3,箱入り娘は箱に入る(1)
ロープウェイの中で出会った彼は、のちに、私にとって数少ない友人のうちの一人になる男だった。
彼は、履き古したスニーカーにチノパン、薄手の黒のハイネックにブルゾンと軽装で、荷物も持っていなかった。
カバンを握りしめて気を紛らわしていた私と違って、彼はロープウェイが振動とともに急停止したことにも焦っていないようであった。なんなら今にも口笛を吹いて寝っ転がりそうなくらいだったのである。
彼は散歩にでもやって来た地元の人間で、だからこんな状況でも妙に落ち着いているのだ、と私は勝手に考えた。もしくはどの付くのんびり屋なのだろう、とも。
今なら分かるが、彼はそのどちらでもなく、ただ焦らない人間なだけなのだ。そして、人の懐に入るのが上手い男なのだ。
「新田さんが、いなくなったって、それは一体どういう」
人と話す時、覗き込むようにして目を見つめる癖があるらしく、その時も例に漏れず私の目をやさしく見つめて彼は話した。
彼の目は綺麗な二重の丸い目で、日に透けると焦げ茶色に見える。くせっ毛らしい髪も日頃手入れしているようで清潔感があり、印象の良い人間だ。
彼は慎重に、私の話に耳を傾けていた。
「それが、理由は俺にも分からないんですよ」
なので今は助手業はお休みして小説家業に専念中です、と笑ってみせると彼は眉を上げた。そのあと、ほんのりと苦い笑顔で「ほんとに?」と言って、悲しげな目で私を見ていた。何かを察知している、というのが鈍い私からでもわかる顔だった。
「ほんとうに専念できていらっしゃるんですか」
「……実を言うと、あんまり」
私の言葉に彼は何か考えているようだった。
急に彼がぱんと柏手を打った。そして人懐こい笑顔を私に向けた。
「先生、僕と友達になろう!」
何を言い出すかと思えば。
私はあまりにも驚いて、言葉すら出ずに彼を見つめることしかできなかった。
「僕は貴方と新田さんのお話をもう少し聞きたい。それに貴方の力にもなりたい」
「はあ?」
「でもそういうのは親しくないと踏み込んではいけないトコロでしょう」
「はあ」
「だから友達になろう!」
彼の目は悪意のひとつも無く、困惑する私の目を真っ直ぐに見ていた。この時の私は、彼を子供のようだと思ったし、今でも思う。彼の目は子供のように純粋で、言葉は自由だ。
「理屈はわかるけど……」
私がそう苦笑するのにも関わらず、彼はやはり満面の笑みだった。少し得意げでもあった。彼はおもむろに立ち上がって私に近づき、私の目の前に立った。近くで見ると存外身長の低い男だった。
彼が立ち上がった拍子に搬器が揺れた気がして身を縮めた私に、彼は右手を差し出し握手を求めた。
「どう?先生」
彼はそう言ってウインクをひとつ。
「はあ」
私が曖昧に返事をすると彼はそれを了承ととったらしく、子供のようなかわいらしい笑みで「じゃあ、これで僕たちお友達だ。先生もため口でいいよ」と明るく続けるのだった。握手を求めていた彼の手はいつのまにか、別に差し出してもいない私の左手をとって握っていた。
一方的に固い握手をする彼の手に応えないのも失礼かと思い、私が少しだけ力を込めて彼の手を握り返すと「先生は左利きなの?」と彼は特に深い意図を持たない声でそう言って、握手を終えた。
「え、なんでわかったんだよ」
私は彼に言われた通り、敬語をやめて友人に話すときのような口調で彼に口を聞いた。彼は私のなれなれしい口調に満足げにしてから、さも当然のことですと言うような顔して「手握ったらわかる」とのたまったのだった。
