顔の烈桜が見えるようになった。

 烈桜の焦げ茶色の瞳に映って見えるのは、ディスプレイに表示された壁紙の画像データと書きかけのレポート、それに"サングラスを掛けていない"瑠華と烈桜の写真。肩を組んでくるセーラー服の瑠華に驚いて引き剥がそうとする烈桜の照れ隠しがとても初々しい。じゃれ合う二人が卒業式のサイネージを遮り、風に舞った桜の花びらがシーンを彩る。

 それからまもなくだった。瑠華が視力を失ったのは。

 視覚サポートデバイスサングラスのおかげで瑠華は何の支障もなく生活できる。けれど、その目を通し、光を感じ、友の顔を見ることも好きだった絵画をありのまま鑑賞することもできない。

「おれたちの約束は……どうなんだ瑠華」

 塗料の染みついた指がトラックパッドをなぞって他のフォルダをたどっていく。細かく分けられたディレクトリには『レーザー人工視覚』『疑似色覚再現インプラント』『ハイブリッド義眼』などの文字が並ぶ。矢印カーソルはそれらを素通りし、『パリ』と名前の付いたフォルダで止まった。その日付は烈桜たちが美大に入学する少しまえ。

 フォルダには旅行代理店のパンフレットやら、『初級フランス語』の電子書籍に混じってルーヴル美術館の館内案内まである。"キャンセル済み"のホロチケットが主張するように立体のサムネイルを点滅させている。

「……さて、本日の講義はここまで」

 安東先生の声で講義室がにわかに騒がしくなった。あちこちで立ちあがる音や電話をかける学生までいる。当の安東先生はいつも通りとばかりに手際よく片づけを進め、教授用のリストバンドを叩くとホログラフィの作品たちが瞬時に姿を消す。

 講義室に残った唯一のディスプレイを烈桜が閉じる直前、安東先生の声がした。

Monsieurムッシュ都那瑠トナル、あとでわたしの部屋へ来たまえ」

「えっ。あ、はい」

 キョトンとした烈桜の顔を最後に、私の"眼"が閉じた。

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