第3話 それは松木なのか松本なのか


 随分と前のことになるが、若手女流作家がふたり同時に芥川賞を

受賞したことがあったのを覚えているだろうか。

 ふたりとも頗る美人で彼女達の受賞当時地上波テレビ局はこぞっ

て出演依頼を出し、それこそ映画化された彼女達の作品に出演する

俳優や女優よりも頻繁に画面に登場していた。

 ひとりは正統派美女でひとりが個性派美女。

 そんな若手だったふたりも、今や押しも押されもせぬ中堅作家と

なった。

 もうお分かりかと思うが、綿矢りさ氏と金原ひとみ氏のご両人で

ある。

 先ずは金原ひとみ氏についてだが、ご存知の通り著作の「蛇にピ

アス」は映画化もされた。

 その完成時の記者会見に於いて出演者と彼女が同時に登壇した際

のこと、私はてっきり金原氏が出演者だと勘違いをし、始めて見る

女優だな、と、彼女を女優として品定めしていた。

 最後に司会者が原作者と紹介しなかったら、私は永遠に彼女を女

優と勘違いしていただろう。

 実際出演者の女優より金原氏の方がいい女だった。

 いい女と言えば自分的には両氏のうち綿矢りさ氏がドンピシャの

理想のタイプだったので、彼女の結婚を報道番組で知った時はショ

ックで次の日仕事を休んだくらいだ。

 悲しいやら、悔しいやら、で、結果ワインや酒を呑み過ぎて次の

日の朝起きれなかったのである。

 そのぐらい彼女のファンだった。

 綿矢りさが独身の間は、彼女の書いた作品を読むことが自分に取

って至上の喜びだった。

 畢竟貧乏の癖に彼女の作品だけは古本屋で買わず、新品を片っ端

から書店で買って、そして家に持ち帰り、読む、の、その繰り返し。

 今思えばあの時代が一番良かった。

 最初に彼女の顔を見掛けたのは、彼女がテレビ番組で彼女と同世

代の女子アナウンサーからインタビューを受けているときだった。

 私はその際先ず何よりホステス役のその女子アナウンサーに対し、

憐憫の情を抱いたのを覚えている。

 兎に角綿矢りさがいい女過ぎて、十人並み以上の容姿を持つ筈の

女子アナウンサーがまったく霞んでしまい、引き立て役に成り下が

っていたことが今でも忘れられない。

 もし自分が綿矢りさと同世代の女性で、しかも彼女と同時にテレ

ビ出演するとすれば、それはもう地獄でしかない。

 そのせいだろうか、綿矢氏が同世代の女子アナウンサーと出演し

ているのを見たのはそれきりで、それ以降は綿矢氏より年嵩の女性

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アナウンサーと出演しているところしか見掛けなくなったのは。

 ま、そのことはさておきそれ以来私は綿矢りさの虜となった。

 しかしである。小説お宅と自負する私自身をして、綿矢りさがい

い女だから彼女の作品を読む、と、言う下衆極まりない行為を認め

る訳にはいかない。

 因って綿矢りさがいい女だからなどと言う不順な動機から彼女の

ファンになったと言うことは、自分で忘れるようにした。

 飽く迄作品が好きだから綿矢りさのファンなのだ、と。

 ところが、で、ある。

 人が自分に取って都合の悪い記憶は忘れようとする、と、言う説

を自ら証明することになってしまう。

 彼女が結婚してからと言うもの、私は彼女の作品を読まなくなっ

てしまったからである。

 しかし数ヶ月の後、ふと、思い直した。

 それで良いのか、そんな風に女優やアイドルに対する視線で、私

は綿矢りさの作品を読んでいたのか、と。

 私は何と愚かで低レベルな読者なのか、芥川賞作家の作品をそん

な不順な動機で読んでいたなんて、有り得ないくらい最低だ、と。

 そんな動機で綿矢りさの作品を読むことは、作家としての彼女に

対する冒涜だ。

 この似非小説お宅が!

 真面目に小説を読むんだ!

