第5話

 お醤油色に染められたカレイと鮮やかな緑のネギは見ているだけで美味しそうで、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。隣に置かれた豚汁もほんのりとごま油の匂いがしてこれまた食欲をそそる。それからなんと言ってもご飯の艶やかさ。私が炊いた、どこかべっちょりとしたそれと同じ食べ物だなんて思えないぐらい一粒一粒が立っている。いったいどうやって炊いたらこんな美味しそうに炊けるんだろう。


「いただきます」

「どうぞ」


 お箸を手に取り、そっとカレイに入れる。ふっくらと煮付けられたカレイを一口口に入れると――優しい味がした。優しいといえば聞こえがいいけれど、これは……。


「…………」


 いやいやいや。そんなことはない。うん、ちょっと私の口が悪かったんだ。ここは気を取り直してお水を一口。


 口の中をリセットしてから、今度はほうれん草の白和えにお箸をつけた。おばあちゃんもよく作ってくれたなぁ。お豆腐とすりつぶしたものとほうれん草がちょうど和えられているところをお箸で一口。あっ、これお味噌が隠し味に入ってるんだ。ほんのり甘くて美味しい。……美味しいんだけれど、これも、なんていうか、うん。


 そういえば、この間食べさせてもらったときもどこか味が雑な気がしたんだけれど、あのときはお腹がすきすぎていてそれどころじゃなかった。でも、今日はそんな瀕死の状態じゃないわけで。だから余計に、味がダイレクトに伝わってくる。


「どうした? まずいのか?」

「そういう、わけじゃないんですけど」


 手を止めてしまった私に、神代さんはため息をついた。せっかく作ってくれたのに気を悪くさせてしまった。


「って、言っても私が作ったのよりはるかに美味しかったです! 美味し、かったんですけど……」


 欲を言えばもう一押し。と、いうかもうひと味、もっというならもうふた味ほどあってもいいかもしれない。


「いや、わかってるんだ」

「え?」

「……ここは俺のじいさんがやってた店でな。じいさんがいなくなって売りに出されそうになったここを俺が継いだんだが、やっぱり見よう見まねじゃ駄目だな」


 寂しそうに言う神代さんに胸が痛くなる。大好きなおじいちゃんのお店をきっとなんとか守りたいってそう思ったんだろう。わかる。私だっておばあちゃんが大事にしてたものが売られそうになったらなんとしても守りたいって思うから。

 それに、味は確かに少し物足りないところがあったけれど、とっても丁寧に作られているのが伝わってきた。神代さんがおじいちゃんを、それからこのお店を大事にしている証拠だ。


「おじいちゃんのこと大好きなんですね」

「まあな。じいさんの元で育ったから料理は嫌いじゃなかったし、こうやって作ることはできるんだが、味が駄目なんだろうな」

「そんなこと……」


 ないとは、言い切れない。そんな私に神代さんは自嘲気味に笑った。


「いいって。それは、俺が一番よくわかってる。最初こそ常連の人たちが来てくれてたが、今じゃあこのざまだ。たまに来る一見さんも二度と来ることはない。つまりもう一度食べたい味じゃあないってことだ」

「…………」

「このままじゃあ、すぐに閉めることになるかもしれないな」


 どうしてかわからないけれど、それだけはさせちゃいけないとそう思った。それはもしかしたら口ではそんなふうに言いながらも、神代さんの表情がまるで泣きそうな子供のように見えたからかもしれない。


 それに、私は見てしまった。私がお店に入ってきたときの、神代さんの嬉しそうな顔を。あれは、きっとお客さんが来てくれて嬉しかったからでしょう?


「って、なんでこんな話をお前にしてるんだろうな。それ最後まで食うか? 無理なら残せばいい。それでさっさと帰ってく――」

「お醤油」

「は?」

「カレイの煮付けもほうれん草の白和えもお醤油が足りないです」

「醤油?」


 神代さんが訝しげに言うけれど、気にするものか。だてにおばあちゃんのご飯の味見をずっとしてきたわけじゃない。そりゃあ料理はたしかに下手だけど、料理に何の調味料が足りないかはわかる。


「はい。特にカレイの煮付けは、お醤油が足りないばかりに、味が薄いというか全体的にボヤッとした仕上がりになってます」

「だが、あれ以上入れると真っ黒にならねえか?」

「なりません。なったとしても、見た目がよくて味が悪いのと味がよくて見た目が悪いの、どっちがいいと思うんですか」

「それはそうだが……」


 私の言葉に、神代さんは眉間にしわを寄せて黙り込んでしまう。だから私は話を続けた。


「それから白和えですけど、これ隠し味のお味噌がすごく美味しかったです」

「気付いたのか」

「はい。でも、お味噌の柔らかさで優しいだけの味になってると思います。ここにほんの少し、小さじ一ぐらいでいいのでお醤油を入れると絶対に美味しいです」

「絶対?」

「はい、絶対です!」


 言いきった私は――目の前の神代さんの真剣な顔を見て、サーッと血の気が引くのを感じた。こんな年上の、それもお店を継いだばかりとはいえ料理を作る人に何を偉そうなことを言ってるんだろう。


「す、すみません」

「ん?」

「やっぱり今の気にしないでください! ご、ごちそうさまでした」


 慌てて残りをかき込むようにして食べると、私は席を立った。そして代金をカウンターに置くと、逃げるようにして囲炉裏をあとにした。


 階段を駆け上がって、自分の部屋の鍵を開けると勢いよく中に入る。


 あの顔、絶対に怒ってたよね。そりゃそうだ、こんな子どもに生意気に料理について口出し、どころか上から目線でアドバイスされたんだもん。気分よくないよね。


「でも、絶対に美味しくなると思ったから」


 私が作った、何をどうやっても美味しくない失敗作とは違う、大切に作られた気持ちが込められた料理だと思ったから。


「はぁ。課題、しようかな」


 私は軽くシャワーを浴びると、机に向かった。いつもははかどらない課題も、なぜか今日はスイスイ進む。どうしてだろう。そんなことを考えながら、私はさっきまで食べていたお料理のことを思い出していた。


「ご飯は、美味しかったなぁ」


 どこか味の薄いおかずとは違って、ふっくらと炊き上げられたご飯は、あれだけでも食べられそうなぐらいに美味しかった。そうだ、あのカレイの煮付けにおばあちゃんのお醤油を少し足して、それでご飯を食べたらどんなに美味しいだろう。


「ごくり」


 口の中に生唾がたまる。お腹いっぱいになったはずなのに、今すぐ食べたくなってくる。これだから、食い意地が張ってるなんて言われてしまうんだろう。


 ……あ、そうか。


「うん、お腹いっぱいなんだ」


 そっと手を当てると、お腹の中がほんのりあたたかい。


 ここに引っ越してきてからなんとなく寂しくて物足りなかったけど、それが満たされたような、そんな気がする。きっと今日はぐっすりと眠れそうな、そんな予感がした。

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