5 キャラクター化を遡る

妖怪というキャラクター化、記号化が進んだのが江戸時代で、現代においてもその流れを汲んでいる……というのは、前段の最後よくわからなくなったやつを取りまとめた結論。

その実、虚構上のキャラクター、記号であるので現実的には空虚=対象aとしての要素を備えている、というのが補記。


前段を取りまとめたところで、前段の最後に幽霊は、そもそもかつて実体として存在した人間であったからこそ、江戸時代より前、奈良から続く御霊ごりょう信仰のように、怪異に対するキャラクター、記号の引き当てとして古くから使われてきたと言った。

言ったんですよ(読み飛ばしても仕方ないよネの顔)


逆に言えば、このキャラクター化、記号の引き当ては江戸前(時間的な意味)から行われていたということになる。

ただ、それがよりデフォルメやカリカチュアを含んで発達し、細分化してより秩序に傾けたのが江戸、というだけで。


というわけで、じゃあ江戸より前においてはどうだったのかを見てみよう。


まず、端的に言えば、種類が少ない。

特に狐や蛇を中心とした動物、天狗、鬼、あとは「ひかりもの」と総称される鬼火・狐火のたぐい

これプラス前述の幽霊のたぐい、という感じである。


中には犯人がわからないなんて怪異もザラなのでね。

『古事談』の源義家みなもとのよしいえの弓にビビって逃げた怪異とか。


さて、ではこれらの数少ない種類による初期のキャラクター化を考えてみる。


まず、狐や蛇を中心とした動物。

これは『日本霊異記』など古くから多く見られ、特にが中心である。

狐も蛇も飼わんし、そもそも如何に貴族でも、ひよどりみたいに品評会的バトル(ひよどり合わせ)みたいなのがない動物はそうそう飼う余裕のない時代である。

……ひよどりってもともとは貴族が飼うぐらい大人しかったのに、都市化に伴ってあんなぴーぎゃー鳴くようになったらしいですね(脱線)


さて、二項対立で見た時、というものはと対立する概念である。

つまるところ、内外異界理論でいけば我々的には、野生はである異界側である。山(外)と里(内)なら山側。

※内外異界理論(適当命名)は以下参照

空海の系譜「4 外の権威」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054894714390/episodes/16816452220477579278


逆を言えば、怪異という意味シニフィエを言語的営み=象徴界で扱うにあたって、そのに属する動物の中でもより代表的なものとして、拝借したのが狐や蛇というアイコンシニフィアンだったと考えられるのである。

これは時として鹿になったり猪になったりもしたけど、蛇と狐ほど強いのはなかなかいない。

……それだけ身近にいたんですかね、狐(卒論の諮問の時かなんかに「狐ってばちくそ警戒心強くてなかなか見れないはずなんだよね(要約)」と教授に言われた顔)

まあヒヨちゃんみたいに都市化のせいかもしらんけど……


お次は天狗。

天狗についても、単純に内外異界理論からすれば、単純に人に対して異界であるから、怪異を意味シニフィエとするために借用されたアイコンシニフィアンであると言える。

というか、ここで言う怪異の各種についてはそう言える。

問題となるのは各種における特殊性である。


じゃあ、天狗の特殊性は何か。

天狗という怪異は中世説話においては、特に僧にちょっかいをかける存在として描かれるパターンが実は多い(『今昔物語集』、『古今著聞集』)

小松和彦先生も「天狗のばかす相手の多くは、修行の未熟な僧たちであった」とし、『今昔物語集』の天狗の話の内、三話の被害者が比叡山の僧であるところに注目し、「比叡山の密教僧たちは、この世のなかの『異常』を『天狗』によって説明しようとしていたかに見える」、「天台の密教僧は『天狗』を想定することで『異常』の説明の独自性を主張し」て、「彼らは、天狗と戦い、これを退治することでその存在を主張し、かつ仏の教えを人びとの間に広めようとした」と述べている。

とはいえ、これ自体がだとしても、あくまで当初がだけで、天狗はそこから独り歩きして一種類の怪異(の原因に引き当てられ得る一般的な記号シニフィアン)として成立してしまった。

まあ、僧というものは知識層であったわけだし、天狗自体確かに仏教と縁が深い存在であるというのは、端々から見えるのだ。


例えば、一般的な天狗の出で立ち(衣装)は山伏、つまり修験者のものと考えられている。謡曲の『松山天狗』を題材にした『雨月物語』の「白峰」でも崇徳院の幽霊、柿色の衣で現れたってあったはずだし(柿色の衣は山伏の装束であると同時に、天狗のものともされる)

修験道自体は古神道・山岳信仰と仏教、特に密教をちゃんぽんにした結果みたいなもの(すごくざっくり)、なのだが、小松先生の説に従ってと対立させると、「」に対して、「」という構図が成り立つ。

仏教が神道と神仏習合で共存していた事を考えれば、完全に別物としてしまえば並行できるが、あえて自分のとこの流れも入ってるという認識があるところで不可分の対立にしてしまうというか……魔改造が改造と言われる所以ゆえんは正当な元があるからだよね、というか。


また、日本の仏教においては、六道輪廻ろくどうりんね(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つからなる道。生前の行いで次の道が決まる)の外側が想定されており、それが外道げどうだったり、天狗道てんぐどうと呼ばれたりする。

……動物についての説明と合わせるとわかりやすいのだが、仏教の六道輪廻ろくどうりんねをベースにすれば、動物は動物の「畜生道」という一つの正当な世界観の内にあるものなので、とも言える。

