3-10「忠犬よ永遠に」

「コイさん。えさのじかんだよ」


 当時五歳の犬養柴乃は、毎日の餌やりを日課としていた。まず柴犬のスケに餌を与え、次に池の鯉に与えるのがサイクルだった。鯉専用の餌をもち、柴乃は池の縁の石に登って餌を撒くのがいつもだった。


「よいしょ。いくよーコイさん」


 小さな体で少し跨るように登り、石の上から餌を撒く。いつものことだったがただその日は、不慮の出来事が起きた。


「あ」


 ぽちゃんと、静かに柴乃が池に転落する。まだ十分に泳ぎを習得していない幼少期の柴乃が、慌てずに泳ぐことは困難だった。また、突然の出来事に叫んで助けを呼ぶという発想も無かっただろう。ただただ、静かに柴乃が溺れていく。


 異変に気付いたのはスケだった。庭にはスケの犬小屋もあったのだが、いつもは聞こえる、コイが餌に群がる水しぶきの音が聞こえなかったからだろうか。それとも柴乃が落ちる音が聞こえたのだろうか。定かではない。しかし、池の前に、スケが立った。


 走り、飛び込む。ただ一心不乱に、主人と認めた柴乃の右肩に噛みつき、一生懸命に池から這い上がろうとする。


 田北は、それを目撃した。田北の目には、スケがどういうわけか柴乃に噛みつき、そのはずみで池に転落したように映った。大慌てで池から柴乃を上げ、一蝶と金之助を呼ぶ。


 当時の恐ろしい記憶を封印した柴乃は当時の事は覚えていなかった。解離性かいりせい健忘けんぼうの類かもしれない。トラウマがその時の記憶を忘れさせたのだ。池が残っていれば思い出したかもしれないが、狂犬病の恐ろしさから池は潰され、記憶が呼び覚まされることはなかった。


 仮に記憶が残っていたとしても、肩の傷をつけたのがスケだと思わなかったかもしれない。スケは、それほどまでにまた小さく、何かできると思われてなかったのだ。



「……はは、まさかそんな、いや、それこそ証拠が……」金之助が少し声を震わせながら言う。


「いえ、そろそろ来ます」

「来る……?」

「はい。証拠がやってきます」


 私がそういうと、ドダドタとけたたましい音がしてきた。誰かが廊下を走っている音だ。そうして、大広間の襖が一気に開かれる。そこには香織がいた。汗を垂らし、息を切らせながら、一枚の紙を持ってやってきた。


「はぁ……はぁ……あったよ、スケくんの、通院記録! 今も、ちゃんと穂積さんが、連れてってて……! 健康優良って……! 通ってる動物病院から、通院歴も、確認取ってきた!」

「お、お婆さ・・・・・おばあちゃん!」

「し、柴乃!」


 後ろから柴乃さんもやって来る。柴乃さんには私の考えを先に話してあって、あとはスケくんの濡れ衣を晴らすために、通院歴を調べてもらっていたのだ。


「な、なんで通院歴が……」

「も、申し訳ございません奥様……」

「田北?」


 そう言って現れたのは田北京花だった。申し訳なさそうな表情で一蝶氏と金之助氏の前に立つ。その後ろには、穂積さんとレオナちゃんもいた。


「あのあと、穂積お嬢様からスケの病院を訊かされまして。その、その後丁度ワクチン接種が可能な時期になってしまいましたから……。まさか行ってないとも言えず……」

「ほ、穂積……知っていたのか」

「え、いや、うん。それで、ちゃんと毎年ワクチン注射してたんだけど……。まずかった? わけないよね」


 きょとんとした表情で穂積さんが答えた。


「その、四谷様、なぜ病院に行ってると……」

「スケくんが今もしっかり生きているからです。老齢となったスケくんが、十五年間一回も病院に行かずに、健康的で今も生きているというのは少し妙な話です。きちんと健康診断を受けてると考えれば、ワクチンもきちんと打っているでしょう」

「で、ではそれと狂犬病ではないという確信にはどういうつながりが……」

「狂犬病に万が一かかっていた場合、その犬は治療させず安楽死させるそうです。安楽死させられていない、ということは、スケくんが狂犬病ではないという何よりの証明です」


 きっちりと座っていた一蝶氏が、急に崩れた。あまりの崩れ様に、穂積さんや柴乃さんも慌てて身体を支えに行く。


「私は……そんな、簡単に分かることの為に……十五年も隠していたのか……。いや、それは……今だからそう言えるのかも知れないね……」

「お、おばあちゃん、大丈夫?」

「ええ大丈夫。ちょっと安心して、肩の荷が下りただけ。ずっと怖かったから。牧子だけじゃなくて、柴乃まで死ぬんじゃないかって、ずっと……」






 それから一日経って、私たちは帰路につくことにした。一晩泊めてもらい、改めて結婚の意思は無いことを一蝶さんに伝えた。少し意外なのは、柴乃さんがそのまま滞在せず、私たちと東京に戻ることだった。


「いいんですか柴乃さん。せっかく久しぶりの帰省なのに、もう帰ってしまって」

「ええ。この肩の傷の正体が分かりましたし、それに、きちんとスケに、やっとお礼を言えましたから」


 先ほど柴乃さんは、スケを優しく抱き、「ありがとう」と告げていた。十五年の時を経た、一匹の忠犬に対する感謝の言葉だった。


「ちょっとレオナちゃんとお話してから行くので、先に道なりに進んでってください」

「はあ、それでは。じゃあ行こうか香織」

「はいよー」


 そう言って、私たちは先に犬養家を後にした。


「あ、そうだ香織、ありがとな。手分けしてくれたおかげで、早く一蝶さんたちに話ができた」

「ね、だから少しは頼りになるって言ったでしょ? 私たちが病院に確認しに行っている間、狂犬病とかを調べる時間に充てられたんだんだから。一人でやるより二人でやった方が、効率がいいに決まってるのよ」

「お前に言われるとなんかむかつくな。ていうかお前、最初病院の場所訊いたとき一人で走っていったって聞いたぞ」

「いや、だって早い方がいいかなーって……」

「結局途中で穂積さんに車に追い付かれて拾われたら意味ないだろ……」

「うっさい!」



 歩いていく小春と香織を、柴乃とレオナが見ていた。


「あの二人、仲良しなのね」

「ええ。とっても。お見送りありがとうね、レオナちゃん」

「ううん! それより柴乃お姉ちゃん」

「ん? なあに」

「ぼやぼやしてると、あの香織ちゃんに、小春さんとられちゃうよ」

「……え。な、なに言ってるの! そそそ、そんなんじゃ、そそそ」

「まー顔赤らめちゃって! お姉ちゃん奥手なんだから。もっとぐいぐい行かないと!」

「で、でもぉ……」

「ほーら、さっさと行って、ちょっと小春さんとくっついて歩きなって!」

「ちょ、お、押さないでよレオナちゃん!」

「次うちに来るときは、イー感じになって小春さんと来るのを期待してるから!」

「い、良い感じ……!?」



 柴乃さんが私たちに追い付いてきた。妙に顔が赤かった。

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