3-9「子が生まれたら犬を飼え」

 今から十五年前、五歳となった柴乃の為に犬を飼おうと言い出したのは、娘の牧子でございました。両親がいない間も寂しくないようにと、家に迎えたのが始まりでございます。


 当時既に穂積たちは家を出ておりましたので、家には私と夫の金之助、それからこの頃から既に仕えていた田北の三人が家にいましたが、あまりに歳の離れた祖父母の我々や田北に比べたら、家にやって来た仔犬の方が、おっとりした性格の柴乃にとってはずっと安心して接することができたのでしょう。


 ある日の事です。その日は土曜日で両親とも仕事はお休みでした。柴乃はお昼寝をしていて、この間に牧子と婿養子の俊敏さんは買い物に行くところでした。


「それじゃあお母さん、ちょっと買い物に行ってきちゃうから、お昼寝してる柴乃の事、よろしくね」

「なあに、私たちが心配しなくても、スケが面倒みてくれますよ」

「もう、スケはまだ生まれて三か月たってないのよ。面倒を見るなんて出来ないってば」

「ははは、分かってますって。気をつけて」

「ん、行ってきます!」


 それが、娘の牧子とした最後の会話です。それからたった数十分後の出来事でした。自宅に電話がかかってきたのです。相手は警察で牧子たちが事故に遭ったとの報せでした。事故の内容はあまりの出来事に放心して覚えておりませんが、病院に搬送された後に亡くなったとのことでした。


 それだけでも突然でつらい出来事であったのに、更なる事件が我が家で起こったのです。


「お、奥様! し、柴乃様が……!」

 

 当時まだ二十五だった田北が、珍しく声を荒げて私のもとへやって来たのです。慌てて庭に出てみると、ずぶ濡れとなった柴乃の右肩をスケが噛みついていたのです。スケはまだ生後三か月を迎えておらず、狂犬病のワクチン注射をしておりませんでした。万が一のことも考えられました。


 そうして私たちは、最悪の選択をします。スケも柴乃も一切の診察をさせずに経過を見ることにしたのです。これは保身もあったかもしれません。この地域でもそこそこ名の知れた家系でございましたから、牧子たちの事故は不慮の出来事として同情を買われても、柴乃の出来事はこの家の不始末として心無い中傷を受けるのではないかと感じたのです。


 これ幸いだったのは、柴乃が泳げない性質だったことです。単純に泳ぐ技術がないのではなく、いわゆる重度の水恐怖症で、洗面器に顔をつけることすらできなかったのです。周りのご友人たちも優しい方ばかりでしたので、泳げないことに関して不自由を感じさせることなく今日まで成長いたしました。それに、肩についた傷もその後友人たちにこれまで指摘されることなく過ごせたのです。


 唯一の危機は、柴乃自身が自分の肩の傷に気付き、私に質問してきたことでした。狂犬病の疑いがあったとはいえ、これを正直に言って柴乃を不安がらせるのも忍びなく、子供なら信じてくれるだろうと考え、咄嗟についた嘘が、犬神の話でございます。


 それから、柴乃はそれを信じていたのか定かではありませんが、それ以上話に上がることはなく、そして真実を告げることなく上京したのでございます。もし、このまま隠し通せるなら、このまま墓場まで、私たちの代の一つの汚点ともいうべき重大な事件を持って行こうと、そう思っていたのでございます。




「そこへ私たちが来てしまったんですね」

「罪というのは、いつか明かされる運命にあります。それが、今日だっただけのことでございましょう」

「あの、これを隠すほどのものだとは私には思えないのですが、何故ずっと隠そうと……?」

「どうしてでございましょうね……。犬養家は、古くより犬を飼育し、使役してきた家系でございました。そんな家の歴史において、犬にまつわる事件を起こしたことを恥だと思っていたことは事実です。それを、自分自身から隠したかったのかもしれません」


 一蝶氏は厳とした態度で言い切った。だが、まだ終わりではない。この話は、それで終わってはいけないのだ。


「……一蝶さん、金之助さん。最後にもう一つだけお話させてください」

「なんでございましょう」

「スケくんは、狂犬病ではなかったというお話です」

「……は?」


 金之助氏が呆気にとられたような返事をする。


「そ……そんなことが、貴様になぜわかる」

「今一蝶さんのお話にあったとおり、柴乃さんを発見した時ずぶ濡れだったんですよね」

「ええ、そうでございます。爪の先から頭のてっぺんまで濡れておりました」

「何故濡れていたのかはお考えになりましたか」

「それは……そういえば……考えたこともなかったな」

「池には鯉がいたんでしたね。この家で買っていた生き物は、柴乃さんが率先して餌を与えていたのではありませんか」

「そ、その通りでございます。柴乃から聞いたのですか?」


 一蝶氏が驚いた表情で返事をした。


「いえ。ただそれならつじつまが合うのです。柴乃さんは鯉に餌を与えようと池に近づいた。いつもの日課だったと思います。しかしその日に限って事故が起きた。足を滑らせて池に転落したんです」

「い、池に落ちた!?」

「はい、そして、その柴乃さんを助けたのが、スケくんだったのではないでしょうか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る