6 「怪談」化についての仮説
とりあえず、前段二つを受けて明確に言えるのは、怪異という認識し得ない原因によって発生し得る事象を言語的営み=象徴界に組み込む反則的手法として、古くから妖怪や幽霊は怪異の犯人とされてきた、ということ。
ちなみに、この手法自体はもう一つあって、それは最初の方で触れた「魔術やおまじないという独自システム化=秩序化」である。
とはいえ、どっちにしろ、「何に対して何を目的としているか」は明確であって、「怪異・不思議な事象=言語外の事象=対象a」を「言語的営み=象徴界にぶちこむ」ことを目的としている。
では、いよいよ本大見出しの本題。
広義の怪談と現在一般に言う狭義のホラーとしての「怪談」の違いは何か。
……うん、前置き長すぎて、忘れてんじゃねーかなとか思われてそうだなとは思ってる。
広義の怪談=辞書的定義の怪談は「不思議な話。特に神や変化などの関わる話」とされるが、ここで定義した「怪談」は「現代一般でその語によって示され得る広義の怪談の中でも、ホラーに特化したもの」である。
その境界線を探るにあたって、このレポートを書いた当時の私は重要な本に辿り着いた。えらい。
『子供に語ってみたい日本の古典怪談』(著:野火迅)である。
さて、この中で著者の野火氏は古典怪談を以下のように四つに分類している。
①江戸時代までの作家が、創作したもの
例)上田秋成が著した『雨月物語』など
②江戸時代の作家、落語家が、日本や中国の伝奇小説を翻案したもの
例)『伽婢子』、『因果物語』など。また、落語の『怪談牡丹燈籠』や小泉八雲の『怪談』もこの部類に入る。
③江戸時代の随筆家が諸国の奇談・怪談を集めた見聞録
例)『
④古代から平安時代までの説話文学(諸国の伝説をもとにした怪談)
例)『日本霊異記』、『今昔物語集』など
同書はその上で、これらの分類に則した話を、満遍なく収録している。
この分類において、一番「広義の怪談に近くて、狭義の『怪談』から遠い」はずなのは④の区分である。
これは、あれ、最初の方で言った通り、「三枚のお札」とか、「こぶとりじいさん」とかは狭義の「怪談」というと違和感あるよね、という話からしてである。
結果から言うと、この本に収録されてる④に該当する『今昔物語集』巻第二十四「
さて、とりあえずはまず仮説立てしますか。
というわけで、『牡丹灯籠』、『耳なし芳一』、それに都市伝説とか洒落怖とかも取り上げるかね。
『牡丹灯籠』はもともとは中国明の怪奇小説集『剪灯夜話』に収録されており、日本では浅井了意の『御伽婢子』に収録されたのが確か初出。
そこから幾度かの翻案物を経て後、明治の落語家三遊亭圓朝がその概念を下敷きに要素を盛って落語として翻案し、それが歌舞伎化にも繋がった。
……つまり、結構何をベースにするかでいろんな肉付けと派生があるのです。
でも、中核ははっきりしている。
ある晩、牡丹の灯籠を持って歩く幽霊の女、お露と出会って二人して恋に落ちるも、お露の正体を知らずに逢瀬を重ねる男、新三郎。
結果、取り憑かれて日に日にやつれる新三郎は、僧侶や修験者によってお露の正体を教えられ、彼女を退けるために家中の入口に札を貼り、期日の夜明けまで家に籠もるよう言い渡される。
期日まで毎晩、御札のせいで家に入れないお露は、家の周りをぐるぐると徘徊しながら嘆きと恨みを口にする。
最終日の晩、鶏の鳴く声を聞いて夜明けと判断した新三郎が外へ出ると、夜は明けておらず、お露に騙される形で新三郎はとり殺される(翻案によっては新三郎本人が命よりお露をとって自ら招き入れる)
騙されるパターンだと、新三郎の逢坂の関は堅固ではないらしい。また、招き入れるパターンなら、お露という本来存在し得ない存在=対象aを掴んで、欲望の連鎖を断ち切った男、というと一気になんかかっこよくなる感あるなあ、つまるところ死んでるんですけど。
ちなみに『雨月物語』の「吉備津の釜」もこのパターンと近似である。こっちは因果応報ではあるけど。
逆に、近似があるということは、関係性という
次に小泉八雲が『怪談』で翻案したことにより有名になった「耳なし芳一」(原典は江戸時代の一夕散人による読本『臥遊奇談』巻二「
これは『平家物語』の弾き語りを得意とする寺住まいの琵琶法師(※琵琶法師は基本盲目)の芳一のもとに、
連れて行かれた場所で芳一が『平家物語』を弾き語ると、大変に感激する様子で、七日七晩、誰にもこの事を言わずに毎夜の弾き語りを頼まれる。
しかし、連日盲目の芳一が夜中こっそり出かけるのを不審に思った寺の者が芳一を追いかけると、芳一は安徳帝を含む平家一門の墓の前で弾き語りをしながら、鬼火に囲まれていた。
翌日
果たしてその晩もやって来た亡者は芳一を探すが見つけられず、
そこで、亡者はお上の命令に背くよりはこれしか見つからなかったと言おうと、芳一の耳を引きちぎって持っていく。
それでも芳一は動かず、音も立てなかったため、翌朝、血まみれだが生きている状態で発見される。
後に、芳一の耳は腕のいい医者に治療され、亡者をも魅了した弾き語りは評判となる。
一言で表すなら、大体
さて、『牡丹灯籠』とは異なり、こちらの芳一は耳と引き換えに命は残った。
まあ『牡丹灯籠』の騙されるとこは本来、じゃあ誰が伝えたんだよってやつですからね(生き残りがいないと怪異は広まらないというやつ)
この二つの話の共通点としては、どちらも怪異が向こう側からやって来ている点がある。
新三郎はたまたま幽霊のお露と行き遭い、平家の亡者は芳一のもとを訪問した。
そこに生まれた恋愛感情や、もともとあった弾き語りの腕前というものもまた一因と言えなくはないが、その程度の感情や特徴など、大体誰しもが何かしら持ってるものであって特色と言えるほど独特な要素をなしてはいない。
だって、『耳なし芳一』なんて、つまるところ、平家の亡者に気に入られるような特技があれば、連れてかれるって事なので。
これは多くの都市伝説にも言える。
口裂け女も人面犬も、目の前に突然現れる=向こうからやってくるとされるものである。
メリーさんについては、一般的行為の一つである「人形を捨てること」が起因であるが、「どの人形を捨てても同じ事象が発生する」わけではなく、「人形を捨てること」をトリガーとして、人形自身によって=怪異本体によって怪異を起こす権限を
きさらぎ駅系もそう。
あれは「電車に乗ること」をトリガーとして、怪異側が怪異を起こす権限を手にしている。
電車に乗って毎回きさらぎ駅に行くなら、最早誰も電車なんて使えやしない。
洒落怖系も八尺様とかくねくねとか、有名どころは大体巻き込まれる=怪異側からやってくる。
対象となる人間も含め、制御の権限はこちらにはないのである。
つまり、これらの話の条件は、何かしらトリガーがあったとしても、万人に等しく一般化されており、怪異が怪異として現れるか否かは未だ底知れぬ混沌に
そうして混沌の内からこちらへと現出した怪異=対象aをどうにか秩序立てる=言語的営み(象徴界)に組み込むべく、我々はキャラクター化を行うと同時に、剰余快楽(今回の場合、恐怖)が発生すると考えられる。
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