「私は彼女の息子を王にしたくないのよ」

 ミハイルがこれほどまでに平和な頭の持ち主となったのは、彼の母親が関係している。


 ミハイルの母親マリエンヌはとある伯爵家の娘として生まれた。穏やかな気候に包まれた領地は、そこに住む人の気質も穏やかだった。

 そしてマリエンヌの両親も穏やかな人物で、子供を道具として扱う貴族としては珍しく子に愛情を注ぎ、慈しみ育ててきた。


 そのため、マリエンヌもまた穏やかな娘であった。


 そしてマリエンヌは学園でのちの王となる少年と出会う。


 のちに王となるとはいえ、当時の彼は第一王子ではあるものの、彼には弟妹も多く、その中には一芸に秀でた者や人目を惹く容姿の者もいる。それに比べて茶色い髪にはしばみ色の瞳を持つ彼はどこにでもいるような凡庸な風貌をしており、特出したなにかを持っていたわけではない。

 そのため彼は王子の一人にすぎず、王になると約束された者ではなかった。


 だが当時の王は次代の王を誰にするかを口にしたことはなく、もしかしたら彼が王になるかもと考え、念のためにと媚を売る者が彼の周囲を囲んでいた。

 そして同時に、彼の失敗を狙い足を掬おうとする者もいた。彼の弟と繋がり、第一王子である彼の失脚を目論む者たちだ。


 そんな環境にありながらも前を向き穏やかに笑う彼に、マリエンヌは心を奪われた。


 マリエンヌの両親は彼女が望む相手に嫁がせると約束してくれていたが、さすがに王族相手とどうこうなれるはずもない。

 しかも彼には学園に入ると同時に決まった婚約者がいた。由緒正しき侯爵家の一人娘で、黒い髪に赤い瞳をしたきつい顔立ちをした彼女は、金の髪に青い瞳を持つマリエンヌとは対照的な娘だった。



 侯爵家の一人娘が婚約者ということでいずれは入り婿になるのではと予測する者もいれば、婚約者がいるのは彼だけだから王太子に任命するつもりなのではと考える者もいた。

 甘い蜜を吸いたい者、失脚させたい者、継承位争いに巻き込まれたくない者、様々な思惑が絡み合ってもなお彼は笑みを崩すことなく、ただ穏やかな日々を過ごしていた。


 マリエンヌはそんな彼を見ながら、日々募る思いにより空想に耽る。だからといって、実際に彼とどうこうなれると考えたわけではない。

 ただひと時の夢を空想の中で描いただけだ。


 苛烈な性格の婚約者に疲れた彼が自分に気がついてくれて、愛を語り合えるのではないか。

 そうでなくとも、自分の思いに気づいてなにかしらの反応をくれるのではないか。


 そんな愚にもつかない恋物語を描き、何事もなく学園を卒業した。



 転機が訪れたのは、それからだった。


 マリエンヌが卒業してから一年もせず、王が亡くなった。

 そして彼が王となった。本来であれば学園を卒業した後に立太子式を行い、正式な王太子として王を支え、王が崩御したのちに王となる。


 だが彼の父親である王は誰も任命せず死の床についた。

 学園を卒業しても立太子式をしなかったことを理由に彼が王になることに反対した者もいたのだが、彼の弟妹が連続して災難に見舞われ、黙らざるを得なかった。


 落馬、水難、転落、病死――どれもこれも偶然とするには立て続けに起きすぎたのだが、彼に通じる証拠は一つとして見つからない。

そして、王の血をひく者は彼だけとなった。



 彼が王になり、彼の婚約者が正妃になった一年後、マリエンヌのもとに側妃にならないかという誘いが届く。


 気づいていてくれたのだと舞い上がったマリエンヌは、両親の心配を押し切り登城し、死によって築かれた玉座の上で、変わらず穏やかに微笑む彼と再会した。

 そのときのマリエンヌがどれほど浮かれていたのかは、語るまでもないだろう。



 望まれて側妃となったマリエンヌであったが、正妃よりも優遇されていたわけではない。寝所に来るのはきっかり一月の半分。その他様々なことでも、彼はマリエンヌと正妃を平等に扱った。

 それでも側妃としては身に余る待遇で、たとえそうでなくともマリエンヌは愛する男性のそばにいられることを喜んでいたことだろう。


 そして、正妃よりも早くマリエンヌが子を宿したのだが、それを境にマリエンヌの生活は辛いものに変わった。


 彼は子か産まれてからというものマリエンヌのもとに訪れていた時間を公務にあて、残りの半月を正妃と過ごすようになったからだ。

 それでもできる限り邪魔にならないようにと、会いたい触れたい話したいという思いを隠し、公的な場で会うときには柔らかな微笑みを彼に向けた。学園にいたときと同じ、いつかは気づいてくれるはずだという気持ちをこめて。



 マリエンヌは、愛する相手との結晶であるミハイルを愛し、慈しんだ。

 かつて夢見た恋物語を聞かせ、熱が出れば手ずから看病し、寝るときには子守歌を歌った。



 マリエンヌはただの一度も「王になれ」とは言わなかった。

 その代わり自分に似たミハイルに「彼の助けになってあげて」と言い続けた。



 いつまでも穏やかな夢見る少女だったマリエンヌは、夢から覚めることなく息子が六歳のころに不運な事故により永遠の眠りについた。


 言い聞かせられ続けた言葉と語られた夢のような恋物語、そして一人の男性に尽くし続けた母の姿だけが、いつまでもミハイルの心に根づいている。


 そしてマリエンヌが爪痕を残した相手はミハイルだけではない。



「私は彼女の息子を王にしたくないのよ」


 香り高い紅茶で喉を潤し、淡々と告げるのはこの国の正妃でかつて侯爵家の一人娘だった女性だ。

 顔立ちや苛烈な性格ゆえに悪女とまで言われることもあり、マリエンヌの事故は彼女の仕業なのではと疑う者もいる。


「それほどまでにお嫌いですか」

「ええ、嫌いよ。あんなに愚かな子、そうそういないわ」

「私はお会いしたことはございませんが、慈善活動にも力を入れていたので民から慕われていたとお聞きしております」

「だから嫌いなのよ」


 アルミラが学園に入る一月ひとつきほど前に行われた二人きりの茶会で、彼女はそう零した。

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