第10話
キッチンの下にある調味料入れの中の一番奥にそれはあった。
「おばあちゃんのお醤油……」
一人暮らしを始めるときに持ってきたおばあちゃんの手作りのお醤油。いつもこれを使っておばあちゃんは味をキメてたっけ。
鼻の奥がツンとなるのを感じる。私にとってこれは正真正銘、おばあちゃんの味だった。でも、私にはこれを使いこなすことはできなかった。
普通のお醤油よりも濃いこのお醤油は、例えば煮物に使うと辛くなりすぎ、炒め物にかけるとまるでソースをかけたようになってしまう。まあ、そもそも過程を失敗していた私がこれを上手に使えたところで美味しくなったかというと話は別だけど。
でも、さっきの神代さんが作ってくれたあの肉じゃが。あれにこれをかければ、きっと、ううん、絶対に美味しくなる。
私はお醤油の瓶をギュッと握りしめると、囲炉裏へと急いで戻った。
「お待たせしました」
「遅い」
「すみません」
囲炉裏へと戻ると、私が部屋に戻っている間に焼いたのか、だし巻き卵が一つ増えていてカウンター席に並んでいた。
「で、調味料ってそれか? 醤油?」
「はい。これ、おばあちゃんがよく使ってたものなんですけど」
私から受け取ったそれにラベルがないことに気付くと、神代さんは近くにあった小皿に醤油を出した。そして小指に醤油をつけると、舌でペロリとなめた。
「再仕込み醤油か」
「さいしこみじょうゆ? 普通のお醤油より濃いなとは思ってたんですが。なんですか、それ」
そう尋ねた私の質問に、神代さんは質問で返してきた。
「これ、使ったことあるか?」
「はい、あります」
「失敗しただろ?」
「どうしてわかるんですか⁉」
まだ何も話してないのにどうしてわかったの? そう思ってる私の心を読んだように、神代さんは口の端をあげて小さく笑った。
「醤油には薄口と濃口があるのは知ってるな」
「はい。色は薄いけれど塩分が高い薄口醤油はお吸い物なんかに、反対に色は濃いけれど一番一般的に使われているのが濃口醤油です」
「正解。でも、この醤油はそのどっちでもない。これはな再仕込み醤油といって普通の醤油の何倍も手間をかけて作られていて、味も濃口醤油より濃厚なんだ」
「それで、そんなに濃かったんですね」
だからこのお醤油を使って作ったお料理は上手くいかなかったのか。
「まあ、お前の場合、失敗の原因は醤油のせいだけじゃないと思うがな」
「ぐっ……」
正論すぎて言い返せない。
「しかもこれ手作りか?」
「はい、おばあちゃんが生きてたときに作ってて、それをこっちに来るときにもらってきたんです。おばあちゃんの味が作れるかもって……。でも、私には無理でしたけど」
「そうか」
なんだか重い空気が店内に流れる。
私はその空気を追い払うように、わざと大きな声を出した。
「い、今はそんなこといいんです! それより、それをほんの少し肉じゃがに入れてください」
「わかった」
神代さんはお醤油の瓶を開けると、お玉に少し出してそれを小鍋に入れた。そのまま煮詰めること二分。火を止めて、神代さんはお鍋の蓋を開けた。
「わあ、いい匂い」
「だな。よし、食うか」
できあがった肉じゃがを手際よくお皿に盛り付けると、私たちはカウンター席に座った。
「いただきます」
まずはだし巻き卵から。一口サイズにお箸で切ると、そのまま食べてみる。
「美味しい!」
お出汁の味がよく利いていて、甘塩っぱい卵焼きとはまた違った風味だ。そして、次は大根おろしに少しお醤油を落として、それと一緒に頬張った。
「んー! 大根おろしと合いますね! 私、卵焼きっていうと甘いのしか食べてこなかったんですけど、これ癖になりそうです!」
「そらよかった。んじゃ、俺も食べるか」
神代さんは肉じゃがのじゃがいもをお箸で掴むと、口に放り込んだ。きっと美味しいはず。そう思うのに、人に食べてもらうのはこんなにもドキドキするのだということを、囲炉裏でバイトを始めて知った。私が美味しいと思う味を、神代さんも美味しいと思ってくれるだろうか。
