第五章
第五章
「本当にいいんですか?」
龍介は、小園さんが運転するワゴン車の中で、隣の席に座っていた、ジョチさんに聞いた。
「いいんですかって何が?」
ジョチさんは、ちょっと変な顔をして、そういうことを言っている。
「何も困ったことはありませんよ。介護施設は、ただでさえ大変なんですからねエ。その通りにやってくれれば、何も怖いことはありません。」
「しかし、、、。」
龍介はまだ、自信がなさそうな態度だった。
「しかし、しかし何だよ。お前さんのやることはピアノ以外に何もないだろ。それを提供してもらったんだから、遠慮せずに思いっきりやればそれでいいのさ。ちっちゃいことは気にしないで、何でもやればいいの!」
杉ちゃんが、そういって龍介の肩をたたく。杉ちゃんみたいに、そういう風に考えられればいいんだけどなあ、と、龍介はちょっとため息をつく。
「そうですよ。いつもと変わらず、力を抜いて、気楽に演奏してください。演奏技術面に関しては、水穂さんも、大丈夫だって、言っていましたから。」
ジョチさんは、そういって、龍介を励ました。
「はい、つきましたよ。デイサービスセンター磨き石。」
小園さんがそういうことを言って、ある小さな建物の前に車を止めた。玄関先に、磨き石と書いてある、看板が置かれている、小さな建物である。三人が、車から降りると、中年男性の施設長が、出迎えてくれた。
「あ、どうも有難うございます。いらしてくださるのを心待ちにしていました。利用者さんたちも、みなさんが来ると言ったら、喜んでおりました。」
と、施設長は、にこやかに笑って、三人を建物の中へ招き入れた。建物は、食事をする部屋と、集会をする部屋、麻雀などをする部屋もある。入所施設ではないので、それぞれの個室というようなものはなかった。基本的には、こちらに通って、おしゃべりしたり、麻雀をやったり、そういうことをする施設だった。
ピアノは、集会室の中に在った。古臭い感じの、つや消しのグランドピアノで、かつて利用しいていた人が、寄付してくれたものだという。その人は、長らくピアノを弾いていたが、自分の事がわからなくなってしまい、ピアノが弾けなくなってしまったため、家族がこちらに寄付したと、施設長が説明した。なんだかそれを聞くと、人間が楽器に負けてしまっているという現象が、ありありと見て取れた。
「さあ、今日はお客さんが見えましたよ。なんでも、ピアノを弾いてくださるそうです。お名前は、石橋龍介さんです。」
施設長がそう紹介すると、利用者たちは、興味深そうに、ピアノの周りに寄ってきた。龍介は、施設長に促されて、ピアノの近くに立った。
「ど、どうも初めまして、い、い、石橋と申します。」
とりあえずそう言ってしまう。こういう時は、シッカリ喋れたらどんなにいいだろうかと思う。でも、自分にはそういうことはできなかった。これで、変な話し方をするなと叱られたり、おかしな話し方だと笑われたりするのだろうか、と思ったが、おどろいたことに、そのようなことをする人は誰もいなかった。
「あ、あ、あの、」
何を言ったらいいのかわからなくて、それしか言うことができなかった。すると、利用者の一人が、にこやかに笑って、
「緊張しなくていいから、演奏を聞かせておくれよ。」
と、言った。まるで、孫に言うような言い方だった。続いて、隣に座っていたおばあさんが、
「あたし達は、学歴も何もないのに、こういうところに捨てられた身だから、音楽の事は何も知らないわよ。だから、気兼ねしないで弾いて。ね。お願い。」
という。そうか、そういう事だったのか。このおじいさんやおばあさんたちは、みんなそういう事になってしまった人たちなのだろう。きっと、年をとったことで、家族に邪魔もの扱いされた人達が、小ここに集まってきているという事なのだ。
「ほら、何も気にしないから、演奏して頂戴。あたし達は、どんな曲でも、喜んで聞かせてもらいますよ。」
別のおばあさんがそういうことを言ったので、龍介も勇気を出して、ピアノの前に座った。
「そ、それでは、それでは、厳格なる変奏曲を弾きます。」
どうにかこうにかして、こういうことを言って、ピアノの前に座って、厳格なる変奏曲を弾き始めた。あの時、好演賞をもらった時と、たいして変わらない演奏でしかないと思ったが、お年寄りたちは、にこやかに笑って、最後の変奏迄、シッカリ聞いてくれた。
演奏し終わると、お年寄りたちは、大拍手をしてくれた。みんな、彼の演奏に共感してくれたようだ。「すごい演奏だな。すごい素敵な演奏だったよ。音楽の事はよくわからないけど、一生懸命やってくれているという事が、すごく良く感じ取れる。」