 と、何度も自身を叱咤激励し、彼女の作品を純粋に文学として味

わおうと試みた。

 また彼女のご主人を恨むのも止めにしよう、と、思ったりもした。

 しかしそうは思ってはみたが、どうしても綿矢りさの作品を読ん

でいると彼女が結婚してしまったこと、或いはテレビで見た彼女の

笑顔など、色んなものが脳裏に蘇りどうしても読書に集中できない。

 ならば同じ良い女でも金原氏ひとみ氏の作品なら、と、試しに読

んでみたら、こちらの方はまったくスラスラと読めるではないか。

 自分と言うのは何と単純で下衆な輩なのだろうか、個人的感情を

抱いていなければ、いい女の金原ひとみであってもこんなにも抵抗

なく作品を作品として楽しめるのだ。

 そう言えば金原氏は結婚した後であったことを考えれば、何をか

況やである。

 そうして次から次へと読み進むうちに、新潮文庫出版の「ハイド

ラ」、と、言う文庫作品にぶち当たったのだが、作中には別段これ

と言う誤りが有る訳でもなく。

 彼女独特の筆致を楽しみ大変満足したのだが、読後解説を読んだ

際にとんでもない誤りに気付いたのだ。

              ‐8‐





 作中に「松木」と言う人物が登場するのだが、解説者は何とその

登場人物を徹頭徹尾「松本」として解説をしたのだ。

 芥川賞作家のその作品の解説者はかの有名な瀬戸内寂聴氏。

 私は当時どうしても白黒はっきりさせたくて、新潮社の文庫担当

者に電話したのを覚えている。

 訊くと電話に出た担当差は、「あ、本当ですね。ご指摘ありがとう

ございます」、と、さらりと流した。

 その後数年間何回か書店へ足を運んだ際にチェックしてみたが、

訂正されることはなかった。

この原稿を上げるに際し増刷されたであろうから今なら、と、新

宿の某大手書店に立ち寄ったが今は在庫がないようだった。

 今後今一度文庫本の「ハイドラ」を取り寄せ、確認してみること

にしよう。

 今も松木が松本であることを祈って。

 

 さて間違いの原因として考えられるのは、大きく分けて三つのパ

ターン。


 一、実は作品の登場人物である松木は元々松本だったが、その小

説で何か特別な事情があり松本と言う名前の使用許可が取れず、捧

を一本取って松木にしたと言う複雑な事情があった。

 瀬戸内氏はその元になった作品を読んで解説を書いた為、そう言

うことになってしまった。

 また解説の校閲者も松本で書かれた原稿を下にしており、原作の

松木で書かれた原稿の校閲者と違う校閲者が校閲していた場合。


 二、瀬戸内氏が松木を松本と単に書き間違えてしまっていたが、

解説の校閲者が原作を読まずに解説を解説として校閲したので、松

木が松本と誤って書かれている解説の原稿を受け取っても、そのこ

とに全く気付くことが出来なかった。

 

 三、瀬戸内氏が松木を松本と単に書き間違えてしまっていたこと

に、単に編集者も校閲も全く気付かなかった。

 間違いであることを出版後に瀬戸内氏に言うことも今更出来ない

し、それが露見したら編集者を始め校閲者も何等か責任を取る必要

が生じる為、その後も訂正などせずに放置した。


 そうだとすると、一の場合はそのことを掘り下げると、法的な問

題を含め色んなところからクレームが発生するので、担当者として

はそのまま放置するしかなかった。

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 また二、三の場合、瀬戸内氏の単純な書き間違いに端を発し、印

字されているから隠蔽出来ないまでも、指摘されてそれが問題にな

る大した事ではなかろうと放置している。

 他にもまだ考えられる間違いの原因はあるだろうが、私は二か三

の単純な理由に絞って良いような気がする

 そして新潮社は訂正する必要も、そのことに言及する必要も謝罪

する必要もまったく無い、と、思う。

 何故ならこれもまたAIであれば発生することのない、味のある

金原ひとみの「ハイドラ」のもうひとつの物語なのだから。

 だって考えてみて欲しい、あの瀬戸内寂聴が松木を松本と徹頭徹

尾間違え、そのボケに気付くことなく解説を完結しているのである。

 これを物語と言わずして、何と呼ぶべきだろうか。

 新潮社には感謝と賞賛しかない。

 素敵なボケをありがとう、否、素敵な物語をありがとう、と。

 ま、ここに書いたことは私が今後金原ひとみ氏にも瀬戸内寂聴氏

にも会うことはないだろうし、また新潮社から出版依頼が来ること

もないから書けたのだ。

 が、しかし、死ぬ迄に一度でいいから綿矢りさにだけは会いたい、

と、思っている私が仮に綿矢りさ作品にこうした間違いがあったと

して原稿にすることが出来るかどうか、と、言えばそれは疑問だ。

 実際のところ冷静に綿矢りさ作品を、私には単なる文学作品とし

て読むことが出来ないのだから。

 とは言えそのお陰で金原ひとみの「ハイドラ」に付随する、もう

ひとつの物語を発見出来たのだからそれで良しとしようではないか。

 それに私にとっての綿矢りさのような作家が、誰にでもひとりく

らい存在して良いのではないか。

 何となればそれこそが綿矢りさの作品に対する、私のもうひとつ

の物語なのだから。













              ‐10‐

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誤字、誤植、脱字、誤表現から生まれるもうひとつの物語 松平 眞之 @matsudaira

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