では、外は、となると、六道輪廻ろくどうりんねから外れたもの、であって、天狗道てんぐどうと言う通り、のである。

でまあ、そこに「知識層が語った」という付加価値があれば、人口に膾炙かいしゃするも至極当然……故に古くから怪異の記号シニフィアンに足るとされたと考えられる。


そして、鬼。

まあ、一口に鬼と言ったところで広い。

馬場あき子先生はこの鬼を以下の五つに分類している。


①日本最古の鬼像とされるカミと同義のオニ

 (折口信夫が提唱した系統)

②山人系・修験道系の鬼

 (役行者えんのぎょうじゃの前鬼・後鬼や山姥)

③仏教系の鬼

 (邪鬼・夜叉・地獄卒など)

④鬼と呼ばれるようになったならず者・盗賊達

 (鈴鹿の鬼、酒呑童子等)

⑤復讐を遂げるために鬼と化した者

 (『鉄輪かなわ』の女など)


②については天狗も分類される、とのことなので、里=人間に対する山=異界に属する、と考えていいだろう。

天狗は先述の通り単純にそう考えるにはちょっとルートが違うし、役行者えんのぎょうじゃの前鬼・後鬼に至ってはむしろ天狗の源泉にいそうなもんだけど、人であるか・ないかの二択の前ではさほど意味がない。

⑤と④も方向性としては幽霊の扱いと同じ。一から考えるのでなく、既存の存在を怪異のアイコンシニフィアンに流用するやつ。

①の鬼というのは、既存の現象をすでに怪異の記号とした成れの果てなので、もしかすると一番江戸期と近いのかもしれない。


とーはーいーえ、鬼はこの①〜⑤が全部ごった煮ハッチポッチであるし、「鬼」という言葉が表す範囲についても考える必要がある。

まず①に言うように、鬼は神と同義でもある。どちらかというと、「内外で見た時の外」であって、善悪のベクトルとかそういう話は別に置いとく。

また鬼≒神であると同時に、鬼≒神≒物である。この物は「もの」の「もの」と同じで、「物部もののべ」の「もの」も多分同じ。

実際、山内昶先生いわく、古く「鬼」と書いて、それぞれ「オニ」、「カミ」、「モノ」と読む例が存在しているというし……聖徳太子の母親とされる穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこが死後に鬼前かんさき太后って言われてるのも鬼をカミと読む例の一つになるかな。


とはいえ、語句の方向性としては、鬼は神より、物の怪に対しての方がより近い。『今昔物語集』の板の鬼とか『古今著聞集』の宴の松原の鬼はどっちもワンキル稼いでるようなタイプだし。あと狐がく話もだいたいまず「いた」ってとこから始まる。


というか、現在から見る各語のニュアンス的には図式化するとこんな感じか?


善・上――――中立―――悪・下

カミ―――――モノ―――オニ


中立と言いつつ真ん中でない感じなのは日本における神の範囲の広さも感じる(個人の感覚的な話)

ただまあ、そもそもとして、この物の怪のモノについて山内昶先生は以下のように語っている。


「いまだかつて見たこともない得体の知れない未知の事象に遭遇すると、人々はびっくりし、恐怖に襲われ、破られた既知のヴェールを急いでとり繕ろおうとして慌てて言葉の貯蔵庫を探すが、対応するものは何もない。そこで止むなくありあわせの漠然とした音素を使って命名することで、秩序の埒外のカオスを知の体系にひきこんで統御し、支配し、未知の不安を既知の安心におきかえようとする」(『ものと人間の文化史 もののけⅠ』)


そのための「どんな意味でもひきうけることのできる万能の記号」というのが「モノ」である、とも。

……まさしくラカンさんにおける、意味シニフィエ記号シニフィアンによる象徴界=言語的営みによる支配じゃなくて?

まあ人なら者でそれ以外なら物って感じの使い分けはあっても読みは「もの」なので、「万能の音」なのかもしれないけど。


とまれ、鬼はその字に付随する、オニとカミの両極端とその中立に位置するモノという複数の語、すべてにおいて、本質として既存の言語体系内に存在していない、あるいは表現しきれない何かを指す語であったと考えられる。


また、オニの一般的な語源は「ぬ」、隠の字が当てられる通り、「見えないもの」を意味するところから来ているとされる。節分の起源とされる追儺式ついなしきの鬼も本来見えないものを追いやる儀式だしね。

見えない=我々は認識し得ない=想像界にない。のに、そこにあるとされるから言葉=象徴界のものとしてある。

事象自体は認識できてもその原因は象徴界にしかない、というのはすねこすりの例と同じで、オニの語源からするとそれが見えないものであることも含んだ語ということになる。そりゃ使用頻度も高くなろうて。


さて、最後にすでに忘れられてそうな「ひかりもの」。

これは鬼のところのモノの話も受ければ、非常にわかりやすくて、鬼火も人魂もひかりものも「見た目+その原因」という構成の語であって、ここにおいてはもしかすると意味シニフィエシニフィアンが一番ストレートな関係かもしれない。


というわけで、江戸より前においては数が少ないからこそ、それぞれが絶妙に異なったニュアンスと様々なベクトルを内包していた一方、結局は怪異という事象の意味シニフィエシニフィアンとして言語的営み=象徴界に組み込むために、怪異の源とされるキャラクターは存在したのである。

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