4 江戸期の怪異とキャラクター化

さて、「妖怪」が使われ出したのは江戸期、と「怪談」の歴史にて書いたが、まあ柳田國男先生前後で「妖怪」という言葉のニュアンスが変わるんだから、江戸期の「妖怪」は今の「妖怪」とはちょっと異なるのである。


まあ、もっとラカン的に言うと、文字シニフィアンは同じでも読みシニフィエが違うのだ。

現代の「妖怪」は「妖怪ようかい」である一方、江戸の「妖怪」は「妖怪ばけもの」なのである。


草双子くさぞうし(黄表紙とか赤本とか庶民向け絵入り娯楽本の総称)専門のアダム・カバット先生いわく、言葉での使用としては、そもそも「化物>妖怪」が圧倒的に多いとか(そして読みはどっちも「ばけもの」)

確かに恋川春町のあれも『大江山』なんだよな……

※『化物大江山』

 江戸におけるそばとうどんの人気争いを酒呑童子退治の話をベースにしゃれのめして書いたもの。酒呑童子がうどん側(饂飩童子)、源頼光がそば側(源のそばこ)。でも茨木童子はそばがき童子……なお四天王は薬味だし、力を貸してくれるのは八文菩薩である。二八そば。


はい、脱輪を戻して。

また、同氏いわく、「柳田國男の唱える民俗学的定義に沿う妖怪に江戸時代における妖怪は入らず、その理由として江戸時代の妖怪は創作の化け物である」、「江戸時代においては古い民間伝承を土台とした上で化け物を創作している」としている。

ここに異論はない。

石燕の作品も見立てと言葉遊びの系譜な所はあるもんね。初期俳諧からの茶番劇、落語の変遷とか、江戸時代は見立て大好きだもんね。

そして、そうした江戸における「妖怪の創作」をして、「妖怪のキャラクター化」である、とカバット氏はしている。

これも確かにそう。黄表紙で出てくる妖怪は戯画とかカリカチュアとかの滑稽こっけいの傾向が強く、見目と特徴ばかりが妖怪であって、その生活様式やら感情の起伏はその特徴に触れない限り、

ここにあるのは「人と乖離かいりがあるはずの妖怪が人のように振る舞うことへの落差」による笑いの誘発という意図である。

よって、当然の如く、そうした妖怪ばけもの達が「怪談」として描かれることは、少なくともこの草双子くさぞうしという江戸期の娯楽においてはない。

江戸の妖怪ばけものはギャグのためのキャラクターであった、とも言える。


一方、草双子くさぞうしという媒体である以上、そこに登場する妖怪ばけものには名前が必要であった。だってつまるところ小説だから、登場人物指す言葉がないのツライじゃんね。

そうなると、キャラクター化が起こったと同時に、名付けによる記号化もということになるのである。

……そう、「古い民間伝承を土台とした上で化け物を創作」しているのだから、元ネタは元ネタですでに名前を持ってたりもしたのである。


そもそもとして、妖怪の「名前」というのは意味持つ象徴シニフィアンである。


例えば、「すねこすり」という妖怪がいる。

この「すねこすり」という意味持つ象徴シニフィアンは人には見えないものの、その習性として、人のすねをこするのが好きな獣という象徴に付随する意味シニフィエがある。

そして、ここで「すねこすり」という意味持つ象徴シニフィアンを己の体系に持つ人が、「何もないのにすねの辺りに何らかの感触があると感じる不可思議な現象」と行き当たると、「すねこすり」の象徴に付随する意味シニフィエによって、これを象徴界=言語的営みによって因果関係を成立させることができる。

つまり、本来言語化しえない「何もないのにすねの辺りになんかいる」を、「すねこすり」という一つの意味持つ象徴シニフィアンによって、言語的にことができる。

「見えないけどなんかいる!」なら「見えない何かがいるんだろう」にしてしまえ、その何かは「すねこすり」である、という風に。


実のところ、「すねこすり」が何故すねをこするのが好きかという点は説明されていないが、「すねこすり」という意味持つ象徴シニフィアンは「そういうものだから」という、ただそれだけで象徴界での因果関係を成立させられる強制力が既に名前からしてある。

その一方でキャラクター化、記号化に乗せ切れない秩序外の存在としての部分――この例でいうならば、何故「すねこすり」が「そういうものなのか」という説明しきれない部分が、追い求められる対象aの剰余快楽としての役割を担っている、と考えられる。剰余言うぐらいなんで、人を魅了するんですよ、はい。


このキャラクター化、記号化は伝承から江戸期の妖怪ばけもののキャラクター化、記号化をた上で、今の妖怪ようかいにも受け継がれている。

『ゲゲゲの鬼太郎』などを始めとしたマンガや『しゃばけ』などの小説に登場する妖怪達は特にこのキャラクター化された妖怪、怪異の延長上の存在であるといえる。

だから、どれだけ恐ろしく書/描こうと、「怪談」のそれらほど


一方、現代において、キャラクター化よりも記号化として特化したものでは、京極夏彦氏の書く小説が挙げられるだろう。

彼の小説の中では、現実での事象は言葉で容易に説明がつくものであり、ある状況下におけるある事象とその中での関係者の心理的動きや、結果や一連の流れ全てのものをシニフィエとして持つ意味持つ象徴シニフィアンとして妖怪の名前が扱われている。

同時に、現実での事象は限りなく象徴界=言語的営みとして全て説明がつくのだから、そこで使われる妖怪の名前は作品内では物理的には限りなく空虚な意味持つ象徴シニフィアン、あくまで記号としてしか機能していないと言えるのだ。

……いや、どうすればこんなことできるんだろう? わかんないな……


さて、ここまでは妖怪に焦点を絞ってきたが、これを少し緩めてみる。

その上で、怪談の恐怖の源泉の一端でありながら妖怪ではないもの、というと幽霊がある。

とはいえ、幽霊の場合、秩序立たない存在に、、といえる。

だって、幽霊=死んだ人の霊魂であって、元は生きた個人だからね。

元が生きた個人であるということは、基本的に名前=意味持つ象徴シニフィアンを持つ存在であり、死んだとしても他者の言語的営み=象徴界の一角を占める。

ところがどっこい、死んでいるので、その人の名前が指すそのものシニフィエを他者は既に認識し得ない=想像界にあり得ない。

そうなると、空の意味持つ象徴シニフィアンが発生するため、怪異が起きた時期と同時期に人が死んでいると、怪異という意味をシニフィエとして、故人の名前という空の意味持つ象徴シニフィアンに詰めてしまう。

つまり死んだ人間の仕業しわざにしてしまう、と考えられる。


この故人への紐付けは古く、例えば早良親王と疫病、菅原道真と内裏への落雷など、御霊信仰の時点から、怪異と思われたものを故人というキャラクターに絡めるケースは存在している。


その理由として、「すねこすり」のような、空虚なシニフィアンを一から作り上げるより、かつての意味が空虚となったシニフィアンを再利用した方がシステムへの組み込みが容易だったということが挙げられるだろう。


あかん、書いてる側も頭ぐるぐるしてきた……大丈夫まだ鼻血は出ない。

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