2,“探偵”・和泉広昌の雲隠れ(1)

 僕は作家先生と違って文章を書くのはまるっきり苦手ですから、正直言うと先生の手記に寄稿するというのは気が向かなかったのですが、親愛なる先生からのお願いですから断るわけにはいきません。頑張って書くことにします。原稿用紙に文章を書くというのは学生以来で新鮮で何だかむず痒いです。読者の皆様には温かい目で読んでいただけたら、僕は大変うれしく思います。



 僕と先生はエヤマ温泉で出会いました。二年前の九月下旬、夏の気配も薄れたころです。


 エヤマ温泉は山の中腹にあり、周りには心を癒すような緑が広がっていました。空気は澄んでいて、鳥が鳴く声と風で葉の擦れる音がよく聞こえました。眼を瞑ると、解決しなければいけないたくさんの問題の存在が僕の中で薄らいでいくような気さえしました。時間がゆっくり流れているような、普段の世界から切り離されたような心地よい空間だったのをよく覚えています。


 午前中にチェックインを済ませた僕は、昼飯までの空き時間で山頂までのロープウェイに乗ろうと思い、乗り場まで手ぶらで歩きました。


 乗り場に着くと僕以外の客は一人しかいませんでした。僕はそれに気を留めず、受付に乗り賃を払いに行きました。もう一人の客も僕の後ろに並びました。


乗り賃を払い終わって、あとは乗る時間になるまで待つだけになった僕は、そこでやっともう一人の客に意識を向けました。


料金を払っているその人を見てみると僕より五つか六つほど年下に見える男でした。ざっと見積もって身長は一八〇センチほどで、肉つきはあまりよろしいものではなく、チケットを受け取った際にカーディガンの袖がずれると手首の尺骨の出っ張りがよく目立っていました。少し眼つきは悪かったですが別にどこにでもいるような平凡な顔立ちをしていました。


彼を以前どこかで見たことがある気がした僕は、もやもやした気持ちになりつつも何食わぬ顔で乗り場に立っていました。なんだか浮かない表情をした彼は料金を払い終わると僕と同じように搬器が来るのを黙って待っていました。


 搬器の中は向かい合うようにして長座席があり、前方と後方は立って景色が見えるようになっていました。僕は入ってすぐのあたりに座り、彼は僕の斜め前あたりに座りました。僕たち以外に乗客がやってくることもなく、ロープウェイは動き始めました。外の紅葉を眺めつつ、僕はいつどこで彼を見たのだろうと膨大な記憶の海を泳ぎました。そうしてるうちに日光の暖かさもあいまって、僕はついつい眠たくなってしまいました。



 いきなりの事です。突然のガコンという大きな振動と目の前の男の短い悲鳴に、居眠りしかかっていた僕の意識は急速に浮上しました。


突然の事でしたが、職業柄でしょうか(と言ってもこの時にはもう退職していたのですが)僕は比較的冷静でした。しかし、目の前の彼は確実に不安に駆られていました。


 彼は先ほどの振動でカバンを床に落としてしまったらしく、飛び出してしまった荷物を急いで拾い上げ、席に座り直していました。僕に気取られないようにしてはいましたが、動揺しているようでした。僕はそんな彼を見て、自分の手のひらの上でびくびく震える小動物を見るような気持ちになって、彼を落ち着かせてやりたくなりました。


その時、ふっと彼の顔を以前どこで見たのかをはっきりくっきり思い出したのです。僕は彼に向かってにっこり微笑みました。もしかしたら少しワルイ笑顔になっていたかもしれません。


「いや、すごい揺れでしたね」


 僕がそう笑顔で話しかけると、彼はびっくりしたのか肩を跳ねさせました。何が何だか理解できなかったようですが、彼は愛想笑いを浮かべて答えてくれました。


「そうですね」


「故障かなんかでしょう。しばらくしたら動くでしょうから、心配せずともいいと思いますよ」


「そうだといいんですが」


「ここには取材で?」


 僕が意地悪くそう聞くと彼は眼をパチクリさせました。僕の意外な言葉に驚いたのか先程までの不安を忘れたようでした。僕はその様子に安心しつつも面白くなってしまって、ちょっとからかってやろうと思い立ちました。


「見たところ作家かなんかでしょう」


 ズバリ言い当ててみせると彼は少し不服そうでしたが感心した様子でした。


「なぜわかるんです?」


「いや、なに、簡単なことです。あなたは先ほどの揺れでカバンを落としてしまったでしょう。申し訳ないですがその時にあなたのカバンの中身を見てしまったもので。その中身というのは、携帯電話とキングジムのポメラ、それに手帳と財布と旅館の部屋の鍵だけだった。そこから推理したまでです」


