3,箱入り娘は箱に入る(2)


 彼と話していたら頂上などすぐであった。


 頂上のロープウェイ乗り場は、トタンで作られた日よけの屋根があり、昼でも少し薄暗かった。


 乗り場のすぐ下は崖のようになっているため、鉄製の柵が周りを覆っている。少し危ないようにも思ったが、景色が良いためフェンスなど背の高いものにするのは避けたかったのだろう。しかし、乗り場のすぐ反対側に明るくて開けた展望デッキがあるからか、わざわざこんな薄暗い乗り場で景色を見る客などいないらしかった。


 薄暗い中でも分かるほどにコンクリートの床はずいぶんと薄汚れていたし枯れ葉が落ちていた。柵も蜘蛛の巣が張っているらしい、薄暗い中で反射する細い光がきらきらと見えた。


 乗り場の管理事務所の受付の窓から事務所の中を覗くと、係員らしい年配の男性が足を組み煙草をくわえていた。ラジオでなんらかの実況を聞いているようだ。どうやら競馬らしい。彼の机の上には新聞と色ペンがあり、ラジオからは事務所外の我々にまで番号と特徴的な名前が聞こえてきた。


 聞こえてきた馬の名前が妙に頭に残っている。『……クモガクレ悠々たる疾走。しかし二番手にはコウショウラクメイ、三番手にはラクタンヒタン。追いすがる。さあ残り二〇〇メートルを切った――』係員は職務をないがしろにしてまでどの馬に賭けているのだろうか、と私は嫌味くさいことを考えた。この係員はどうもやる気が無いらしい。


「ショットガンリベンジが勝つと思うなあ、僕」


 そう言ったのはジョシュ君だった。その声に係員はむっとして目線だけこちらに向ける。どうやら彼の狙いは他の馬のようだ。係員の無言の睨みにも、ジョシュ君はにこにこと笑顔を浮かべていた。


『外からショットガンリベンジ、ショットガンリベンジが差してきた!先頭に出た、先頭に出た!差を開いていく!ショットガンリベンジ!ショットガンリベンジ!……ショットガンリベンジ、堂々のゴールイン!――』


 自分で言っておいてジョシュ君は「おお」と声をこぼした。係員は大きなため息をひとつ。「ほらね、やっぱり。僕、こういう勘は強いんだよ」ジョシュ君が得意げに言うので私は困った。「競馬詳しいの?」「いやあ?僕は別に。でも広昌さんが好きだったんだよね」係員が我々に向き直る。係員は、見たところ五十代くらいらしく、髪には白髪が混じっていた。名札には「前田」とある。その前田という係員は我々のせいか不機嫌そうだ。


「何の用だい、あんたら」


 怠惰な上に無愛想とまできたか。どうやらここの事務所の仕事は、ざっくばらんにやっていてもどうにかなる楽な仕事らしい。私は腹立たしさを覚えたが、なぜかジョシュ君は前田の態度を見ても機嫌をを損ねるどころかむしろ機嫌が良さそうだった。


「いや、前田さん。途中でゴンドラが止まったのって何でなのかなって思って。僕たち怖い思いをしたのに、説明の一つも無いのはちょっと無責任じゃないですかあ?」


 その言葉に途端に前田はばつの悪そうな顔をする。さすがにそこまでの職務放棄に罪悪感が湧いたのだろう。


「しょうがないだろ、ここのは精密なんだ。何かちょっと搬器に当たったとかでも止まるんだ」


「ああ……じゃあ、鳥でも当たったんだろうってこと?」


「そうだ」


 それじゃあ納得いかない、彼がそういう風に思っているだろうことは私にもわかったし、私だって納得がいかなかった。我々二人は同時に前田につっかかってやろうと口を開こうとした。


 その瞬間のことだ、窓口から少し奥まったところに置いてある固定電話がけたたましく着信を知らせた。すぐさま前田がそちらに向かっていく。

 乱暴に受話器をとって応対する音が聞こえてきた。電話の呼び出し音のせいで、ジョシュ君と私の反論は尻切れトンボどころか一文字も音にすることができずに、もぞもぞと喉の奥で停滞するほかなかった。しようがないので私は出かかった文句を飲み下し、小さなため息をついた。


 そんなに大きな声で喋らなくとも最近の電話は音をちゃんと拾うというのに、前田という男は馬鹿みたいに大きな声で受話器の向こうと話している。「はあ?今日はもう運転取り止め?」あまりにも大きい声なので聞きたくなくとも内容が聞こえてしまって、ジョシュ君と私は顔を見合わせた。


「ロープウェイのことかな?」


 内緒話のように手で隠しながら、私にそう耳打ちしてきたジョシュ君は、なぜだか楽しそうに口の端を持ち上げていた。私は別に楽しくもないので無愛想に答えた。


「そうじゃないか?何があったんだろう」


「何だろうねえ」


 そう言った後、彼は「んふふ」といたずらっ子のような笑い声をこぼしていた。「なにがそんなにおもしろいんだよ」私が呆れると、ジョシュ君はぴっと人差し指を立てて、ウインクをしてみせた。


「事件の香りがしませんか?先生」


 この時の私はきっと、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたことだろう。


 事件の香り、そんなものがあるならきっとひどい悪臭に違いない。しかしジョシュ君はまるで、自分のために用意されたごちそうの匂いを嗅ぎつけた子供みたいだった。


「何を馬鹿な」


「そう?いつだろうと、どこだろうと、起こる。それが事件ってものじゃない?それは先生が一番知ってることじゃないの?」


 だって本当に探偵助手なんでしょう?……彼はそう続けて、意味深長に私の目の奥を見つめた。彼の視線に絡め取られて私も同じように彼の瞳を見つめたが、彼の柔らかい印象の丸い目が、なぜだかまるで尋問官の鋭い目のように思えて少し恐ろしかった。「そりゃあそういうものだけど、だからって……」私は後ろ向きな言葉をもごもごと発したが、前田の大きな声によってかき消された。


「ゴンドラの中で嬢ちゃんが死んでたって、どういうことだよ!」


 我々はとっさに受付の窓から身を乗り出すようにして受話器の向こうに怒鳴る前田の方を見た。前田はひどく焦った顔をしていた。強い力で受話器を握る右手が真っ赤になって震えていた。唾が飛ぶ勢いで、前田は続けて言う。


「発車前に確認した時にゃ何もありゃしなかったぞ!」


 ジョシュ君と私はふたたび顔を見合わせて、目を瞬かせた。

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