終章

終章

さあ、これでうまくいけば、邪魔だった兄は、もうすぐ亡き者になる。と、麻衣は思った。きっと愚鈍な兄の事だから、簡単に引っかかってしまうだろう。そして兄が亡き者になれば、もうこの店は、あたしたちの物になるんだという事が決定するだろう。よし、それでいいんだ!あたしたちの店にするために、こういう事をしたって、もう仕方ないんだ!と、麻衣は、自身に言い聞かせていた。

きっと、兄がいなくなってくれれば、お父さんだって、あきらめてくれるはずだ。そうなればやっと、やっとだよ、うちの店が本当に私たちの物になるんだわ!

思い出せば、自分の半生は碌なことがなかった。もう父の前では、自分は付録的な存在に過ぎなかったし、兄が引きこもりがちになったって、私よりも、兄の方が、優先されていたような気がする。もちろん、長男だから、ある程度優遇されるという事は、ほかの家でも同様だと思うのだが、私の家は特別だ。こういう古いものを扱っている商売をしていると、より古い考えに固執してしまいたくなるのだろうか。日本では長男がある程度優先的に扱われるが、自分の家は、それがより強かった。例えば、麻衣が欲しいものがあったとする。それをねだったとしても、今お兄ちゃんの学校の事でお金がかかるのよとか言われて、何も手に入れることはできなかった。お父さんもお母さんも、あたしがいくらいい成績をとっても、お兄ちゃんにはたどり着けないとか、そういうことを言って、あたしの努力は、何もほめてもくれなかったじゃないの。確かにお兄ちゃんには吃音症という障害もあったにはあったけれど、それがあると、まるで身分が違うのかというくらい、お父さんやおかあさんの態度は違った。お兄ちゃんが、一生懸命学校で課せられたスピーチの練習をしたりしているのを、一生懸命励ましたくせに、あたしのときは出来て当たり前だと言って、何も見てはくれなかった。大人になった今でも、麻衣はそれをはっきり覚えている。お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんの事ばっかりで、あたしなんて、どうでもいいように扱っていた事。

お兄ちゃんが、吃音者であるゆえに、社会へ出て躓いたときも、お父さんとおかあさんは、丹念に治療をさせようと試みた。時に、著名な催眠療法の先生の下へ通わせたりもした。あたしには、お兄ちゃんは、本当に傷ついているから、優しくしてあげてね、なんてお母さんはいつも言っていたが、本当に傷ついているのは誰なのか、と声を大にして言いたかった。

そういう効果のあるかどうか、はっきりしない治療法を何年か続けたが、お兄ちゃんの引きこもりは、改善されなかった。お兄ちゃんは、精神の病院に行ったりもして、対人恐怖症とかいう診断名も貰ったが、副作用の強い薬も大量に与えられた。それで、お兄ちゃんは、余計に体調を崩していった。結局、精神の病院に行っても、民間療法をさせても、お兄ちゃんは、改善することなく、結局、部屋に閉じこもって、一日中ピアノを弾くだけの人間になってしまったのだった。そうなると、少しは自分にも、家族や近所の人たちは、関心を持ってくれるかなあ、と麻衣は思ったが、こういう時に、長男というのは、優遇されてしまうモノらしい。お父さんもお母さんも、兄の世話ばかりして、いつかは、うちの店をつぐんだ何て、兄に尻をたたいたりしていた。麻衣は、どうして私の事は、いつも置き去りなのか、どうしたら、自分の方を向いてくれるのか、そればかり考えて、自分もいい成績をとったりしてみたが、全く両親には効果なしだった。

そんな生活をしているうちに、麻衣が成人して、両親の態度が変わり始めた。なぜか、これまで冷たかったのが、急に優しくしてくれるようになったのだ。初めのころは、やった、これでお父さんたちは反省してくれたんだわ!と思ったが、それは違った。麻衣が、念願だった大学を卒業させてもらった直後、父が、この店を立て直すため、創介と結婚しろ、と、いきなり命じたのである。始めのうちは何だと思ったが、後になって、あの時優しくしてくれたのは、自分が素直に結婚に応じようとさせるための、芝居だったんだと知った。麻衣はさらに怒りがこみあげてきて、もう、不良と化してしまおうか、とさえ考えたが、そのさなかに母が店の中で倒れ、病院に運ばれて五分もしないうちに逝ってしまった。母が、どこか病んでいたのかは、麻衣も何も知らなかったが、医者によると、過労による多臓器不全という事だった。たぶん、兄の事であれこれと考えすぎたのが原因だろうと父は言った。そうなってしまっては、麻衣も母に協力しなければだめだと思った。そういう訳で、麻衣は、しぶしぶ創介との結婚を受け入れ、店を手伝う様になったのである。

そういう訳だから、店に親しみなんて、着物に親しみなんてこれっぽっちもわかなかった。それよりも、とにかく売り上げを得て、ほしいものが何でも買える生活をしたい。それが麻衣の望みと言えば望みだった。

