1-9「木を隠すなら」

 午後七時を過ぎ、桜庭香織と生野源蔵が帰宅した頃。少年、伊瓶伸太郎は初めて通わされていた塾を無断で欠席した。塾に行くための手提げ鞄のほか、手には自宅から持ってきたビニールボールがあった。普段仲良くしている友達と遊ぶ時間はほとんど取れず、おおよそ子供らしい生活は十分にできていないだろう。しかし、限られた時間でも自分と遊んでくれる仲の良い友人は存在していた。もっぱら運動が好きな彼らの為に、自分が運動できず仲間外れにされるのは酷であった。少年は、隠れてボールを投げる練習を始めたのである。


 あいにく公園には壁当て出来るようなものは無かったが、この公園のシンボルとも言える大きな木があり、それを壁に見立ててボール当てを行えば、一人でも十分にキャッチボールの練習にすることができた。一回、二回、三回とボールを投げ、徐々にその力は増していく。


 不意に力の掛ける方向を間違え、ボールは明後日の方向へ行ってしまった。大きな木の、上のさらに上。少年の身長ではまず絶対に届かない位置だった。


 臆した。自分の母親から課せられていたルールを再び破ってしまう。既に塾をサボってはいけないというルールを破った。これは、ばれなければきっと大丈夫であろう。しかし、ボールを無くしたと発覚してしまったらどうだろう。あれほどきつく物を無くしてはいけないと言われ、消しゴムの一つでも無くせば反省文を書かせる母親だ。文章でどうにかできるものでは済まないかもしれない。少年は、どうにかしてボールを取ることに決めた。




「枝がボールに突き刺さった。状況によってはそれは事故かもしれませんが、伸太郎くんにとってそれが、自分が壊したものだと感じていたら、ひどく焦ったと思います。ゴミ袋は片付けられない、せっかく取り戻したボールは壊れている」


 私は枝の刺さったボールを母親に見せながら話した。母親の感情は読み取ることができなかった。怒りを覚えているのか、はたまた別の感情が生まれているのか。それはこの時は知りようもなかった。


「そこで、ボールを隠し、無くしたと嘘をついた。ゴミ袋と一緒にしなかったのは、ばれないようにするためと、後でボールは回収するつもりだったからだと思います。子供の発想として、見られたくないものを見られないような場所に隠すものです。ゴミ袋の山の中だと誰かの目につくかもしれない。周りが気にしなくても、少年自身は気になってしまった」

「それでボールを茂みに隠して、一旦家に帰ったのね。それで次の日、朝来てみたら……」

「既にあのゴミの山の周りには人だかりができていて、とても自分がやったと言い出せる状況じゃなくなっていたんだろう。内心パニックに陥った伸太郎くんは、友達にも、ボールは忘れてしまった、と嘘に嘘を重ねてしまうこととなった」

「そうだとして」


 伸太郎の母親が口を開いた。やみくもに反論するわけでもなく、一通り人の意見を聞いてから発言をするあたり、いわゆるそういう教養を伴っている人なのだろう。


「そうだとしても、それは私たち家族の問題で、貴方は関係ありませんよね?」

「ええそうですよ。ここから先は、伸太郎くんと、お母さんの問題です。ご家族の教育方針だとか躾だとかに口出しするつもりは一切ございません。私は、息子さんが悪意を持ってこういうことをしたわけではないだろう、という事を言いたいだけなのです。それを受け取ってお母さんが伸太郎くんを怒ろうが怒らまいがどちらでもかまいません。ただね、一つだけ口を挟ませていただいて構わないなら、少しくらい子供らしい生活させてあげてもいいんじゃないんでしょうか。もう少し息子さんの言い分も、聞いてあげるべきなんじゃないんでしょうか。それができていれば、今回の不法投棄は発生しなかったと、私は思うわけなんです」

「……」

「以上です。大変失礼いたしました。私からの説明はこれで終わりとさせていただきます。それでは」


 母親に会釈をして、私は立ち去った。玄関前にいる香織が裾を引っ張ってくる。


「ちょ、ちょっと言いすぎだったんじゃない?」

「いやあ、まあもうこれ以上ここの家庭と関わることもないだろうし、それに自分の気になっていたことは大分納得のできる形で解けたから、いいかなって」

「じ、自分勝手すぎるでしょ!」

「でもさ、あのままだと伸太郎くんは、町に迷惑をかけた人、という枷をずっと付けたまま過ごすことになったと思うんだ。子供の頃にしてしまった過ちというのは、案外ずっと引き摺るものだし、本人も言い出せないと思う。だから、これを機に家族できちんと、このことを話せる状態を作った方が良いと思った」

「よ、余計なお世話なんじゃ……」

「かもしれないね。でもいいんだよ。僕は親切をしたいわけじゃない。気になったことをきちんと明らかにして、それで嫌われるならそれで結構だよ。伸太郎くんはなるべく言いつけを守ろうとした。塾はサボったけど、ちゃんと約束を守ろうとはしていた。母親もそれには気付いているはずだし、だから後は、家族の問題なんだよ」


 香織は腑に落ちないと言いたげな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。後ろからは益子が黙って着いてきている気配だけ感じていた。

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