越前
DA☆
越前
福井生まれの後輩がいる。私と彼とは同じ大学の同じサークルに所属していた。
頭はいいが生活力や社会適応力がない。情熱や未知への挑戦という言葉からは無縁で、興味のあることしか覚えない。じゃあ興味があるのは何かというと、まずコンピュータで、それ系の知識はあるからヤツでも社会人としてやっていける。あとは蟹だ。何しろ越前ガニというくらいで、福井県人は蟹には一家言あるということなのだろうか。有名な市場で蟹を三杯いくらまで値切ったとか、蟹の食い放題で足の太さを見て取り替えを命じたとかいうことを自慢する。
食通を気取っているのかどうか知らないが、しかし、年に一度実家から送ってくるという蟹以外の彼の食事は、サークル一貧相だった。仕送りやバイト収入のほとんどをコンピュータ関係の品に費やすから、ありとあらゆる方法で彼は食費を削っていたのだ。
身長がさほどなかったので目立たないが、あばらが浮き出るほどやせていることは間違いなかった。
彼が卒業し社会に出て、翌年のOB会で久しぶりに会ったとき、彼はやや太っていた。
自由になる金が増え、削っていた食費が元に戻ったのだ。その上生活力がないから三食すべて外食、おまけにプログラマーになったものだから普段動かない。そんな生活をしていれば太りもするだろう。
太ったなぁ、と感嘆して声をかけたが、そうですか、本人はあまり意識していないようだった。もっとも、蟹とプログラミング以外は自分の体にも無関心な男だ。その意識を引いてみようとして、私は少しおどけて問いを切り出した。
───蟹の食い過ぎじゃあないのか。
───蟹ですか。
彼は思いがけず遠い目をした。
───会社入った頃は、給料が出るたびに食べに行ってました。それはもう食って食って食いまくってたんですけど……最近、食ってないです。全然。
───さすがに飽きたか。
───それが、なんか……。
彼は口ごもった。
───魚屋の店頭に並んでいるの見ると、目を背けたくなるんですよ。
───嫌いになった? 蟹を? おまえが?
───いや、逆で。
彼は視線を落とし、深く嘆息した。
───食べるの、かわいそうだな、って思うんです。
今までさんざ食ってたくせに、という言葉をどうにか飲み込んだ。彼の目は本気だった。彼は本気で、どこか商店街の魚屋の店頭に並べられ手足をゆぅらゆぅら動かしている蟹の身を案じていた。蟹料理屋の店先でぐぅらぐぅら足を動かしている機械仕掛けの蟹に憤っていた。
───じゃあ、最近何を食ってるんだ。
そう尋ねると、彼は即答した。
───エビフライです。
翌年のOB会で会ったとき、彼はもっと太っていた。腹はさほど出ていないのだが、見るからに横幅が広がっていた。横幅が広がっているだけで顔や手足は太った感じがしなかった。変な肉のつきかただった。
その年は彼が幹事で、店は、海老の専門店がセレクトされていた。
まぁ、海老は私も大好きなので、店に入るといそいそと着席した。テーブルには、ボイルされただけのイセエビがこれでもかと並んでいた。すべては殻がついたままで、割って身を引き出す作業が必要だった。
───こいつは、蟹以上に静かな宴会になるな。
私が言うと、
───先輩は座っててください、殻は俺が剥きます。
そう言って、幹事たる彼が、大振りのはさみを持って海老の殻を割り出した。はじめは、幹事だから会話が弾むように気を配っているのかと思った。しかし、役割や身分がどうあれ彼は元来気配りというガラではないのだ。妙だなと思った。
妙だなと思ううちにやがて彼は豹変していった。いつものやる気なさげな様子からは信じがたい、まるで親の敵でも見ているかのような眼の色で、ばりばりと次から次に殻を割るのだ。我々は殻をむく手間が省けて楽だったのだが、それは異様な光景だった。やがて彼はすべての海老の殻をむき終わると、今度はその身にむしゃぶりつき、殻までしゃぶり、しっぽをばりばりとかじった。
