プレ西都原「生目古墳群」(後)

 1号墳に、話を戻します。

 推定築造年代も、以前の推定より時代が繰り下げられました。理由は、3段築成であると判明した事と、後円部平坦面の面積が狭い事……だそうです。

 おいおいおい!!

 3段築成だとか4段築成だとか、そんなものが築造年代の根拠となり得るのでしょうか。


 学者先生方は、3世紀4世紀当時の技術事情をちゃんと考慮しているのでしょうか。


 文字が存在しなかった、と言われている時代なのです(幸田はそう考えていませんが)。であれば当然ながら、数字や測量計算など覚束ないわけですよね。

 大きな古墳を作ってみたら、3段より4段にした方が作り易いだとか安定しそうだとか、そういった事情が往々にして途中で発生するわけです。地盤の問題だったり元々の地形との兼ね合いだったり……。元々の設計やその時々のトレンド通りに完成させるよりも、そういった施工事情に応じて臨機応変に築造した蓋然性の方が、高いのではないでしょうか。


 後円部平坦面の面積にしても、同様です。平坦面の広い方が古く、狭い方が新しい……という古墳編年における指標は、はたして正しいのでしょうか。


 古墳時代前期から中期に至り、大きな古墳がどんどん作られるようになりました。当然、後円部の高さも高くなる傾向がありました。高さを求めた結果、上部平坦面が狭くなった……というのは概ね納得出来る話です。

 しかし前述の通り、数字や測量計算など存在したのかどうかも不明な時代なのです。リーダーや設計者の築造スキルとて不明です。

 とりわけ、生目1号墳は大きな古墳ですから、後円部の高さが13.3mもあります。ということは、傾斜面の角度が想定よりわずかにきつく付き過ぎただけで、平坦面の面積は設計より狭くなるわけです。施工ノウハウに乏しかったであろう初期古墳程、そういったケースも多かった……という可能性も、大いに有り得るのではないでしょうか。


 要するに古墳の形というのは、当時の技術設計レベルを考慮すれば、常にトレンド通り、設計者の構想通り、に築造された……わけではないと思うのです。ですから何段築成であるとか、平坦面の面積云々で築造年代を推定するのは、少々浅はかではないかと幸田は感じました。


 むしろ幸田が気になったのは、1号墳と同時に築造されたと判明している、隣接する2号墳(円墳)です。何と、(槨構造の無い)木棺直葬らしいのだとか。

 まさかまさかの、弥生墳丘墓!?(驚)

 それこそ2号墳、及び同時に築造された1号墳が、極めて古い物――弥生期若しくは古墳時代最初期――であることを示唆している、と思いませんか!?


 またレーダー探査の結果、1号墳の埋葬施設も異様に小さいと判明しています。約7.1m×約4.9mといいますから、奇しくも九州最古の木槨発見と騒がれた、檍1号墳(宮崎市)の木槨と同サイズです。

 檍1号墳は墳長52mしかありませんから、生目1号墳が130mもある事を考慮すれば異様に小さいわけです。実際他地域の、同サイズの古墳の埋葬施設と比較しても、生目1号墳のそれは極端に小さいようです。


 これもまた、生目1号墳の築造年代が極めて古いことを示す、強力な根拠となるのではないでしょうか。

 埋葬施設は時代が下るにつれ、どんどん大きく広くなるのです。ですが生目1号墳のそれは極端に小さかった。

 そういったファクターこそが、古墳の外形以上に有力な、生目1号墳の築造年代が極めて古いことを示唆する根拠となり得るのではないか……と幸田は調査報告書を読みつつ感じました。


 なお従来、生目1号墳を2倍サイズに拡大すると、箸墓古墳になると言われていました。1/2の相似型、というわけです。

 ですが新たな測量結果と、3段築成と判明した点から、その辺の見解が覆ったようです。

 いやいや、ちょっと待て!!(笑)


 繰り返しになりますが、当時は文字があったんですか? 数字があり測量計算技術が確立していたんですか?

 高度な設計技術があり、高度な施工技術があったんですか!?


 当時本当に文字すら存在しなかったとすれば、幸田が思うに、地面に縄張りを行うサイズ――つまり墳墓長や後円部径、前方部長や幅、くびれ部幅など――をコピーしただけでも、凄い事ではないでしょうか。

 他の古墳のサイズを模倣して縄張りし、いざ築造してみたら3段では作れず、4段になってしまった。……そういったいわゆる「プチ失敗」ケースも、両者が相似型であると認識すべきではないでしょうか。


 文字がない時代、他所の古墳を計測し、各サイズを暗記して地元に帰り縄張り出来ただけでも立派です。想像してみて下さい。文字がなければメモさえ取れないのですから。

 ましてや施工技術やノウハウまで習得し持ち帰るのは困難だったことでしょう。そういった事情をも含めて考慮し、相似型云々を論じるべきだと幸田は考えます。

「元々○○古墳を意識して築造された」

 というコンセプトの有無こそが実は大事なのであって、施工の結果として誤差や差異が生じたとしても、それは些細な事ではないでしょうか。立派に相似型である、と見做すべきでしょう。


 かつ本当に大事なのは、そういったコンセプトの有無から各地域の政治力学的関係、文化伝播の流れを読み取ること……だと思います。

 その上で、あらためて生目1号墳と、箸墓古墳をはじめとする畿内古墳の関係性を考えるべきでしょう。


 古墳のサイズ問題しかり。築造年代の推定しかり。相似型云々の判定しかり。……

 調査報告書を読むに、どうも客観性を欠く議論がなされ、結論が下されているように感じます。


 改めて調査報告書を確認し気付いたのですが、2010年代に入り、畿内古墳を基準とする不完全不十分な古墳編年体系をリードするI氏や、邪馬台国畿内説を強く推進するS氏が、調査研究の委員に加わっているようです。

 そういった方々を交えての、いわゆる政治的綱引きもあったのではないか……と想像せざるを得ません。


 生目古墳群。――

 卑弥呼の邪馬台国を考える上で、やはり注視すべき遺跡だと感じます。とことん調査を行って欲しいものです。


 最後になりますが、何故、前方後円墳はあんな形をしているのでしょうか。

 前方部は、後円部の被葬者に対する、祭礼が営まれた場所だと言われています。おそらくこれが、一番説得力のある説だと思います。


 ですが、だとすれば幸田は1つ、奇妙だと感じる事があります。生目1号墳もそうですし、次節にて紹介する笠置山墳丘墓もそうですが、前方部より後円部の方が低い・・・・・・・・のです。

 崇拝の対象とは通常、頭上或いは高壇に据え、伏して拝するものではないでしょうか。これは古今東西、大体そうです。

 実際、多くの古墳も後円部の方が高いか、若しくは前方部後円部が同じ高さです。低い位置から、後円部に被葬されし死者を拝んだわけです。しかし当稿の執筆にあたり、幸田は宮崎県内に幾つか、後円部の方が低い古墳が存在すると知りました。生目古墳群であれば、1号墳のみならず5号墳や7号墳もそうです。


 これもまた、前方後円墳の形状の変化や、生死観や祭礼に関する考え方の変化を考慮する上で、極めて重要なファクターではないでしょうか。

 であれば、古墳編年にも指標として加えるべきファクターだと感じます。


 生目古墳群は、調査報告書を読めば読む程、古く貴重な遺跡である可能性を認識させられます。

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