3-8「煩悩の犬は追えども去らず」

「……」


 一蝶氏と金之助氏は一言も発言しない。異様な空気感の中私は話を続ける。


「今からおよそ十五年前。この頃は丁度、スケくんは家に来たばかりの仔犬でした。犬の平均寿命は大体十四、五歳だそうですので、老犬のスケくんを考えると時期としても間違いないでしょう」

「何故仔犬の頃のスケの噛み傷だと?」

「柴乃さんは物心つく幼少期には既に肩の傷があったと証言しています。傷というのは大きさが成長することは決してありませんから、当時から大きさは変わらないまま。あの歯型をつけられたのは、今は老犬となったスケくんの幼い頃だと考えたんです」

「では、スケが柴乃を噛んだことが事実として、仔犬であったスケの行動がそこまで問題視される理由はないと思われますが。噛まれた傷は問題かもしれませんが、適切な処置を行えばよいだけの話ではなりませんか」


 ついに一蝶氏が反論してきた。


「この問題のヒントは潰された池にあります。噛んだこと自体は、単純な怪我の類だったかもしれません。しかしスケくんはその後、庭にある池を怖がったのではないでしょうか」

「!」

「犬はある病気に感染すると、神経過敏となり狂躁きょうそう状態となって、目についたものにすぐ噛みつくんだそうです。池、というより水そのものにスケくんが恐怖を感じていると考えた皆さんの脳裏には、そんな最悪の状況を予想させた」

「……狂犬病」


 一蝶氏が言葉を漏らす。その声色から、私の仮説は今のところ間違っていないとみえた。


「私は特別感染症などに詳しいわけではないですが、狂犬病は一度人間が発病すると生存率は限りなくゼロに近いそうです。もしスケくんが狂犬病にかかっていたと仮定した場合、当時の皆さんは柴乃さんの死を予感させたはずです」

「……貴様、犬を飼ったことは」


 次に口を開いたのは金之助氏だった。


「ありませんが」

「なら知らんだろうから教えてやろう。狂犬病のワクチンはな、接種の義務がある。スケも例外ではない。きちんと摂取しているなら慌てる必要はない。そうであろう?」

「本当ならそうでしょう。ですがスケくんの場合は、ある理由からそれができなかったんです」

「……理由とは?」

「スケくんがまだ生まれて間もない仔犬だったからです」

「……」

「さっき調べて知ったんですが、狂犬病ウイルスのワクチンって、生まれてから九十一日を過ぎた仔犬に接種義務があるんだそうですね。では、スケくんが柴乃さんを噛んだのがまだワクチン接種が出来ない生後九十日未満だとしたら。そしてそんなスケくんが池の水を怖がったら。最悪の事態を想定するのに十分な出来事だったと言えます」


 私と立ては仮説は、次の通りだ。


 柴乃さんの両親が事故死したほぼ同時刻。まだ生後九十日未満のスケくんが、どういうわけか柴乃さんの右肩に噛みつき、犬養家はパニックになる。何故なら不運なことに、スケくんは生後日数の都合上、狂犬病のワクチンを接種しておらず、あろうことか池の水を怖がるようになったため、柴乃さんに狂犬病感染の可能性が出てきてしまったのだ。


「池を潰したのは、スケくんが怖がった、あの池を見ることが苦痛だったからです。もちろんスケくん自身を落ち着かせる意図もあったと思いますが、少しでも狂犬病を思わせる物を自分たちの視界から無くしたかった、そういう心理が働いたのではないでしょうか」

「それなら!」


 金之助氏が声を荒げて反論してくる。


「それならスケを殺せばよい! 何故池だ! スケが狂犬病なら、元凶のスケを殺せば……殺せば……」

「殺せません。何故ならスケくんは、あなた方お二人にとって初孫である柴乃さんがとても大事にしていた、家族同然の存在だったからです」

「……」

「先ほども話した通り、抱えて笑顔で写真に写るほど柴乃さんはスケくんに愛情を持っていました。そんなスケくんを、いくら疑いがあったからとはいえ即決で殺すという決断はできなかったはずです」

「……うむ」

 

 金之助氏が小さく返事をする。


「だからこそ噛まれた後、本当は病院に行かせるべきだったのですが、皆さんにとっては診察も恐怖だった。本当にスケくんと柴乃さんが狂犬病にかかっていたと発覚したら。そんな嫌な現実を見たくない恐怖が、治療という決断から目を背けてしまったんです」


 しばしの沈黙が大広間を包む。次に口を開いたのは一蝶氏だった。


「それで、その出来事が、まことの出来事だとして、柴乃の言う呪いとどういう関係があるのでしょう」

「一蝶さん、柴乃さんはあなたに肩の傷の事を訊いて、その際に犬神の話を聞いたそうです。あれは咄嗟の嘘だったのではないですか?」

「嘘」

「先ほども申しました通り、あなた方は狂犬病そのものに恐怖を感じるようになった。そもそも狂犬病は感染してから発病までの期間が不定で、すぐ症状が出ることもあれば一年以上かかることもあるそうです。診察して、狂犬病ではないと分かっていれば正直に告白できたはずですが……。それをしなかったために、良い説明が思いつかなかった。肩の傷はどうあがいても消せない、狂犬病に対する恐怖の証。それを柴乃さんに説明するために口にするのも恐ろしかったあなたは、幼い柴乃さんなら信じてもらえるだろうと嘘を吐いた。それが……」

「犬神の話」


 そういうと一蝶氏は、腰を曲げ手をつき、深々と頭を下げ、見た目はまるで土下座の様になって言った。


「御明察の通りでございます」

「え……」


 これまで反論をしていたのが嘘のように、正しいと認めたのだった。


「これまでの反論、お許しください。ただ、部外者であるあなた様に、この家のことを詮索されるのが嫌だっただけなのでございます」

「あ、いやいえいえ、あの私もご無礼を承知で……」

「事の顛末を、お話させていただきます」


 すっくと一蝶氏が身体を持ち上げる。その顔は怒っているわけではない、ただ凛と、覚悟を決めた顔だった。隣に座る金之助氏は、目を閉じたまま眉を顰めている。それほど、これは墓場まで隠し続けたかったものだったのかもしれない。


「今から、そう、まさに十五年前のことでございます。五歳になった柴乃の為に新たな家族を迎え入れました。それが、スケでございます」

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