「どう、ですか?」
何も言わない神代さんに、不安になる。思わず尋ねるけれど、そんな私の言葉なんて耳に入っていないようで、神代さんはもう一口、さらに一口と肉じゃがを口に運ぶ。そして。
「美味い」
「ホントですか?」
「ああ。……凄いな。正直、こればっかりは半信半疑だったんだが、確かに再仕込み醤油を入れる前とあとではコクが全然違う」
「よかったぁ」
ホッとして、座っていた椅子の背もたれに倒れ込むようにする私に、神代さんは小さく笑った。
「なんだそれ。自信満々だったじゃねえか」
「そ、それは、そうなんですけど。でも、神代さんが美味しいって思ってくれてよかったです。あー、安心した。私も食べよっと」
背筋をただして、私も肉じゃがを口に入れた。
「ホントだ。美味しい……おいしっ……」
「おい、どうした?」
「え……。あ……」
気付けば、私の頬には涙が流れていた。悲しくなんてないのに、辛くなんてないのに、知らないうちに頬を涙が濡らしていく。
「お、かし……いな。あれ? わた、し、どうしちゃったんだろ……」
慌てててのひらで拭うけれど、次から次へとあふれ出る涙は止まることを知らないようで。そっと差し出されたおしぼりで顔を隠した。
「……すみません、急に」
「いや、別にいいが。いったいどうしたんだ?」
どれぐらいの時間が経ったのか……。涙でグチャグチャになった顔をおしぼりで拭くと、私は顔を上げた。そこには心配そうに私の方を見る神代さんの姿があった。
「わかんないんです。でも……この肉じゃが、おばあちゃんの作ってくれた肉じゃがと同じ味で……それで、おばあちゃんのことを思い出しちゃって……」
「そうか」
「うち、両親はが共働きで忙しくて、ほとんど同居のおじいちゃんとおばあちゃんに育てられたようなもんだったんです。母親の味って言われても思い出すのなんておばあちゃんの作る料理ばっかりで。なのに、年明けにおばあちゃんが死んじゃって、それで……」
どうしてこんな話をしてしまっているんだろう。
……でも、神代さんなら聞いてくれそうな気がした。
「もう二度と食べられないって、そう思ってたのに……っ。神代さん、ありがとう、ございます」
「……これは、お前が作った味だ」
「そんなことないです! 神代さんが作ってくれなかったら、私には絶対に作れなかった!」
「違う。お前がちゃんとおばあさんの味を覚えてて、今と過去とを繋げたんだ」
「今と、過去とを?」
「ああ。いい物を遺してもらったな」
神代さんは私が持ってきた醤油に視線を向けると、優しく微笑んだ。
そして何かを考え込むように黙り込んでしまった。
どうしたのだろう……。
「神代さん?」
「お前は凄いな」
「え?」
「俺は、この店を継いでからずっとじいさんの味を再現したいとそう思ってた。でも、どう頑張ってもできなくて……それどころかじいさんが店をやってた当時の常連客も次々に離れていった。俺が作る料理が、不味いからだ」
そんなことない、と口先だけで否定するのは簡単だ。でも、きっとそんな言葉を神代さんは望んじゃいない。毎日お店を綺麗にして仕込みして、いつお客さんが来てもいいようにしていることを私は知っているから。
「お前には感謝してるんだ。お前がこの店で働くようになってから、お店の味が変わったとお客さんに言われることが増えた。気付いてたか? 今日来たお客さん、つい先日も来てくれてたんだ」
知ってます。そしてそのことに、どれだけ神代さんが嬉しそうだったかも。
「いつか俺も、じいさんの味を作ることができるのかな」
ポツリと呟いたその一言に、私は何も言うことはできなかった。その代わり。
「私、神代さんの作るご飯、好きですよ」
「……そりゃどうも」
ぶっきらぼうに言う神代さんにもう一度「はい」と言いながら、私は少し冷めただし巻き卵を口に入れた。それはお出汁の利いた、とっても優しい味がした。
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