第6話

 翌日、いつもは遅刻ギリギリまで寝ているのになぜかすっきりと目が覚め、軽やかな足取りで学校に行き、五時間目の授業を終えマンションへと帰ってきた私は、そこに見覚えのあるシルエットを見つけた。


「え?」

「よう」

「神代さん?」


 マンションの、というか囲炉裏の前にはなぜか、相変わらず着物姿の神代さんが立っていた。今日は薄いグレーの着物で、昨日の濃紺の着物もいいけれどこっちの方が私は好きだなぁ。って、そうじゃなくって!


 こんなところで立っていると言うことは、誰かを待っているのだろうか。まさか昨日のことについて文句を言うために? いやいやいや、そんなわけないよね。うん。


 とはいえ、無視するのも変だと思い、ぺこりとお辞儀をして慌てて通り過ぎようとすると――。


「待てよ」


 その声に、反射的に頭を下げた。


「あああっ、やっぱり怒ってるんですよね! 昨日は生意気言ってごめんなさ――」

「ありがとな」

「え?」


 神代さんの言葉の意味がわからず、間の抜けた声を出してしまう。そんな私に、神代さんはもう一度、同じ言葉を繰り返した。


「昨日はありがとう」

「どういう……?」

「お前が帰ったあと、試しにほうれん草の白和えに醤油を少し足してみたんだ。そんなわけないって思ってたんだが、ほんの少し醤油を足すだけで味が決まってな。お客さんも「今日の白和え、いい味だね」なんて言うんだもんな」

「そうだったんですね。よかったぁ」


 心底ホッとして、私は思わずその場に座り込んだ。味見に自信はあったし、そうすれば美味しくなると思っていた。でも、人によって好みがある。私が好きな味を神代さんが、そして囲炉裏のお客さんが好むとは限らなかった。でも、美味しかったとそう言ってくれたならよかった。


「おい、大丈夫か?」

「あ、はい。安心したら、つい」


 へへっと笑う私に、神代さんはため息をついた。


 それにしても、そんなことを言うためだけにわざわざ開店前のこの時間に私のことを待ってくれていたというのだろうか。


 そんな私の疑問が伝わったのか、神代さんは頭を掻きながら「あー」とか「うー」とか唸り始めた。いったいどうしたというのだろう?


「あのー?」


 立ち上がってスカートを直すと、私は首をかしげながら神代さんを見上げた。


「お前、さ」

「はい?」


 言いにくそうな、言いたくなさそうな声のトーン。本当にどうしてしまったのだろう。


「神代さん?」

「お前、名前はなんて言うんだ?」

「名前、ですか?」


 私の名前を聞くのにそんな眉間にしわを寄せて難しそうな顔を? 不思議に思いながらも、まあ確かに女子大生に名前を聞くのって大人の男の人にとったら勇気がいるのかもしれないなぁなんて思った。だってほら、最近なにかとセクハラとかパワハラとか言われるし。


 コホン、と咳払いを一つして、私はにっこりと笑った。営業スマイルというと聞こえは悪いけれど、大学入学当初少しでもいい印象を与えたくて何度も繰り返した自己紹介用のよそ行きスマイルだ。


岡部おかべ真緒まお、一八歳です。一駅向こうの府立大学一回生。好きなことは料理の味見、苦手なことは球技全般。よろしくお願いします」

「お、おお……。じゅうはっさい……そうか、大学一年ってそんな若いのか」

「おじさんみたいなことを言わないでくださいよ。ってか、私だけ自己紹介するんですか? 神代さんは教えてくれないんです?」

「……神代徹、二十八歳。と、いうかお前、名乗ってないのに俺の名前なんで知ってたんだ?」

「お店の中の食品衛生責任者っていうプレートに書いてました」


 神代さんは頭痛をこらえるように頭に手を当てると、チッと舌打ちをした。まるで苦虫をかみつぶしたようという表現がぴったりだ。


「大丈夫ですか?」

「ああ。いや、まあいい。それで、だ。岡部真緒、お前この店でバイトする気ないか?」

「バイト、ですか?」


 予想もしていなかった申し出に、私は神代さんの言葉を繰り返していた。


「そう、バイト。仕送りが少なくてバイトしないと金がないと言ってただろう」

「そ、それは言いましたけど……。実際問題このまま行くと今月も多分月末はまたうどん生活まっしぐらですよ」

「だが、うちでバイトすれば賄いが出る」

「賄い!」


 思わずパッと顔を上げた私の目の前で、神代さんは食いついたとばかりに悪い笑顔を浮かべていた。あ、これまずいやつじゃあ?