「普段はパソコンとか、さっき持ってたポメラとかで小説書いてるんだろうけど、意外とアナログでペンを持つことも多いでしょ。探偵事務所で助手として働いてるからかな。書類とか書いたりするんだね、きっと。あとさ、今は訳あってそんなにって感じだけど前は熱心に剣道やってた?僕もさ、剣道、やってたんだ。下手っぴだったけど」
私が何も言えずにいると彼は「どう?当たった?」と、いたずらっ子のように言った。「うん」その私の肯定に、彼は別に喜ぶでもなく、これもまた当たり前のことのような顔をした。私は純粋に感心して彼の丸い目を見上げる。
「さっきの推理もどきよりも、それっぽい」
彼は眉を上げて、目をぱちくりさせた。私の言葉をちゃんと噛み砕いたのだろう、それから彼は口をとがらせた。「もどきで悪かったですね。はいはい、僕はこれくらいしかできませんよ」本気でへそを曲げたわけではないからか、どうも可愛らしい拗ね方であった。
「たこ?」
私がそう聞くと、彼は上着のポケットに両手を突っ込み、先ほどから変わっていない窓の外の景色を見ていた。
「誰がイカから人の利き手を当てるかね」
「そういうのいいから」
「冷たいなあ。先生は洒落とかそういうの嫌いなの?」
「洒落とかそういうレベルじゃないだろ今のは」
私が耐えきれず少し笑うと、それを見た彼の目の色に一瞬、安心の二文字が浮かんで、そうしてすぐに溶けた。彼は人をよく見ていて、気遣うのが上手い人なのだと、私はそこでやっと気がついたのである。
「先生の言う通り、手のたこから分かったことだよ。僕らみたいにそういう仕事をやってた人間とかやってる人間なら、こんなの誰だってわかるし、わかって当たり前なんじゃない?」
「俺はわからないけど」
「そりゃ先生は――」
彼が何か言いかけたちょうどその瞬間、鈍い大きな音を立てて搬器の黒い床が揺れた。どうやらロープウェイの運転が再開したらしかった。さきほどからずっと同じ景色を切り取っていた窓は、次第にその景色から遠のいていく。
「お、動いた。よかったね、先生」
心の底の方で少し残っている私の不安を、拭い取るような優しい声色だった。この時は一切気がつかなかったが、彼はこの時からすでに私の感情や考えを見透かすような言動が多かった。彼はただ単に気が利くのではなく、この時よりもずっと前から、私の過去を知っていたのである。
「よければ頂上まで先生と新田さんのお話聞かせてよ」
「まだいやです」
「なんでえ、イケズ」
「こっちの台詞だよ。だってあんた、まだ俺に名乗ってすらいない」
彼はわざとらしく片眉を上げた。「あれ?そうだっけ?」とぼけた彼に私は言葉を続ける。
「あんた、広昌さんって人の話しかしてないぞ、まだ。名前くらいは教えてくれてもいいと思うんだけど?」
「そっかそっか、そうだったか。いやはやそれは失礼いたしました大先生」
彼の名前は存外平凡な名前だった。和泉広昌という名前の隣に並ぶには、少し見劣りするかもしれないと彼は笑っていたが、そうでもないと私は思った。むしろお似合いの名前のようにさえ感じているが、彼にはそこまで伝えることはしていない。
私が復唱するように彼の名字を口に出したところ、彼は少し渋い顔をした。
「自分の名前嫌いなわけじゃないんだけど……ああ、そうだな、できれば『ジョシュ君』って呼んでほしいな」
「は?何?ジョシュ君?」
「そう、ジョシュ君。周りにそう呼ばれてたんだよね。最初は多分、誹りの類いだったんだろうけど、最終的には僕も気に入っちゃってさ。ずっとそう呼ばれてたから、そう呼んでもらえたらうれしいな」
きっと思い入れのあるあだ名なのだろう。彼の表情は遠くにある愛おしいものを見るような目つきであった。
この時以来、私は彼のことを「ジョシュ君」と呼んでいる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます