第6話

 深更しんこうになる秋の夜。

 月は中天よりやや傾きかけ、天空にちりばめられた星たちが、なお一層の輝きを帯びていた。

 吹き渡る風が御堂の中に入り込む。慈雲は衣の袖を床に敷くと、夢の出逢いを心待ちにしながら己の体を横に預けた。


 やがて、遠き夢の世界の彼方に、聞きなれた女の声が静かに響き渡る。


 『あだなりと 名にこそ立てれ 桜花さくらばな―――』

 いつしか御堂の形は消え、眼前には一面の薄野原が広がり、そこに小さな塚と古き井戸が残されていた。

 『年にまれなる 人も待ちけれ』

 

 おぼろげなる女の姿が、段々とその姿を現していく。

 白き肌と紅の唇は、確かに先刻の女。しかしその身には、男の直衣のうしまといい透き額の初冠ういかんむりを戴いている。


 「先刻の女性か」

 思わず心の中で呟く慈雲に、女は花の微笑を静かに向ける。

 しかし、そのおぼろげなる姿は、女とも男ともつかない。

 「あれは昔男―――。在原の業平」

 慈雲の言葉に、業平の衣を身につけた女は月光にひるがえる袖を返しながら、往時おうじしのぶその姿を恥じつつも、昔男の心そのままに移り舞を舞ってみせる。

 その優美さ。慈雲は暫し時の流れを忘れ、目前の女性の姿に魅せられていた。


 「思えば十九(つづ)の歳、『筒井筒』の歌を詠み交わした古より、果たして幾歳月が過ぎ去ったのであろうか・・・・・・」

 翻る舞の袖が、女の胸中に在り続けた昔語りを現出させる。

 井筒の淵に寄り添い、丈比べをしたいにしえ。共に交わした一首により、契りを結んだかつての想い出。


 『暫く会わぬうちに、井筒の井桁と背を比べた我が丈も、いつの間にか伸びたようだ』


 業平の歌に、女は片鱗へんりんの迷いもなく返歌を贈った。


 『私の振り分け髪も、もはや肩を過ぎるほどになりました。この髪をお上げくださる方は、あなたの他に誰がいましょう―――』


 生ひにけらしな 妹見ざる間に

 君ならずして 誰かあぐべき―――


 時は流れ、万事がその姿を悉く変えようとも、昔日の想いだけは永久に消えることはない。

 在原寺の古き井戸に映る月は、彼の地と現世を繋ぐ光を残し、どこまでも澄み渡る。

 湧き上がる想いに身を任せ、女は井筒のもとに駆け寄る。

 それは互いに将来を誓い合った形見の場所。

 生い茂る薄をき分け、女は井の中の水面を覗き込む。

 映るのは昔男に身をやつした自身の姿。それはやがて、かつての想い人そのものへと形を変えていく。

 昔日せきじつの想いが互いの面影を一つにした瞬間、女は一人つぶやく。



「―――見れば 懐かしや」



 遠き昔より流れ続けた時間が、静かに止まった・・・・・・。








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