日高祥氏リポート「笠置山墳丘墓」(前)

 というわけで、いよいよ本丸の「笠置山墳丘墓」を紹介致します。これは学術的な名称ではなく、これまで何度か触れましたアマチュア研究家・日高祥氏が便宜上名付けたものです。

 以下、既に版の絶えている氏の貴重な著書「史上最大級の遺跡 ー 日向神話再発見の目録」を紐解きます。


 宮崎市は、その真ん中を九州第2位の一級河川・大淀川が西から東へと流れ、日向灘に注ぎます。大淀川によって、市が南北に分断されています。

 生目古墳群は大淀川南岸にありますが、笠置山墳丘墓は概ねその対岸……大淀川北岸にあります。


 氏曰く、笠置山墳丘墓周辺では(打製)石鏃が大量に見つかっているそうです。一方南岸の生目古墳群付近ではそれがほぼ見当たらないのだとか。なので氏は、

「まず大淀川北岸の方が栄え、その後都市の中心が南岸の方へ移ったのだろう」

 と述べています。北岸は石鏃の時代、及び鉄族に切り替わる頃まで栄えた。その後に南岸が栄えたため、南岸では石鏃が見つからない……ということでしょう。

 確かに氏の著書を読む限りでは、笠置山墳丘墓周辺で出土する土器は弥生時代の物ばかりで、埴輪等は見つかっていないようです。これもまた、氏の推測を裏付けていると思います。


 ちなみに墳丘墓から東に800m足らずの位置に、磐戸神社があります。非常に歴史の長い神社です。その御神体(原文ママ)は前漢鏡だとか。

 卑弥呼が魏朝から貰ったのは前漢鏡だという説もあり、卑弥呼との関連を匂わせます。かつ、その境域にはウガヤフキアエズの吾平山陵があるそうです。

 また墳丘墓の北1km強の位置には、その父・ホオリ(山幸彦)を祀る高屋山上陵があります。墳丘墓から大淀川下流方向に沿って古墳だらけで、中には100m超の前方後円墳(下北方13号墳)も存在します。

 その延長線上にあるのが、神武天皇が即位前に造宮した地と言われている、宮崎神宮です。なお宮崎神宮の本殿背後にも、墳墓長80m近い前方後円墳があります。


 ついでに言えば、そこから大淀川河口方面に向かうと、九州初の木槨発見ということで知られる檍古墳(1号墳)が存在します。これは全長52mの前方後円墳(バチ型)です。前節で述べたように、木槨のサイズから生目1号墳との関連が伺われます。

 調査を行った宮崎大学名誉教授・柳沢一男氏は、木槨から三世紀後半築造と推定し報告しています。ですが現在、この檍1号墳は何故か「4世紀前葉築造」とされています。

 これはどういうことでしょうか。前節にて述べたような、ある人々によるある種の思惑が働いているのではないでしょうか。

 ネット上には詳細な報告書も見当たらず、そもそもそれ以前に調査説明会も開催されないまま埋め戻された……という点も、少々気になるところです。


 話を戻します。日高氏によると、当地には記紀神話に登場する数々の伝承と同じものが、多数存在するそうです。

 例えば前述の磐戸神社はアマテラスが御祭神で、磐戸隠れの伝説がそのまま残っているのだとか。また墳丘墓南側の八坂神社……別名八竜神社には、正にヤマタノオロチ伝説そのものがあるそうです。

 周辺の地名もまた興味深く、笠置(読みは「かさご」ですが)をはじめ、瓜生野や五十鈴(川)など関西とも共通する古地名が幾つもあるのだとか。氏の研究によると、昔は土地の人々が何らかの事情でゴッソリ他の地へ集団移住した際、新天地に旧地名を付ける慣わしがあったようです。


 それらの事実から、大淀川北岸には太古より強大な勢力が存在し、かつ伝説通り神武東征を果たした事が想像可能です。しかも記紀神話の数々の逸話は、宮崎がオリジナルなのかもしれません。

 また幸田がこれまで述べてきたように、東征の残存勢力がその後も当地にて栄え続け、笠置山墳丘墓を築造したのでしょう。さらには何らかの事情で、その後都市が大淀川南岸へと移転した。が、それも古墳時代中期以降、真北へ19km離れた西都原(西都市)の地へと再移転したのでしょう。


 幸田の主張する「本家ヤマト」「畿内ヤマト」という歴史観は、そういった考古学的成果に基づきます。

 紀元前1世紀の神武東征によって、日向国が空っぽになったわけではありません。それが本家ヤマトであり、卑弥呼邪馬台国なのです。それを裏付けるのが、他ならぬ笠置山墳丘墓であり、生目古墳群をはじめとするその周辺の遺跡群なのです。そして膨大なたたら製鉄炉なのです。

 卑弥呼後・・・・の本家ヤマトも、全盛期程ではないにしても、依然強大な勢力を保持していた。それを裏付けるのが生目古墳群の存在であり、西都原古墳群から出土した広域の産物なのです。


 さて、その笠置山墳丘墓。――


 実は日高氏の発見ではなく、大正時代に見つかっていたといいます。氏のお兄さん曰く、

「親父が学校の先生を案内したことがあるそうだ。既に大正時代の末に、文化財に指定されている」

 だとか。

 ですが、どういうわけかそれが保護されず、どんどん破壊されたわけです。1996年の事です。


 氏は慌てて、県や市の関係部署に連絡し、調査を依頼します。

 しかし待てど暮らせど調査に来ないため、やむなく工事関係者の同意を得つつ、工事の傍らでご自身が独力の調査を試みます。結果、後円部径72.1m、前方部長72.4m。墳墓長145.5mの堂々たるバチ型墳丘墓である事が判明するのです。正に魏志倭人伝の記述「径百余歩」ドンピシャです。

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