第3話
ゆるやかに流れる時間のなか、慈雲の唱える
と、その時。鮮やかな月光に照らし出された境内の薄の中に、一人の女性の姿がおぼろげに浮かび上がった。
既に日は落ち、吹き渡る風も
「はて、このような夜更けに何ゆえ
声を掛けようとしたがひとまず思い止り、御堂越しに女の様子を暫し
『里の人か』
ふと心の中で呟くが、どうやらそうでもないらしい。身に着けている衣も、今の時世には見慣れぬもの。不思議なる女人の姿を、慈雲はただ沈黙のままに見つめていた
「暁ごとの
独り呟く女の声が、物侘しき古寺の境内にぽつりぽつりと残っていく。
やがてその声は静かな
この世の無常。
昔日の想いになお心を留める
それでも浄土に住まう御仏は、
「――― 定めなき世の夢心 何の音にか覚めてまし」
女はやがて古き井戸の方へと向かうと、そこから汲み上げる清水を携え、小さき塚の前に花を手向け一心に祈りを捧げた。
流れ行く時の中、女の姿は一向に動く気配もない。いよいよ不思議に思った慈雲は、思い切って御堂の外へ出るとその女にそっと声をかけた。
「申し、何ゆえそのような塚に手向けをなさるのですかな」
慈雲の問いに、女は別に驚くふうもなく、静かに顔を上げた。
流れる黒髪がほのかな月明かりに映し出され、通り過ぎる秋風の中で緩やかな弧を描く。
やがて
「この寺の
魂の底に染み渡るような美しい声。
「世に名を残した彼の人の亡き跡が、この古塚と聞き及んでおります。さればこそ、このように手向けの花と水を供えているのです」
静かに、優しく答える女。
「はて、業平といえば遥か遠き昔に伝えられた人。それを何ゆえこのような時分に手向けをなさるのか。もしや、ゆかりのお方であるか」
「いや、ゆかりなど何もございませぬ」
「元より生前の頃から「
それでも、かの物語は今に伝わり、人の心に業平は生き続ける。
名ばかりは形としてこの寺に残り、故人の
「見るだに懐かし―――。」
女はなおも昔男の
中天に差し掛かる月。時折吹き渡る風が、冷たく頬を
変わらず無言のままで古き塚を見つめ続ける女。しかしその瞳は、塚の奥にある目に見えぬ何かを求めているように、慈雲には感じられた。
そして流れ行く空白の時間。
「申し」
たまらず声をかける。しかし女は答えない。
「一つ
慈雲の言葉に、女は静かに振り向いた。
「何でございましょう」
「かつての業平と
「昔物語を」
微かな声が、薄の鳴らす音に掻き消えていく。
程なくして女は、遠き世の物語を心静かに語って見せた。
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