「其れで良いわ。あたしは、お兄ちゃん何てもういらないんだから!」

そう言って、麻衣は、店の整理をしに、部屋を出て行った。とにかく、こういう時には、何食わぬ顔をしているのが一番だ。兄はもうすぐ、あの世の人になるから。それだけでも、麻衣にとっては救いの事例と言っても過言ではなかった。そして、兄をやっつけることができたら、次はあの、売り上げの邪魔をした、外国人の男をやってやる。たぶん、兄と同じやり方ではやれないだろうから、もっと具体的な方法を考えなければいけないな。もっと確実にうまくやる方法は無いか。口に出しはしなかったけど、麻衣は、そのことばかり考えていたのである。

そんなことを考えながら、店の売れない着物たちの掃除をしたり、大量に仕入れた和装小物の整理をしたりしている彼女を、創介は、悲しそうな目で見つめていた。

そうこうしているうちに、店は閉店時刻になった。もうすぐ、デイサービスセンターから、兄が倒れたとか、様子が変になったとか、そういう連絡が入ってくるはずだろう。それが来ても、出来るだけ何食わぬ顔をして居よう。麻衣は、そういうことを考えていた。でも、いつまでたっても電話のベルはならなかった。一度だけ鳴ったけれど、それは足袋を扱う問屋からで、次の足袋の入荷は、来週以降になると、間延びした声で言っていた。

いつまでたっても、電話が来ないので、麻衣がちょっとイライラして、店舗部分を掃除していると、外から、クルマの走ってくる音がした。なんだと思って、窓から外を覗いてみると、あの時のワゴン車ではないか!まさか、失敗したのではないか!と、麻衣の顔が凍り付く。その通り、ワゴン車の後部座席から出てきたのは、まさしく、龍介であった。

「今日の喜びの島はいい演奏だったよ。次の演奏もよろしくね。」

何て声が、後部座席から聞こえてきたのである。それでは、あの毒物入りのお結びは効果なしだったのか?だって、あれほど強力な毒薬を使ったのに、大量に飲むどころか、ほんの少量でも、死に至る薬物を使ったはずなのに?

「はい。ありがとうございました。また次の演奏の時もよろしくお願いします。今度は、いつも送ってもらってばかりでは申し訳ないので、なにかお菓子でも持っていきます。」

と、龍介は言っている。これでは、毒物は全く効かなかったらしい。結局、失敗だという事だ。麻衣は、怒りを込めて、急いで玄関を開けて、車が止まっている外へ出た。

「ちょっとお兄ちゃん、帰ってきたの。」

麻衣が、そう言って車のほうまで歩いていくと、龍介は、何もなかったような顔をして、車から降りた。「あ、ああ、遅くなってごめんね。デ、デイサービスセンターの人たちと、食事しなければならなくて。」

と、龍介は答えた。

「じゃあ、あたしが持って行くようにと言った、お結びは?」

思わず麻衣がそう聞くと、

「あ、ああ。ごめんね。あ、あれは、もう、要らなくなって、駅のごみ箱に捨てたよ。」

そう言われて麻衣はがっくりと落ち込んだ。でもなぜか、これでいいというような気持ちになってしまっていた。もし、誰か利用者に挙げちゃったとか、そういうことをしてしまったら、自分は、関係のない人を巻き込んでしまった、殺人者という事になってしまう。それだけは、したくないと思う。いくら何でも。そんな事を考えると、あの外国人がどうのこうのなんて、考えはどこかにすっ飛んで行ってしまった。

「いいわ。お兄ちゃんはそのままで、演奏活動を続けて頂戴。」

とりあえず、そういうことを言って、麻衣は、部屋にもどったのである。龍介も、部屋に戻って、ピアノの練習を始めた。今度は、喜びの島ではなくて、曲のタイトルもよくわからない、でも、美しい曲だった。亡き王女のためのパワーヌという曲だったが、麻衣は、そういうことは知る由もない。ただ、なんとも言えない、甘ったるくて美しいメロディに、怒りでもなく、悲しみでもない、なんといっていいかわからない、感情がこみあげてきたのである。

麻衣が、部屋に戻ると、創介が、大きなボストンバックに、身の回りの物を入れていた。

「どこに行くの?」

麻衣が聞くと、

「いやあここにいるのも、もうつらくなってきたから、暫く外へ出ようと思って。」

と創介は答える。

「でて、いくの?」

麻衣がぼそりとそういうと、

「そうだよ。」

と、創介は、そういうことを言った。

「これ以上、君が変わっていくのを、見たくないんだ。」

その一言で、麻衣は、ハッとした。

そうか、それではいけないんだ。そういうことをしてはいけないんだって、頭の中で分かっているはずなのに。

「ごめんなさい!」

玄関から出てこうとしている創介に、麻衣は、思わずそういった。でも、創介は、玄関を開けて、後も振り向かずに出ていってしまった。





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杉ちゃんと江戸友禅 増田朋美 @masubuchi4996

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