第三章 あったか優しい甘酒
第11話
その日は、朝から風が強くて、昼過ぎには雨も降り始めた。七月に入って暑苦しい日が増えてきていたけれど、今日はなんだか肌寒いぐらいだ。
私は神代さんに土鍋でのご飯の炊き方を教わりながら、だんだん激しくなる外の音に内心ビクビクしていた。
昨日から今日は台風だと言われていたからベランダのものは全て部屋の中に入れた。あ、でもシャッター雨戸を閉めるの忘れちゃったから、それだけ帰ってから閉めなくちゃ。
でも、本当は一人暮らしをし始めて、初めての台風は不安で仕方がない。でも、弱音を吐いたところで一人に変わりはないし、頑張るしかないのだ。
「……おい、聞いてんのか。岡部真緒!」
「ひゃっ。な、なんですか。急に大きな声出して」
「さっきからずっと呼んでる。それ以上そのままにすると食べれたもんじゃなくなるぞ」
「え? あ、あああ~~!」
沸騰し始めた土鍋からはぶくぶくと泡が吹き出し始めていて、私は慌てて火を弱火にした。
「危なかったー。ってか、気付いたなら弱火にしてくれてもいいじゃないですか」
「それじゃあお前の練習になんねえだろ」
「それはそうですけど……」
神代さんの言う言葉は正論だ。でも人間、正論を受け入れられるかというとそうじゃないことの方が多い気がする。だって別に先に火を止めてから優しく「こういうときはちゃんと見とかなきゃダメだぞ」とか言ってくれたって……。あ、ダメだ。そんなこと言う神代さん、気持ち悪くて熱でもあるのかと思っちゃいそう。
「何をブツブツ言ってんだ。あとはそのまま十五分ぐらい置いておいて、水分がなくなるまで待つ」
「はーい」
「その間に片付けしといてくれ。今日はもうすぐ閉めるから」
時計を確認すると、まだ二十一時前だった。囲炉裏の閉店時間は二十二時だからいつもよりも一時間も早い。
「さすがに早くないですか?」
「台風が来るからな」
その言葉に、ドキッとする。もしかして、さっき私が外を気にして不安そうにしてたのに気付いて、それで?
でも、そんなときめきは一瞬で打ち砕かれた。
「こんな天気の中、来るお客さんもいねえだろうから、開けてても経費の無駄だ」
「……たしかに」
神代さんの言うとおり、今日はいつにも増してお客さんが少ない。バイトし始めた当初に比べれば増えてきていたお客さんも、今日は七時頃に溝渕さんが来たっきりだった。
「ってことで、片付けて飯食ったらさっさと帰るぞ」
「はーい」
いつものように机の上を拭き、床を掃除する。そんなことをしている間に店内にはご飯の炊けるいい匂いが漂い始めていた。
「これ、そろそろですか?」
「だな」
土鍋からはパチパチと音がし始めていた。そっと蓋を開けると、そこにはつやつやとしていて一粒一粒が立ったご飯があった。
「うっわぁ、なにこれ。すっごく美味しそう」
「あとは火を止めて、もう十分ぐらい蒸らしたらできあがりだ。お焦げを作るなら、少し火を強めるがどうする?」
「んー、今日はいいです。もう待ちきれません」
「そうか」
私の言葉に頷くと、神代さんは冷蔵庫から牛肉と生姜を取り出した。
「何か作るんですか?」
「今日は元々お客さんの入りが悪いと思ってたから、余りが出ないようにしてたんだ。だから、俺らの賄いがない。と、いうことで簡単にできる牛肉のしぐれ煮を作る」
「簡単に、できる?」
その感覚が、未だに私にはわからない。だって、お料理が簡単にできるなんてそんなことあるわけない。下ごしらえにだってすっごく時間がかかってるのに。
「これは本当に簡単にできるんだよ」
私の疑問に、神代さんは手を止めることなく答える。
「そうなんですか?」
「ああ。食ったことあるか?」
「おばあちゃんが作ってくれたのなら。……あ、そういえば。そのときおばあちゃんあのお醤油を使ってた気がします」
「再仕込み醤油か?」
頷く私に、神代さんは戸棚からあのおばあちゃんの醤油――と、同じ種類の醤油を取り出した。
おばあちゃんが遺してくれたお醤油は大事に家に置いておけと言って、再仕込み醤油の中でもおばあちゃんの作ったのに近い味のもの仕入れてくれたのだ。私がいつでもおばあちゃんの味を食べられるように、と。
