待つ人
こたろうくん
待つ人
桜色掛かった蕾が立ち並んだ木々の枝になっていた。
まだほんのりと冷たい風の中、流れて踊ろうとする髪を片手で抑えつつそれを見上げ、着物の女は思い出す。
この桜並木の下、かつて共に並んで歩いた男のことを。
愚かな男、けれど他に居ない、彼女にとって唯一の男。
男は自らを生まれながらの愚か者と言って笑っていた。
闘うものの子として生まれ、闘うことだけを学び、そのために生きてきたと、彼は自らを愚かだという理由を語った。
――一年前。
男は女と件の桜並木の下を歩きながら言う。
「わしは親不孝な男です。親父が捨てろと言ったものを、どうしても捨てきれません。とんだ愚かもんです。でも、どうしたら捨てきれますか。わしは男として生まれました。女子として生まれでもすれば、あるいは諦めもついたかもしれません。けれども、男として生まれてしまいました。ともすれば、どうしても、どうしても親父の血が、一族の血がたぎってしかたがないんです」
立ち止まり、男は修練の繰り返しにより硬くなった皮膚に包まれた手に拳を握り締め、それを眼前まで持ち上げながら続けた。
女もまた立ち止まると、男を見上げる。何も言わず。
「親父を負かしたもんと、親父より強いもんと闘いたい。そして、それを越えたい。親父は復讐なんぞ望んでないと言いました。けれど、だったならわしにどうして闘いを教えるんです? なぜ己を負かしたもんの話をわしに聞かせたんです? 親父はきっとわしに復讐をさせたいんじゃない。選ばせたかったんです。己と、一族と同じく強くなるためだけの愚かな道を歩むか、闘いを捨てて強くなることを止めて、賢く時代に似合った正しい道を歩むかを」
女が見上げた男の顔は笑っていた。熱情を秘め、それを抑えきれぬと溢れ出す男の笑みはまるで鬼が浮かべる笑みのように獰猛で恐ろしい。
「だからわしは選びました。だからわしは親不孝で、とんでもない愚かもんです。だからハナさん、どうかこんなもんのこと忘れてください。今のわしは、もうあの男のことしか考えられません。あの男を負かして、越えることしか考えられません。こんなわしですから、誰かを幸せにしてやることなんかできません。わしはきっと、これからの時代にはついて行けない。だからハナさん、貴女はどうか相応しい人と一緒になってください。そして幸せになってください。これがわしの、血に生きる愚かもんとしてのわしのただ唯一の、正しいと思う選択で、願いです。どうか、どうか幸せになってください」
拳を解いて、手を降ろし、笑みを引っ込めた男が乞う。
この男は愚かである。彼の父親も彼をそう言って、女もそう思う。だからこそ惹かれたのであろうとも。
故に女は小さく笑い、一度己の足元を見下ろした後にその顔を上げて男の顔を見ると、彼のきょとんとした表情を見詰め言った。
たったの一言、出来ません――と。
――それから一年。
女は一人、同じ桜並木の下を歩いていた。ほんのりと桜色に染まった蕾とその向こうの空を見上げながら、立ち止まったそこはあの日と同じ場所。
愚かな男が去ってから、女は欠かさずこの場所に訪れては立ち止まった。
約束はしていない。女も、男も。
男はどんな思いで自らに幸せになれと願ったのかを女は知っていた。それでも、彼女は待った。
一年という短いようで長く、今にして思えばあっと言う間とも長かったとも思える時間をひたすらに待った。
そして今日は、一年前のあの日と同じ日、時間。
街並は多少変われども桜と桜はまだ、変わらない。
それは何故かを考えるときっと今日なのだろうと女は思った。
ふわりと風が吹く。先ほどより、ほんの少し暖かな風だった。
桜と空を見上げた顔を降ろし風の来た方を女は見て、微笑む。
どうしようもない人だと眉をひそめ、それでも微笑みながら現れた男を前にし女は――泣いた。
待つ人 こたろうくん @kotaro
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