第8話

 結局この日、溝渕さん以外に三人ほどお客さんが来た。みんなお父さんかそれより年上のおじさんばかりで、神代さんの反応を見るに初めてのお客さんのようだった。でも、誰もが微妙そうな表情を浮かべていたところを見ると、次も来てくれるとは思いにくかった。


「そろそろ閉めるぞ」

「あ、はい」


 時計は二十二時を示していて、もうとっくにお店の中にお客さんはいなかった。机の上も綺麗だし、掃除でもしてしまおうか。そう思い箒を取ってきている間に、神代さんはお店の外の営業中の札を準備中に替えた。


「お疲れさまでした」

「嫌味か」

「い、いえ。そういうわけじゃないんですけど」


 店内に戻ってきた神代さんにそう言うと、眉間にしわを寄せた。慌てて否定する私を一瞥すると、神代さんはカウンターの中へと戻っていく。


「まあいい。飯にするか。何食いたい?」

「え、リクエストしてもいいんですか?」

「メニューにあるものだったらな」


 神代さんの言葉に、私はメニューを手に取りじっと見つめた。何がいいかな。お腹はばっちりすいていて今なら何でも美味しく食べられる自信はあるけれど。


 ほっこり煮込まれた鶏手羽も美味しそうだし、お出汁の効いた揚げ出し豆腐も食べてみたい。ああ、でもバイト終わりで少し疲れた今はガッツリご飯とおかずをかき込みたい。と、なるとここはお醤油と味醂の利いた――。


「豚ロースの生姜焼きがいいです」

「生姜焼き? んなのでいいのか?」

「はい。今のお腹の気分的には生姜焼きです! それに、前に自分で作ったとき、固いし辛いし、焦げて食べられたもんじゃなかったんですよね」

「あー、そりゃあ、お前――。まあ、言うよりやる方が早いか。こっち来い」


 カウンターの中で手招きする神代さんの元へと恐る恐る近づく。そこには冷蔵庫から取り出した豚肉や玉ねぎ、それから醤油に味醂といった調味料が用意されていた。


「見てろ」


 神代さんは丁寧に玉ねぎの皮を剥いて半分に切ると、手慣れた様子で薄切りにしていく。八割ほど切り終わったかというあたりで、フライパンに火をつけた。


「普通はサラダ油でするんだが、お前の実家はどうだった?」

「うちはごま油でした。その方が風味がいいからっておばあちゃんが」

「そうか」


 私の言葉に頷くと、熱されたフライパンにごま油を入れた。カウンターの中にごま油特有の香ばしいいい匂いが漂ってきて、空腹を刺激する。ううう、早く食べたい。


「それから肉を入れる」


 トレイに入れられた豚ロースに塩こしょうを振ると、白い粉を振りかける。これは……。


「片栗粉ですか?」

「そう。こうすることで肉がコーティングされて旨味が逃げにくくなる」

「へー!」


 感心する私をよそに、神代さんはフライパンにお肉を入れた。


「え、お肉って漬けないんですか?」

「その反応、もしかして漬けて焦がしたのか?」

「そうです。だって、ネットで見たレシピにはそう書いてたから」

「まあ味はその方が染み込むが、直接かけるのでもたいして変わらん」


 そんなものなのか。レシピに書いてあるからその通りにしなきゃいけないのだとずっと思っていた。


 そういえば、おばあちゃんはどうやって作っていたんだろう。こんなことならもっとちゃんと見ておくんだったなぁ。


「じゃあ、それが焼けたらひっくり返しといて。俺はこっちでタレを作るのとキャベツを切るから」

「はーい」


 フライパンに入れられたお肉はいい匂いを立てて焼けていく。ある程度焼けたところでひっくり返すと、それに気付いた神代さんが先ほどの玉ねぎを入れた。


「これも一緒に炒めといて」

「了解ですっ」


 決して手際がいいとは言えないけれど、こぼさないようになんとか玉ねぎを炒めていく。しんなりとしてきたタイミングでタレを入れようとした神代さんは、何かを思いついたようにそれをスプーンに少しすくうと私に差し出した。