 僕が得意げな表情を作ってみせると彼は眉を顰め首を傾げました。


「それがどう俺が作家だという証拠になるんです?ポメラを持っているだけで作家というわけじゃあないでしょう。仕事での資料を作るのにポメラを使う会社員もいるし、物書きが趣味の一般人でも持ってる人はいる」


「会社員なら休暇中の旅行にそんなもの持ってくるはずがないし、仕事で来ているとするならそんなユニクロ一色の格好で来るはずがない」


 僕の推理は結論あってのもので、とってつけたその場しのぎの非常にお粗末なものでしたが、彼は真面目に聞いてくれていました。


「あなたがここにただの旅行でやって来た物書きが趣味の一般人だとしても、観光資料を少しも持ってないのが気になる」


「今の時代スマートフォンで何でもすぐに調べられる時代だから紙媒体の資料なんて必要ないだろう」


「そうかもしれないけど、あなたの携帯電話は数年前の型のガラパゴス携帯でした。インターネット検索の機能なんてついていやしないだろうし、もしついていてもほんの気休め程度であまり使えたもんじゃなさそうです。ズボンのポケットにスマホが入っているように見えない」


「はあ」


「フリーダムに着の身着のままで旅をするタイプの人間なら話は別だが、そんな自由人がシャツの第一ボタンや袖のボタンまで几帳面に留めるとは考えられないし、何より靴が綺麗だ。かかとを踏んで履いた跡もない。そういう人は大抵かかとを踏んで履いて靴を汚くしてるもんです。そもそもそんな大雑把な人間なら旅館の部屋に荷物なんか全部置いてくるでしょう、僕みたいにね」


 最後の方はもはや暴論でしかないそのに僕は自分で自分に呆れました。


今もそうですが僕はこの時も、やはり所詮“でした。


けれど、そんな推理モドキでも彼は感心して聞いてくれているようでした。そしてそんな彼を見て以前の自分を少しだけ思い出したりしました。


「で、そんなわけであなたが作家なのだろうと思ったわけです」


「その通りです。俺は小説家をしています」


 彼がきれいな目で僕を見るものだから僕は良心が痛んで、ここでやっと罪悪感を抱きました。からかうのはここらへんでやめておこうと思いました。でも、僕が種明かしするよりも前に先生の方から種明かしをされました。


「けどあまりにも乱暴な推理です、そんなのじゃあ俺は騙されませんよ」


「あれ、お気づきでしたか、先生」


「当たり前です」


 先生はここでやっと初めて僕に本当の笑顔を見せてくれました。とっつきにくい人かと思っていましたが、笑うと子供みたいに可愛げがある人でした。


先生は僕の推理が推理モドキであることをわかった上で聞いてくれていたのです。


「曲がりなりにも俺は推理小説を書いた人間ですよ、なめてもらっちゃ困るな」


「どこかで見た顔だなと思いつつあなたが誰なのか最初は思い出せなかったんですが、以前読んだ文庫本の著者近影で見た顔だとさっきふと思い出したんです。それで少し冗談を言ってみようと思って」


「冗談ね。なかなか面白かったですよ。不安も吹き飛ぶくらいには」


「いや、お恥ずかしい。あなたがあの面白い小説を書いた本人なのだと思うとお会いできたのがうれしくて少しからかってみたくなったんです」


「拙作を読んでいただいたのはうれしいです」


「僕みたいな凡人が探偵のように他人ひとの職業なんか当てられるはずがなかった! 簡単にばれてしまいましたね、残念だなあ」 


「まあ、あんなに乱暴なじゃあね」


「意地悪だなあ」


「初対面の俺をからかおうと目論んだあなたの方がよほど意地悪なんじゃあないかな」


「……けど、これでも僕、一応“探偵助手”なんですよ?」


 僕がそう言うと先生は驚いたらしく目を丸くしながらと小さく声を漏らしていました。しかし、すぐにとしてまた微笑みました。


「また俺をからかおうったってそうはいきませんよ」


「現実にそんなのがいるなんて珍しいでしょう? 信じてもらえないのも無理はない」


「……本気で言ってるんですか?」


「本気で言ってます、本当に、本当ですよ。まあ、僕が自分で『自分が“探偵”の“助手”だ』なんてことは一度も言ったことはありませんでしたけどね、周りからはそう呼ばれていました」


 それから僕は先生に「少し、自分語りをしても?」と聞きました。先生は何も言わず頷きました。


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