「本当ね。場面の展開もわかりやすくて、いい演奏だったわ。」
おじいさんとおばあさんが、そう手をたたきながらそういっている。
「ただなあ。欲を言えば、もう少し穏やかな曲も一緒にやってくれると、嬉しいんだけどなあ。」
別のおじいさんがそういうことを言った。それを聞いて龍介も、ちょっと驚いた顔をする。
「もう一曲やってくれよ。ちょっと落ち着いた、穏やかな曲をさ。」
そう催促されて、龍介は、少し考えて、
「じゃ、じゃあ、ドビュッシーのアラベスク一番をやります。」
と言ってまたピアノを弾き始めた。また真剣に聞くおじいさんおばあさんたち。でも、決して嫌そうな顔はせず、みんなにこにこしてそれを聞いている。演奏終わると、おじいさんたちの大拍手。龍介は、ありがとうございますと深々と頭を下げた。
「有難う。また来てくれよ。わしらが年よりであることを意識しないで、演奏してくれてとてもうれしかったよ。」
おじいさんがそういう様に、演奏者が何回か来たことはあったのだろう。きっとその人たちは、聴衆が年寄りだからと、流行りの曲しかやらなかったり、変に子供っぽい演出をしたりして、それが嫌だったという事である。確かに、お年寄りは、子どもとは違う。子どもであれば、演出に工夫が必要だが、お年寄りは、それが必要ないというか、変に子どもみたいにしてしまうとプライドが傷つけられてしまう恐れもある。
「そうヨ。あたしも、嬉しかった。どうせ、家では、邪魔な扱いしかされないんだから。こういうところに早く行ってしか言われないんだし。職員は、子どもみたいにあたしたちを扱うし。もうどこにも行くとこないのかなって、そんな気がしちゃった。」
おばあさんがそういうことを言った。このおばあさんが代弁したように、どの利用者も、そういう気持ちをもっているんだろうなという事がわかった。
「是非、また来て頂戴ね。今度は、もっとたくさん曲を持ってきてね!約束だよ!」
ちょっと陽気で明るい感じのおじいさんが、これまた明るい声でそういうことを言った。そして、こっちに来な、と、龍介をテーブルの前に座らせて、お茶まで出してやる始末。みんな龍介が吃音者であることなんて、何も気にしていないようだ。みんなにこやかな顔をして、この新しい仲間を、歓迎していた。
「ありがとうございます。来てくれてうれしいです。」
施設長が、そっとジョチさんと杉ちゃんに言った。
「これまでいろんな人に演奏をやってもらっていたんですが、みんな説明が長すぎたたり、曲が、子どもの曲と大して変わらない曲だったりして、あの人たちは、ほとんどの演奏家を追い出してきたんです。」
「そうだよなあ。年寄りとか、障害者とかって、年齢に合わない態度で、見られることが多いから、それがやだっていう、お年寄りも結構いるんじゃないの。」
杉ちゃんが、施設長さんにそういうと、
「そうですねえ。お年寄りと言っても、うちの施設は、一皮むけばまだまだいろんなことができる人たちなので、そういう風にされると怒る人が多いんですよ。だから、ああいう風にやってくれた方が、よかったんですね。」
と、施設長さんは、苦笑いしながら言った。
「ぜひ、彼にもう一回ここへ来てくれるようにいってくれませんか。できたら、定期的にこちらに来ていただけるとありがたいです。何も刺激のない、桃源郷のような施設では、利用者さんたちも、つまらないだけですから。お願いできませんでしょうか。」
「わかりました。それでは、契約書を作成しませんか。そのほうが、より契約が確実なものになりますし。」
ジョチさんは、手帳に何か書き込みながら、そういうことを言った。施設長は、はい、もちろんです、よろしくお願いします、なんて嬉しそうに言っていた。
その間にも、龍介と、おじいさんおばあさんたちは、楽しそうに話を続けている。もう一度書き込むが、龍介が吃音である事を、馬鹿にしたり笑ったりする人は、誰もいなかった。
一方そのころ。
「そんな事、きにするもんじゃないよ。兄さんは兄さんでやればいいし、俺たちは俺たちでやればそれでいいのさ。」
全く売れない立派な着物を前に、創介はそういうことを言って、麻衣を慰めていた。
「でも、このままだと、本当に売れなくなっちゃうじゃないの。」
麻衣はいら立って、着物の周りをぐるぐる歩いている。
「もうホームページにも着物の事は記載したし、あとは、見てくれるお客さんだって、きっと現れるさ。」
「そうね。他の古着の着物ではなくて、ちゃんと寸法があって、壊れにくいことを打ち出したのに。」「まあ、すぐには来ないよ。気長に待ってればそれでいいじゃないか。」
