3 怪談の花が江戸時代で咲いたわけ
さて、じゃあ、何故、江戸時代?というところ。
ここからが前提の大盤振る舞いである。
江戸時代とそれ以前の時代とで何が違うかというと、法や制度が多少の違いはあれど、均一化が進んだということだろう。まあ、身分制度は言うほどがっちがちでもなかったとは言うが、室町末期〜安土桃山みたいな下剋上祭りはなくなって、治安の安定化も進んだわけだし。
さらに、キリシタン対策の寺請制度によって、ほぼ強制でどこかしらの寺の檀家になった結果、庶民仏教の拡散・定着期と呼ばれるように、宗派自体はあれど、宗教的にも全国的に平均化され、寺子屋の存在によって読み書きそろばんは多くの者ができるようになった。つまり知識の水準が一定レベルまでは保証されるようになった。
まあ、いろいろがあったとしても、大多数の知識の基準の最低ラインが一定になったというのがポイントだと思われる。
ラカンの精神分析学的には、知というものは、ある人があるものを象徴界で体系づける際に使うものである(cf.主人の言説、大学の言説)
そんなものの水準が定まるということは、何をどう体系づけるかが集団の中で平均化されたし、議論できるようになったと言える。
もっと簡単に言えば、コンテクスト(文脈、暗黙の了解)の共有範囲が広がった、になるのかな。
そうした知識水準の向上と平均化が行われた結果、その範囲から外れたものが目立つようになったと考えられる。
つまり、一定範囲内において、象徴界で体系づけのできるレベルの最低ラインがある程度定まり、象徴界での体系づけに関して議論できるようになったため、逆に体系づけできないものが目立つようになったのである。きっちり線を引けば、はみ出してる奴がわかりやすい、ということ。
その結果として、言語的営みの外側の存在はより多くの者から外側の存在として認識され得るようになる。
恐怖への共感、恐怖の共有とも言えるかもしれない。
それが何か、自分にもわからなければ、あなたにもわからないし、彼にも、彼女にもわからない。
……谷山浩子さんの歌にありそうな感じになったな。いや、谷山さんの歌それ自体が「対象a」と言われたらそれはそれで私は納得してしまうな……これは冷凍庫の奥底行き。
とりあえず、比較的大きい範囲で「怖さ」の共有、つまり、わからないものをわからないものそのままとして共有できるようになったことが大きいのである。
そして「怖さ」は共有すると、相手の反応を引き出すことができるものでもある。さらには共有する側は結末を知っているので、共有する相手のうろたえに反して自分は落ち着いたままでいることができる……つまりは場の支配権という優越感を得ることができるわけだ。
……実のところ、「怖さ」を共有するというのは、「面白さ」を共有するのとも似たところがあって、「ギャグの解説は寒い」というのであれば、ギャグを披露する側は、見ている側がひと目でわかるギャグを作る必要があるのである。
そして、披露する側と見ている側の知識やコンテクストの一致度が高ければ高いほど、それは容易に行うことができる。逆にコンテクストの一致を諦めつつも共有を諦めなかったのが、テレビ(特にアメリカのドラマ)である唐突な外野の笑い声。
この話のギャグを怪談に、面白さを恐さに差し替えれば、そういうことなのである。
……どちらも本質的にはたぶん対象aを追いかける時に発生する剰余快楽じゃないかな?
さて、ギャグを例にしたので、ギャグ方向も発展したのかという話になるわけですが、発展してますね。
主に茶番劇とか落語辺りの発生経路がそうだし、狂歌・川柳も大人気。
もっとクリティカルで普遍的な観点はあとで見るので、とりあえず江戸時代に流行ったのは、そういう「共通の恐怖を受け入れるに足る下地としての知識の一定レベルまでの保証」が広範囲に渡っていたのが理由の一つと考えられる。
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