第二章 おばあちゃんの肉じゃが

第7話

 バタバタと走りながら帰宅すると、私は勉強机に向かう。今日は地下鉄が混んでいて一本見送ってしまったから時間がギリギリだ。時計を確認すると、十七時四十五分。十八時半には下に降りなければいけないから、残り四十五分しかない。


 鞄から今日の講義で出された課題を引っ張り出すと、なけなしの集中力でそれに取り組んだ。


「終わったぁっ」


 なんとか一通りの課題を終えると、それを勉強机に備え付けられた本棚に片付ける。そして壁に貼り付けた時間割表を確認しながら明日の講義の準備を鞄に詰め込むと、先週のうちに終わらせた明日提出の課題を入れ部屋を飛び出した。


 鍵をかけ、階段に向かう途中目に入ったお隣の部屋。相変わらず誰が住んでいるのかわからないけれど、昼間は夜と違って人がいる気配がするところを見ると、夜のお仕事の人なのかもしれない。


 そんなことを考えながら階段を降り、私は囲炉裏へと向かった。


「おはようございます」

「遅いぞ」

「すみません」


 扉を開け挨拶をした私に返ってきたのは、神代さんの冷たい言葉だった。


 謝りながら壁に掛かった時計を見ると、六時三十二分。ギリギリ、間に合ってなかった。たった二分。されど二分。私は神代さんに頭を下げると慌てて掃除用具入れから箒を取り出し、店内の掃き掃除を始めた。


 昨日から始めた囲炉裏でのバイトは、なかなかにハードだった。


「それ終わったら机拭いて」

「はい」

「そこ、ゴミ落ちてる」

「はい!」


 味見をしてくれればいい、そう言っていたはずなのに、実際は雑用がほとんどで。お店の中と外の掃き掃除、机拭きに洗い物。やらなければいけないことはたくさんあった。しかもそのどれもが立ちっぱなしということもあり、二日目にしてすでに私の足は筋肉痛だった。


「ひーん、こんなことするなんて聞いてないよー」

「味見だけして給料もらえるわけねえだろ」

「それはそうですけど」


 ちょっと考えればわかることだと言われてしまえばそれまでなんだけれど、でも聞いてないものは聞いてない! とはいえ、立地と、それから賄い付きは魅力的なのだ。


 ちなみに初日である昨日の賄いは鯖の味噌煮だった。臭みもなくふっくらと煮詰められた鯖味噌は丁寧に造られていることが伝わってくる。ただそれは賄いというかなんというか、下ごしらえしていたのにお客さんの入りが少なくて出されることのなかったものが私の晩ご飯になったというか。


 あれってもしかしなくても、私がいなかったらそのまま捨てられてたんじゃあ。


「なんだ?」


 考え事をしながらぼーっと神代さんを見つめてしまっていたようで、私の視線に気付いた神代さんが不審そうに声をかけた。


「え、いやその……。私が来るまで昨日みたいに残った材料ってどうしてたのかなって。まさか、捨ててたとか……?」

「そんなもったいないことするか。冷凍庫に入れて俺が食う。さすがにお客さんには出せないからな」

「たしかに」

「だから、お前が食ってくれると助かるよ」


 その言い方に引っかかるものはあるけれど、助かるのは私も同じだ。そういえば。


「昨日の鯖の味噌煮ですけど」

「まずかったか?」

「そうじゃないんですが……」

「はっきり言え。それがお前の仕事なんだから」


 今まさに机を拭いている私に、それがお前の仕事なんだからとはよく言ったもんだ。でもまあ確かに味見をしてほしいって言ってたし。言ってもいい、よね?。


「それじゃあはっきり言いますけど。その、煮汁にもうほんの少しお醤油を入れるといいと思います。あとお砂糖がほしいです」

「砂糖? 味醂じゃ駄目だったか?」

「駄目ではないですしもちろん味醂もいるんですけど、もうちょっとだけ甘みがある方が旨味が出ていいと思います」

「わかった」


 神代さんはカウンターの隅に置いてあったメモ帳のようなものを取ると、何かを書き込んだ。もしかすると私の言葉をメモしているのかもしれない。


 ――それにしても。


 私は机の上を拭きながら、カウンターの中に立つ神代さんの姿を盗み見た。深緑色の着物を着た神代さんは、袖のところをたすき掛けしている。ああすることで料理の時に袖が邪魔にならないのだと昨日教えてもらった。腰には白いエプロンのようなものをつけていて、正直すっごく格好いい。