「ん」

「え?」

「味見してみて」

「あ、はい」


 と、いっても今の私は右手に菜箸、左手にはフライパンを持っている。少し考えて、とりあえず菜箸を置こうとした。けれど。


「アホか。炒めてないと焦げるだろ」

「だ、だって。じゃあ、どうやって味見したらいいんですか」

「ほら」


 そう言いながら神代さんはスプーンを私の顔の前に持ってくる。これは、もしかしなくても、まさか……。


「さっさと口を開けろ」

「え、えええっ⁉」


 何で! どうして! スプーンで「はい、あーん」ってどこのバカップルですか! そんなことできるわけない! できるわけ、ないんだけど……。

 チラリと神代さんの表情を盗み見るけれど、焦っているのはどうやら私だけのようで、なんなら何をグズグズしてるんだとでも言わんばかりに眉間にしわを寄せている。。


「何グズグズしてるんだ」

「ほら、やっぱり言った!」

「何を言ってんだ? いいから早く口を開けろ」

「うう……」


 この人に何を言っても無駄な気がする。

 仕方なく、私は小さく口を開けた。せめてもの抵抗で、ぎゅっと目を閉じながら。


 そんな私の口にスプーンの冷たい感触と――それから、味醂が効き過ぎて甘ったるいタレの味が広がった。その瞬間、それまで感じていた羞恥心とか乙女心が吹っ飛んだ。


「あっま!」

「は?」

「なんですか、これ! めちゃくちゃ甘いじゃないですか! 醤油! それから生姜はどこにいっちゃったんですか!」

「そんなに甘いか?」

「甘いですよ! どういう割合で入れたらこんなことになるんですか。とりあえずもう大さじ1醤油を足してください。あと生姜ももう一かけ」

「わかった」


 しんなりとしていた玉ねぎがだんだんくったりとしてくる。慌てて火を弱めて全体を混ぜる。そういうしている間にタレの改良が終わったらしい神代さんがもう一度スプーンを差し出した。


 今度はためらうことなくそれを口に含む。


 うん、さっきより味がはっきりして絶対この方がいい。少し濃いめだけど、絡めることを考えるとこれぐらいじゃないと。


「バッチリです」

「それじゃあ入れるぞ」


 ジュッという音を立てて、フライパンの中にタレが注ぎ込まれると、あたりにお醤油のいい匂いが立ちこめた。その匂いに負けて私のお腹からは空腹の限界を訴える音が聞こえた。


 私からフライパンを受け取ると、タレが十分に絡まったお肉と玉ねぎを、神代さんが千切りにしてくれたキャベツがたっぷりと載ったお皿へと盛り付けた。そこにホカホカご飯と温めたお味噌汁、それにきんぴらゴボウを並べると、私たちはカウンター席へと並んで座った。


「いただきます」

「どうぞ」


 まずは豚肉を一口。口に入れると、柔らかくてでもちゃんとタレが絡んでいて美味しい。きっとさっきの片栗粉だ。あれのおかげでタレを入れてからさっと絡めるだけでもしっかりと味がついてるんだと思う。じゃないと、タレが絡みきるまで炒めてたらお肉が固くなっちゃうはずだから。


「どうだ?」

「美味しいです! 私が作ったのとは全然違う」


 その言葉に、神代さんは小さく微笑むと、私と同じように豚肉を口に入れた。


「ああ、確かに美味いな。俺が作ったとは思えないぐらいだ」

「そんなことないですよ。正真正銘、神代さんが作ったものです」

「いや。俺一人じゃこの味は出せなかった。お前が味見をしてくれたおかげだ」

「そ、そんなことないですよ」


 そんなふうにストレートに言われると、どうしていいかわからなくなってしまう。私はごまかすように、今度はきんぴらゴボウに手をつけた。


「あ、これ美味しい」

「本当か?」

「はい、このきんぴらゴボウ美味しいです。お砂糖はもうちょっと控えめでもいいかなと思いますけど、お醤油の加減がバッチリです!」

「そうか! 昨日、お前に言われた『気持ち醤油多め』という言葉を信じて作ったんだ」

「私の言葉を、信じて?」


 出会ったばかりの、それもこんな小娘の言うことを信じて……。


 その事実に、私の心臓がどくんと鳴り響くのを感じる。いやいやいや。神代さんとは出会ったばかりだし、そう簡単にときめいたりしないんだから。


 ……でも。こうやって私の言ったことを信じてもらえるのは、やっぱり嬉しい。それに、口は悪いけれどこうやって私のことを雇ってご飯まで食べさせてくれるし、いい人なのかもしれない。


 隣に座る神代さんは、自分でもきんぴらゴボウを食べて、満足そうに頷いている。そして――隣で私が見つめていることに気付くと、怪訝そうに眉をひそめた。


「なんだ? じっと見つめて気持ち悪い」

「なっ、気持ち悪いって酷い!」

「だが、砂糖か。次に作るときはそれも意識して作るわ。お前がいると、作りたい味に作ることができそうで嬉しいよ」


 ……前言撤回。あれだ、この人はただの料理馬鹿なだけだ。それも味覚音痴の。私の舌を利用したいだけなんだ。


「そうですか」

「何を怒ってるんだ?」

「怒ってません」


 ふんっと鼻を鳴らして、私は豚肉を口に詰め込んだ。少し冷め始めた生姜焼きは、冷めてもやっぱり美味しかった。

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