 そんな私の心配をよそに、神代さんは言葉を続けた。


「さらにバイト代が入れば生活費の足しにもなるだろ。ついでに、開店時間は十九時から二十二時だから、十八時半に入ってくれれば十分間に合う。これならお前の学校が終わってからでも余裕だろう」


 た、たしかに。それならネックになっていた時間の問題も解決できる。賄いが出るなら晩ご飯の心配はないし、バイト代で少しは普通の食事もできるかもしれない。でも、こんな私に都合のいい話があっていいのだろうか。


「ま、まさか」

「は?」

「その見返りにいかがわしいことをさせる気じゃあ……!」

「アホか。お前みたいなちんちくりんに手を出すほど困ってねえよ」

「でも、じゃあどうしてですか? どうして私みたいなのをバイトに?」

「それは、その」


 神代さんが頭を掻くと、着物の袖がふわりと揺れる。その仕草に思わず見とれてしまう。無骨そうに見えて、神代さんの動作は一つ一つがとても優雅だ。着物を着ているからそう見えるのか、それとも神代さんの纏うこの雰囲気がそう思わせるのか。


「また、」


 ぼーっとそんなことを考えていた私の思考を遮るように神代さんが声を出して、私は慌てて意識をそちらに向けた。


「またそこで倒れられて、商売の邪魔されても困るからな」

「も、もうそんなことはしないですよ!」

「どうだか」


 鼻で笑う神代さんに私は何も言えなくなる。だって、実際そこで倒れて迷惑をかけたのは事実だし。


「…………」

「あー、まあ、理由はそれだけじゃねえんだけどな」

「え?」


 一瞬、私から目をそらしたあと、神代さんは真面目な表情をこちらに向けた。その顔は夕日に照らされてとても綺麗で、私は目が離せなくなる。けれど神代さんはそんな私の態度には気付くことなく、言葉を続けた。


「お前に、俺の作った料理を食べてアドバイスをしてほしいんだ」

「アドバイス?」

「そうだ」


 思わず聞き返した私に向けられた神代さんの視線は真剣だった。こんなふうに見つめられたことなんて今まで一度もなくて、どうしていいかわからなくなる。


「どういうことですか?」

「悔しいが俺が作る料理の味付けが悪いのは確かなようだ。だからお前が……」

「ま、待ってください! アドバイスなんてそんなたいそれたことできませんよ! 私はただの女子大生ですし、そんな私が何を言えるって言うんですか」

「アドバイスっていうと大げさか。岡部真緒、お前に俺の料理の味見をしてほしい」

「味見?」

「そうだ。少し薄い、とかもう少し醤油が多い方がいいとか、そういうことを俺に言ってほしいんだ」

「どうして、私に……」


 そんなの、私じゃなくたって。ううん、私以外に適任な人はきっとたくさんいるはず。なのに、どうして?


「お前に言われて味付けをした白和えが、じいさんの味とよく似てたんだ」

「おじいちゃんの、ですか」

「ああ。もちろん全く同じなわけはない。だが、食べた人の胸の奥があたたかくなるようなそんな味がした。あの味を俺はお客さんに出したい。だから、お前がいいんだ」

「っ……」


 そんなふうに言われたら、断れないじゃない。私だって、作れるものならおばあちゃんの味を作りたい。あの味にもう一度出会いたい。その思いは痛いほどよくわかるから。


「駄目か?」

「駄目、じゃないです」

「そうか!」


 神代さんの表情がパッと明るくなるのがわかった。その笑顔に、心臓が高鳴るのを感じて私は慌てて視線をそらした。ま、まあ、バイトは元々するつもりだったし? ここなら通勤時間徒歩一分で楽だし、時間的にも大学が終わってからで間に合うし? べ、別に和服のイケメンにお願いされたから引き受けるわけじゃあ、ない、よ。ないんだから!


「岡部真緒?」

「な、なんでもないです!」


 自分自身に言い訳するように、必死に理由を並べていた私を神代さんが怪訝そうな表情で見つめていることに気付いて、慌てて取り繕うように笑顔を浮かべた。神代さんは相変わらず眉間にしわを寄せていたけれど、ヘラヘラと笑うことしか出来なかった。


「まあ、いいか。で、いつからは入れる?」

「いつからでも!」

「じゃあ、明日から頼む」

「わっかりました!」

「それじゃあ、明日からよろしく頼む。服装は清潔感のある格好ならなんでもいいから。前掛けはこちらで用意しておく」


 引き受けたものの内心、着物を着て来い、と言われたらどうしようかと思っていたからその言葉に少しホッとした。


「遅れないようにな」

「はーい」

「んじゃ、店開けるからとっとと帰れ」

「酷い!」

「ん? 文句があるなら今日から働くか? さすがに無理かと思って明日からにしたが、俺は別にいいぞ」

「し、失礼します!」


 神代さんの言葉に慌てて引き戸を開けるとお店を飛び出して階段をのぼる私の後ろから「慌てて転ぶなよ」なんて言うが聞こえた。私はその横暴な声に「はーい!」とやけくそ気味に返事をしながら、でも新しいことが始まるドキドキに胸を弾ませながら、一つ飛ばしで階段を駆け上がった。

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