 味がどうであれ、神代さんの存在を知れば女子大生や会社帰りのお姉さんたちが押し寄せるんじゃあ、と思わなくもない。けれど、そんなことを言えば神代さんは怒るのだろう。私なんかに味を見てほしいと頼むほど、自分が作る料理に対して誠意を持っている人だから。


「なんだ? ジロジロ見て」

「み、見てません!」

「さっさと拭き終われよ」

「わかってますー」


 拭くと言っても店内に机の数はそう多くない。二人がけ席と四人がけ席を拭き終わると、私はカウンターへと向かった。ここからだと神代さんの姿がよく見える。ううん、よく見えすぎる。つい視線をそちらに向けそうになるのをなんとかこらえると、私は年季の入ったカウンターを綺麗に拭き上げた。


 カタッという音が聞こえた気がして、入り口の引き戸へと視線を向けると、ガラスの向こうに影が見えた。


「こんばんは」


 カラカラと音を立てて扉が開くと、そこには一人の男性が立っていた。


「い、いらっしゃいませ」

「おや、バイトの子を雇ったん? はじめまして」


 そのお客さんは慌てて頭を下げる私を見て少し驚いたような表情を浮かべたあと、ニコニコと笑いながらカウンター席へと座った。


 ゴホン、と神代さんが咳払いをするのが聞こえて、私は慌ててお水とおしぼりをお出しする。


「ありがとう」

「何にされますか?」

「お嬢さんのオススメはなんやろか」

「え、えっと……その……」


 突然の質問にしどろもどろになってしまう。だって、オススメって言ったって私が食べたことがあるのなんて肉じゃがとカレイの煮付けと鯖の味噌煮と……。


「あ、豚汁が美味しいです」

「ふっ……ははっ」

「お前なぁ」


 私の言葉にお客さんは吹き出し、そして神代さんは呆れたようにため息をついた。


「飯食いに来たお客さんに対してオススメは豚汁ってありえねえだろ」

「だ、だって! 豚汁は本当に美味しかったですし」

「……豚汁は、か」

「あはははは。たしかになぁ、徹君の作る豚汁は美味しいものねえ」

「溝渕さんまで」


 溝渕さんと呼ばれたお客さんはおかしそうに笑う。それにしても、徹君って神代さんのことだよね? 常連のお客さんはいないって言ってたけどこの人はいったい?


 そんな私の疑問に気付いたのか、神代さんが口を開いた。


「この人は溝渕みぞぶち健三けんぞうさん。じいさんがこの店をやってたときからのお客さんだ」

「そうなんですね。はじめまして、私は岡部真緒です。昨日からこちらで働かせてもらってます」

「徹君がバイトの子を入れるなんてなぁ。真緒ちゃん、徹君のことをよろしく頼むよ」


 人の良さそうな笑顔を浮かべて溝渕さんは言う。


 そういえば、溝渕さんと話をしている姿を見て気付いたけれど、神代さんの言葉は関西弁? それとも京都弁、というのだろうか。それとは違い、どちらかというと標準語に近いイントネーションで話をしていた。こちらで出会う人はみんな溝渕さんのような京都の言葉を使っていたけど、神代さんは京都出身ではないのだろうか? でも、おじいちゃんがこのお店をしていたと言っていたし。


 そんなことを考えていると、神代さんは眉をひそめながら首を振った。


「やめてくださいよ。俺が行き倒れてたこいつを拾ってやったんですから」

「あーっ! そんな言い方やめてくださいよ! まるで私がひもじい子みたいじゃないですか!」

「違うのか?」

「うっ……」


 何も言い返せなくなる私に神代さんは勝ち誇ったように笑う。そんな神代さんに、私はなんとか一矢報いようと、胸を張りふふんと笑った。


「でも、神代さんだって私のこと必要としてるじゃないですか」

「それ、は」

「それともあれは嘘だったんですか? やっぱり私のことをいいようにしたくて、それで……」

「なっ!」


 今度は神代さんが言葉を失う番だった。してやったりだ。わざとらしく両手で顔を覆うと、その隙間から様子をうかがう。神代さんは「あー」だの「うー」だの唸っていた。


 そんな私たちを、溝渕さんは目尻にしわを寄せに笑った。


「徹君の負けやね」

「……溝渕さん。注文、何にしますか?」

「そうだねえ」


 話をそらすように私を無視して神代さんは溝渕さんに話しかける。そんな神代さんの態度に溝渕さんは笑いをかみ殺しながらメニューに目を落とした。

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