創介の言い方に、麻衣は、一寸カチンときた。
「気長に待つって、あなた、いつまで待ってたら、気が済むのよ。」
「そうはいったって待つしかないだろ。できることはやったよ。後は、お客さんの判断にもよるだろうが。あまりああだこうだと動かないほうがいい。」
「そんな事言ったって、現実、売れなきゃ何もならないじゃないの!」
麻衣は、きつい声でそういうことを言う。
「そうだけど、生活ができないわけでも無いだろう。あとは、新規でお客さんが来てくれるのを、待つだけだよ。誰かと比べるわけでも無く、俺たちは俺たちのペースでやっていけばそれでいい。それを誰かと比べる必要もない。」
「あなたって、そんなに頼りない人だったのね。そうじゃなくて、悔しくないの?あの変な外人には負けるし、お兄ちゃんは、この頃段々、出かけることも多く成って来てるし。」
「でも仕方ないだろう。周りの人と比べても、しょうがないよ。人は人、家はうち。割り切った方がいい。現に、今ある売り上げで、生活できるための資金はちゃんと成り立っているわけだし。それ以上求めてどうするんだよ。そんなこと、考えるだけ無駄だじゃないか。」
確かに創介の言う通りでもあった。誰かとやたらと比べたがる人は、自分が満たされているからこそ、比べられるという事に気が付いていない。自分の事を棚に置いて置けるからこそ、他人と比べるという事ができるのだ。
「そうだけど、、、。」
麻衣は、まだそういうことを言っている。
「そうじゃないよ。ちゃんとうちはやれているんだから、兄さんや、あの外国人と比べる必要もないんだよ。そんな事考えていたら、本当にエネルギーを無駄遣いして、肝心な時に、何もできなくなってしまうぞ。」
男というモノは、こうして理論的に考えることが得意だが、女にはそういうことは不向きというか、ちょっと苦手だなあと思うのであった。中には、本当に感情に振り回されて何もできなくなってしまう女性も多い。そういう事もあるから、男女のバランスがとれるという事は、大事なことなんだろうなと思うのである。
「麻衣、落ち着けよ。俺たちは、生活していくのに、何か問題があるわけじゃないんだから、それで良いじゃないかと考えよう。」
創介がそういっても、麻衣は、悔しいと思う気持ちをやめられなかった。確かに、自分たちの店が、腰ひもとか、伊達締めとか、足袋と言った、和装小物ばかり売れて、着物本体が売れないことは、本当にがっかりしてしまうのであった。あの、外国人が販売している店は、着物が山のようにあって、それがかなりの売れ行きを得ていることは、もう知ってしまった。あたし達は、あの人が売っているのより、もっとすごいものを売っているはずなのに、なんで、あんな地味な友禅に飛びついて、あたしたちの店には寄り付かないんだろうか。
「そうだけど、うちの店は、何十年も続いているのに、和装小物しか売れないんじゃ、本当に情けないわよねえ。」
「変なところにこだわるなよ。今は老舗であれば、何でもやっていけるという時代は終わったよ。それよりも、何を売っているかを大切にしなくちゃ。」
相変わらずいろんなものにこだわり続ける麻衣に、創介はそう慰めた。入り婿らしく、そういう事を言うのだが、もし、立場が逆であったら、麻衣の方が、引っ張っていかなければならなかったかも知れない。
「そうね。お兄ちゃんは、時代に合わなかったというか、家の店に合わないことをして失敗したんだし。それよりはましだと考えれば、まだいいかもしれないわね。」
と、麻衣は、創介の話に、一寸溜息をついた。
「だから、小さいことを気にしすぎないで、これからも店を続けていけばそれでいいのさ。さて、売り上げの集計しなくっちゃ。早くしないと明日に響くじゃないか。」
と、創介は、そういってレジスターの中にある売上金を数え始めた。こうして気もちの切り替えがすぐにできるのも男ならではであった。
丁度、そのとき、クルマの走ってくる音が聞こえてきた。麻衣が、窓を開けて、誰が来たのかを確認するとピカピカのワゴン車が、プレハブ小屋の前で止まった。ワゴン車の後部座席のドアが開いて、ありがとうございましたという声と一緒に、龍介が、降りてくるのが見える。
兄は、最近ものすごく変わっているように見える。彼は、あの後、つまり、コンクールで好演賞をもらった後、やっぱり自信がなくなってしまったのか、一時ふさぎ込んでしまったようであったが、どういう訳か、数日で立ち直り、再びピアノを弾き始めたのだ。そして今日は、どこかの介護施設に、慰問に行ってくると言っていた。その施設の紹介は、あの外国人がしたという。どういうことだと初めは思っていたけれど、何だか、今日車から出てきた兄は、ふさぎ込むどころか、実に生き生きとして、にこやかな、いや、晴れやかな表情をしているのだった。
