第4話

「昔。この石上いそのかみという里に、在原の中将ちゅうじょう業平なりひらは居を構えられていた」


 移り行く季節の中、やがて業平は紀有常の娘と契りを交わし、長きに渡りこの地で暮らしていた。

 そんなある日。ふとしたことで河内国かわちのくに高安たかやすの里に住む女性を見初みそめた業平は、夜に入りて足しげくその女のもとへ通うようになった。家には妻である紀有常の娘を残し。

 しかし、妻は夫の不義をとがめることはない。そればかりか、夜な夜な竜田山たつたやまを越えてゆくその身を案じ、独り残された部屋で一首の歌を詠じる。


 『かぜふけば おきつしらなみ たつたやま』


 夜半よわにたった一人で通う夫を想う妻。その優しき心に胸を打たれた業平は、それ以降高安に通うことはなくなったのである。


 「二人の出会いの時は、それより更にさかのぼります・・・・・・」

 女の昔語りはなおも続く。


 大和やまとの国に、隣り合う二つの家がある。そこに住む男子と女子は、幼き頃より仲睦なかむつまじかった。

 二人は井筒いづつの淵に寄り添っては互いに背比べをし、水面に映る姿を見ては、やがて夫婦の契りを結ぶことを心の中で約束していた。

 しかし時は流れ、成人となった二人には恥じらいの心が生まれてくる。そんなある日のこと、男はかつての幼馴染おさななじみに、一首の和歌を贈った。


 「筒井筒つついづつ 井筒にかけし まろがたけ ひにけらしな いも見ざるに」


 自身の成長を告げるその歌には、一つの意味が隠されていた。その真意を悟った女は、同じく一首を返した。


 「比べこし 振り分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき」


 妹背いもせの仲を誓う求婚の和歌。それに答える女の返歌へんが。こうして、互いの心の内を三十一文字みそひともじに託した二人は結ばれたのであった―――。


 「その二人こそ、伊勢物語に見る業平と、『井筒の女』とも呼ばれし紀有常の娘。その恋物語も今は昔のお話でございます」

 「さても詳しく語られることよ」

 慈雲はいよいよ不思議の念を抱くと、女にその素性を尋ねてみた。

 「あなた様は常人ただびとではありますまい。名を賜わってもよろしいか」

 「お坊様・・・・・・」

 やがて、鮮やかに残る月光を背に、女の姿が段々とおぼろげになっていく。


 「さぞ、徳の高き御方おかたとお見受け致します。私こそは、昔語りに申す紀有常の娘―――」

 「然らば、『井筒の女』と申すも」

 「私のことでございます」

 開く花が段々と萎むように、女の紅き唇と白き肌が闇に吸い込まれて行く。

 やがて、薄野すすきのを渡る風が再び慈雲の頬を冷たく撫でていくと、それまで確かに居たはずの女の姿は、苔むす古塚の影に消えて行った。














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