プレ西都原「生目古墳群」(前)

 何度も述べました通り、魏志倭人伝謎解きはその行程記述のみをあれこれ論じ、

「邪馬台国はここだ~」

 と主張するだけではダメです。考古学的な裏付け、それに大和朝廷との関係や記紀歴史観との兼ね合いをも説明出来て、漸く評価に値する仮説と言えるのではないでしょうか。


 宮崎……古代日向国こそが邪馬台国だった可能性を考えるにあたり、極めて重視すべき遺跡があります。それが生目古墳群です。宮崎市内中心部から、若干西側(内陸側)に位置します。

 前方後円墳8つを含む、50の古墳が残る国史跡です。最近は周辺がキレイに整備され、市の埋蔵文化財センターと歴史体験・学習館が併設されています。


「なぜ生目古墳群? 宮崎と言えば、やっぱ西都原古墳群じゃないの? 西都原こそが邪馬台国の有力候補では!?」

 と思う方が、いらっしゃるかもしれません。


 いえいえ。確かに西都原古墳群(西都市)は規模こそスゴいのですが、どうも古墳時代の中盤頃以降に栄えたように見えるのです。初期型、もしくはひょっとして弥生墳丘墓?……とおぼしきモノは、幸田がざっと眺めたところ数える程しか見当たりません。

 一方の生目古墳群は、損傷激しく形状不明の23号墳(最近まで円墳だと思われていた)を除けば、どれもこれも古そうなのです。おまけに1号墳、3号墳、22号墳は墳墓長100m超クラスです。注目しないわけにはいきません。


 つまり、古代日向国の勢力の中核――もしくはその有力者達の墓所――は、次々節にて述べる笠置山墳丘墓付近から生目古墳群付近へと移り、そして西都原古墳群一帯(周辺にも多数の古墳群が存在)へと移転した事が考えられます。

 ですから卑弥呼邪馬台国の時代を考察するにあたり、生目古墳群は非常に重要な意味を持つと思われます。卑弥呼……もしくは卑弥呼より若干後の時代を担った古墳群だと言えるのです。


 さて、その生目古墳群の調査報告書に目を通しましたので、ざっくり解説します。

 余談ですが、これがまた非常に読みにくい(苦笑)

 調査記録を文章化して、ダダ~っと並べただけ。データの抜粋や、適切な小見出しもナシ。

「ああ……。こりゃ仕事出来ない人がまとめたんだな」

 と感じました。

 歴史の世界ではいまだにこんなクォリティの報告書が通用しているから、考古学が遅々として進展しないのでしょう。


 まず、(損傷激しく形状不明瞭の23号墳を除く)7つの前方後円墳全てに関して言えるのは、

「あくまで国指定史跡としての整備保存を目的とした調査であり、埋葬施設等の調査を目的とする学術調査ではない」

 という事です。

 なので、明確に年代を特定出来るような出土品がありません。

 墳墓表面や周辺から、若干の土器等が発見されています。ですがそれらを築造年代特定に使うのは科学的手法とは言えない……と幸田は考えます。それらが築造時期と一致している保証はどこにもありませんから。


 それから7つ全てが地山整形(丘を削って築造)で、かつくびれ部・・・・が狭い。弥生~古墳初期かどうかはともかく、全て前期築造の可能性があると想像します。まあ7号墳は、形状から推測するに若干時期が下りそうではありますが。……

 ただ奇妙な事に、7つの古墳全ての前方部・・・が削られているのです。或いは前方部角隅が削られているのです。つまり古墳の形状から築造年代を特定するのが、余計に難しいのです。


 古代の人々が、

「バチ型は流行遅れになったから、前方部だけ削っちまえ~」

 と削ったのか。それとも中世以降、古墳と知らずに削ったのか(だとすれば、わざわざ前方部だけ削った理由が謎ですが)。はたまた現代に入り、

「ここ宮崎にバチ型古墳が存在するのは、色々と不都合があるから……」

 と、隠蔽を意図して削ったのか。

 調査報告書はそこに言及していません。不可解です。


 幸田の邪推ですが、戦前や戦中に、皇国史観に矛盾する遺物を軍部が爆破して回ったという話があります。

 或いは戦後、天孫降臨の地、神武東征の出発地たる日向国の歴史を隠蔽するため、学者達の主導で証拠隠滅を図った可能性もある……と思います。

「そんな事ぁ、あるわけね~べ!!」

 と思うかもしれませんが、いやしかし彼らには前科があるんですよ。


 例えば吉野ヶ里遺跡で大型木造建築物の痕跡が見つかった、と佐賀県が大々的に発表するまで、学者達はずっと、日本各地に大型木造建築物跡が在るという事実を隠蔽していました。そして、

「日本の縄文時代や弥生時代は、まだまだ原始人同然のショボい文化レベル、技術レベルに過ぎなかった。建築技術も稚拙で、当然ながら大型建築物なんて建てられっこない」

 と言い張っていたのです。このように隠蔽や解釈の捻じ曲げはお手のモノ。割と頻繁に見られるのです。


 話を戻します。

 そういうわけで生目古墳群の前方後円墳は、7つ共大雑把に、「古い時代の物だろう」としか判明していません。ですが根拠不十分のまま、無理矢理10期編年のいずれかに割り当てている……と幸田は感じました。

 おそらく専門家同士で、

「(古墳編年)○期の築造だろう」「いや、○期頃ではないか」

 といった議論が為された筈なのです。そして決着がついた。それが調査報告書に記載されているわけですが、つまりそう決着した経緯・・が、明確に示されていないのです。なので幸田は、調査報告書に記載されている推定築造年代(古墳編年○期)を信頼出来ないと感じました。


 結局、卑弥呼の時代の古墳ではないか、とその対象を絞るとすれば。……

 幸田的には、7つ全てを一応・・その対象とすべきではないか……と感じました。何故ならば築造年代推定の根拠が、どうにもアバウトだからです。客観性を欠いている、と感じるからです。

 そんな中でも、敢えて特に1つをピックアップするならば、どれか。――

 近年の調査で、色々と見解がひっくり返っているようですが、やはり1号墳ではないかと幸田は想像しました。全長130m(推定)のバチ型前方後円墳です。

 これも調査報告書を読むと、幾つか奇妙な事に気付きます。


 まず、昭和16年の調査以降に、前方部が削られています。昭和18年には早くも国史跡に指定されているにもかかわらず……です。

 前述の通り、削られた理由や時期については全く書かれていません。


 また近年の調査結果として、推定墳墓長が130mと明記されました。従来より6m短くなっていますが、その理由も明記されていません。

 ちなみにこれは3号墳も同様で、143mから137mへと改まりました。よくよく読むと、3号墳は周囲の平坦面にまで葺石が敷設されており、そこまで墳墓長に含めるか含めないかの差……のようです。平坦面葺石を墳墓と認めず137m、だそうです。


 ですがそれならそれで、全長をも併記すべきではないでしょうか。なんとなく、意識的にサイズダウンさせ評価を少しでも小さく見せようと、セコい努力が為されているようにも感じます。

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