「じゃあ、二週間後の金曜日、また迎えに来ますので、よろしくお願いします。」
と、クルマを運転していた人がそういう事を言っていた。
「はい。そのくらいの間隔で訪問するようにと、施設長さんも言ってましたしね。」
と、龍介は言っている。それと同時にやくざの親分みたいな口調で、杉ちゃんが、
「今度行くときは、もう厳格なる変奏曲はだめだぜ。もっと穏やかで、明るい曲をやってね。」
と言った。
「はい、わかりました。次はそうですね。明るい曲という事で、ドビュッシーの喜びの島とか、そういうモノを持っていきます。」
「ああ、あれならいいかもね。楽譜は持っているの?」
「はい。物置を探してみれば、あると思います。」
「其れはよかった。じゃあ、頼むよ。喜びの島を聞かせてあげてね。」
「はい!」
龍介は楽しそうな顔で、車にもう一回頭を下げた。じゃあな!と言って、杉三たちは、石橋家の敷地内を去っていく。それが見えなくなるまで見送ると、龍介は、プレハブ小屋の中に入っていった。そして数分後、今度は、厳格なる変奏曲ではなくて、ドビュッシーの喜びの島を練習しているのが聞こえてくるのだった。ドビュッシーの音楽は、メンデルスゾーンに比べると、メロディこそ美しいが、どこか和声的に不安定で、一寸いら立たせる要素があった。それを聞いて麻衣は、さっきの落ち着いた気持ちはどこかに行ってしまって、また、頭の中が怒りでいっぱいになってしまった。創介が、おい、そんな事でおこるんだったら、自分の生活がもっと面白くなるようにすればいいだろう、なんて説教しているのも、聞こえなかった。
「次の二週間後の金曜日と言ってたわよね。」
麻衣は、創介の言葉を無視して、聞こえないようにそっと呟く。
「ええ、やってやるわ!」
麻衣は、それだけ決断して、創介と一緒に売り上げを片付ける作業に加わった。
そして、二週間後の金曜日。また、小園さんの車が、彼を迎えにやってきた。麻衣は、ちょうど車に
乗ろうとしていた龍介に、こう声をかけた。
「お兄ちゃん今日も慰問演奏?」
小園さんは、麻衣が声をかける間、クルマを止めて待っていてくれた。後部座席に誰が座っているのかは、窓ガラスにフィルムが貼ってあるので、見ることはできなかったが、麻衣は気にせず話をつづけた。
「もし、行くんだったら、お昼はどこで食べてくるの?」
「お昼ご飯は、近くにコンビニあるから、そこで買うつもりだけど?」
龍介がそう答える。
「其れか、レストランに行くか。」
「そうなのね。コンビニも、レストランもちょっと高いわよね。それじゃ、御金がもったいないわ。残りのご飯でお結び作っておいたから、之もっていってよ。」
麻衣は、そういって、風呂敷でつつんだ、アルミホイルの塊を差し出した。
「とりあえず、昆布とおかかと梅干しと三つ用意しておいたから。」
「はあ、そうなのね。今日は特別な日という訳でも無いけど?」
龍介は、一寸驚いた顔をしてそういうことを言うが、
「まあ、お兄ちゃんが、変わり始めてくれたから、それでうれしいのよ。それだけの事なの。だって、お兄ちゃん、今まで出不精だったでしょう。それがこうして、外出するようになったんだから、妹のあたしとしては嬉しいのよね。それだけでも、忘れないでもらえないかしら。」
麻衣は、にこやかに笑ったふりをして、そういうことを言った。
「だから、妹からの差し入れというか、応援のつもりで、今日だけこのお結びもっていってよ。あたしからの応援の気持ちだと思ってさ。」
「変な気づかいはしなくてもいいけど、、、。」
龍介はそういうことを言っているが、
「とりあえず、妹さんからの応援だと思って、お結びを持っていったらどうですか?妹さんだって、一応家族の一人ではあるわけですから。」
と、運転手の小園さんの言葉に負けたらしく、それならば、と言って、お結びを受け取った。
「じゃあ、行きますよ。」
と、龍介が窓を閉めるのと同時に、小園さんは車のエンジンをかける。麻衣は、とりあえず計画通りにいった!と、目を細めてそっとほくそえんだ。きっと龍介は、今日の昼には、消えてくれる、そうすれば、あたしたちの邪魔者というか、一番の営業妨害が、消えてくれると心の底から思いながら。
小園さんの車が、石橋家の敷地内を離れていくと、麻衣は、これまで以上の笑い声をあげて、呵々大笑したのであった。
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