なんだか私は気分が悪くなり、大好きだったはずの海老が、急に不味くなったように感じられた。
そのまた翌年のOB会で久しぶりに会ったとき、彼はますます太っていた。下っ腹は出ておらず厚みはないのに、さらに横に広がっていて、正面から見ると、頭とつま先と腰を頂点とする菱形に見えた。手足は筋肉が落ちてやけに細くなり、肌は皮膚炎でイボだらけだった。メガネをやめてコンタクトに変えており、急に目が小さくなったように見えた。着ている服は、赤い生地に赤いビーズが縫い込まれた、派手というよりは恥ずかしいほど奇抜なものだった。
そのうえ、彼は我々の目の前に、ゆっさゆっさ体を揺らしながら、
───いや、なんか股関節痛めちゃって。こうでないと、歩けなくて。
彼はそう言った。
それが事実かどうかはどうでもよかった。私は青ざめた。私だけでなく、OB仲間もみな、そのあまりの奇矯ぶりに一歩身を引いた。
その姿は見るからに蟹だった。蟹だ。ヤツは蟹になった。
彼が食って食って食いまくった日本海の蟹の怨念が取り憑いたに違いない。
その年は参加者が少なく、しかもオフシーズンだったので、店はその場のノリで決めようと言うことになっていた。
───あのさ、……何が食いたい?
おそるおそる口を開いた幹事の声に、彼は即答した。
───海老。
言い切った彼の小さな黒い瞳は、何か決意のような狂気のような、私の知る彼とはかけ離れた、名状しがたい輝きを放っていた。私はすかさず切り返した。
───却下だ。蟹だ。蟹料理屋に連れていけ。
とたんにひっと身をこわばらせた彼の首根っこをひっつかみ、暴れるのも意に介さず、私は彼を近くの蟹料理屋の座敷に引きずり込んだ。どこでもよかったし、料理は何でもよかった。店員に、今すぐ蟹を、山ほど蟹を持って来いと怒鳴った。
やがて赤く茹で上がった蟹がどかどかと持ち込まれた。彼は悲鳴を挙げた。私は委細かまわなかった。彼の中に巣くった蟹の怨念をどうにかして祓わねばならないと思った。それが自分の責務だと強く感じた。そのためになんとすればよいか、どういうわけだか私にはすっかりわかっていた。彼に蟹を食わせるのだ。共食いだ。同士討ちだ。同類の肉をむさぼるという生命すべての倫にもとる業を与えることで、彼の内に在る蟹の念に、怨みよりはるかに強い恐怖を植え付けるのだ。
私ははさみを持ち、ばりばりと蟹の甲羅を割り、足を裂き、半ば快感すら覚えつつ、いやがる彼の口の中にむりやり、蟹の肉を、爪を、ミソを詰め込んだ。
───食え! 蟹を食え! 食って食って食いまくって人間の誇りを取り戻すんだ!
───ふごぐげが……っ。
やがて殻入れの壺に脚がすすきのように並び立つ頃、ようやく彼はおとなしくなった。眼の表情がすっと弱まり、いつものやる気なさげな様子に戻っていった。
───あれ……
私は問いかけた。
───うまかったか。
彼は口の回りについた蟹ミソをぺろりと舐めて言った。
───はぁ。
心なしか、彼が少しやせ、腕と足は太くなって、人間に戻ったように見えた。
よかった、と私は心から安堵した。私は、恐るべき敵である日本海の蟹の侵略から、ひとりの人間を救い出すことに成功したのだ。私は勝利に酔い、すると急に食欲が湧いてきて、彼の食べ残した蟹の肉をもさもさと食い、脚をじゅるじゅると吸い、残らずむさぼった。
かくいう私は三重県出身である。最近ひげが伸びてきたと言われる。それも無精ひげではなくて、鼻の下からぴぃんと伸びたまっすぐの……。
越前 DA☆ @darkn
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