ぶっきらぼうで口が悪いくせに、そういうところは優しいから、少し困る。
「ふーん? じゃあ、これを使って作ってみるか。全部これだと濃すぎるから濃口と混ぜてっと」
ブツブツと呟きながら、神代さんは私に生姜を手渡した。
「これ、皮剥いて千切りにして」
「はい」
その間に、神代さんはタレを作り始める。再仕込み醤油と濃口醤油を混ぜたものに味醂、それから酒と砂糖を合わせて、小さなスプーンにそれをすくった。
「どうだ」
「お醤油が多すぎます! これじゃあ濃すぎですって」
「そうか。それじゃあ、全体的に分量を足すか」
神代さんが調整している間に、私はなんとか生姜の皮を剥くと千切りを終えた。……ちょっと不格好だけど、千切りとしてギリギリ許容範囲だと思う。
そういえばバイトをし始めた頃、乱切りが何かわからなくて適当に切ってたら怒られたなぁ。その頃に比べればだいぶ進歩したと自分では思う。
「できました」
「お、ちゃんと千切りだな。けど、もう少し細くしろよ」
「う……。次から気をつけます」
神代さんは鍋にタレと生姜を入れると煮詰め始める。沸騰してきたそれに先ほどの牛肉を入れると、あとは煮汁が少なくなるまで煮詰めればできあがりらしい。
「ホントに簡単なんですね」
「これならお前でも失敗しないだろ」
「ですね! 今度作ってみようかな」
こういうのを家でもささっと作れるようになると、なんとなく料理ができるようになった気分になれるかもしれない。でも、そんな私に神代さんは冷たい視線を向けた。
「煮詰めすぎてドロドロにならないようにな」
「大丈夫です!」
「ホントかよ」
神代さんはふっと笑うと、菜箸でお鍋の中をかき混ぜる。いい匂いにつられるようにしてお腹が鳴った。
「お腹すきました!」
「現金なやつ。さっきまで台風にビビってたくせに」
「何か言いました?」
「なんにも。そんなに腹減ったなら、先に土鍋の飯をよそっといてくれ。そろそろ蒸らし終わったと思うから」
「はーいっ」
言われたとおり、土鍋ご飯をお茶碗によそって、それから冷蔵庫に用意されていたかぶの葉のごま和え物を取り出すと机に並べた。
「どけ」
神代さんの声に慌てて身体をよけると、机の上に牛肉のしぐれ煮が盛り付けられた器が二つ置かれた。
「ひゃー、すっごく美味しそう!」
「お前、さっきからそれしか言ってねえぞ。語彙を増やせ、大学生」
「だってホントに美味しそうなんですもん! 早く食べましょう!」
「はいはい」
シュルッと音を立てて神代さんはたすきを外す。ふわっと舞うように袖が揺れ、その姿に見惚れてしまう。
黙ってると、本当に格好いいのに……。
「どうした? 食わないのか?」
「た、食べます!」
じっと見つめる私に怪訝そうな表情で神代さんは視線を向けるから、慌てて「いただきます」とお箸を持った。
まずは、牛肉のしぐれ煮を一口。
「んんっ! なにこれ、めっちゃ美味しい! サッと煮詰めただけなのにしっかり味もついてる!」
「へぇ。再仕込み醤油を使うとこんな味になるのか。普通に作るより断然美味いな」
神代さんはご飯の上にのせるとガッツリと食べ始める。ああ、その食べ方絶対に美味しい。甘辛いしぐれ煮は絶対に白ご飯に合う。合いすぎる。
でも、さすがに私はそんなことできないので、しぐれ煮とご飯を交互に頬張った。甘辛いしぐれ煮ももちろん美味しいんだけど、炊きたての土鍋ご飯の美味しさときたらもう!
「私、ご飯だけでもいけそうです」
「そうか、ならしぐれ煮は俺がもらってやるよ」
「あげませんよ!」
「ちっ」
舌打ちをする神代さんからしぐれ煮を守るように食べる。そんな私を、神代さんは笑った。
そういえば、最近神代さんはよく笑うようになった気がする。最初は仏頂面の方が多かったのに、ふとした瞬間の表情が柔らかくなった。少しは距離が縮まったのだろうか。だとしたら、嬉しいな。
……嬉しい?
「よし、食べよう」
今のは、そう何かの気の迷いだ。気のせいに決まっている。それよりも今はこの美味しい料理を食べるんだ。
私はひたすらに無言のまま食べ続けた。
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