病院の怪談
千鶴
噂の幻惑
「病院の怪談?」
そんな噂を聞いたのは、勤務していた病院での休憩時間でのことだった。いつものように下世話な看護師たちの雑談になんとなく耳を傾けていると、話題はいつの間にか最近入ってきた研修医の話から病院に関する噂に変わっていた。俺が反応すると、看護師たちはものすごい勢いで食いついてきた。
「不知火先生、ご存じないんですか。ほら、中庭の隅に紫陽花の花が咲いているエリアがあるでしょう。最近その近くの病室の患者さんが次々に容態が急変して亡くなっているんですよ。病棟スタッフたちがそれは紫陽花が死を招いているからだって噂してたんです。かなり広がっていたので、てっきり先生もご存知かと思ってたんですが、知らなかったんですね」
「初耳だな。まあ、我々の仕事は生きている患者に治療を施すことだ。怪談じみた噂話に興じるくらいなら、仕事に集中した方がいい」
はーい、と返事をして看護師たちは休憩を終え、持ち場に戻っていく。俺も仕事に戻って外来の患者を診なければ、と診察室へ足を運ぶ。興味なんてないはずなのに、先程聞いた噂話が頭にこびりついて離れなかった。
不気味な噂話を聞いてからそんなに日が経っていないある日、俺はいつも通り入院病棟を回診していた。例の紫陽花が近い病室に回診に向かったとき、慌てた様子の看護師が近くの病室から飛び出してきた。
「403号室、加藤さん危篤です!」
その声を聞いて、慌てて病室に飛び込む。病状は安定していたはずなのに、どうして。緊急措置を施していく中で、最近聞いたあの噂が頭の中によぎった。
『病棟スタッフたちが紫陽花が死を招いているって噂してたんです』
いやいやまさか、そんなはずはない。心霊現象なんてあるわけがない。生きようとしている人を救うのが俺の仕事であり、使命だ。目の前の患者を死なせてなるものか。いつも以上に必死だった。必死で、冷静じゃなかった。
心臓の音を知らせる機械が、患者の死を伝えるのに、あまり時間はかからなかった。駆けつけた家族に今後の手続きを説明し、病院内の医師が全員集まる定例会が始まる頃には疲れ果ててぐったりとしていた。ふらふらと自分の席につこうとすると、俺よりかなり低い方向から声がした。
「大丈夫ですか?不知火先生、顔色よくないです。一度外で休憩してはどうでしょうか」
「いや、大丈夫だ。君は?」
「これは申し遅れました、精神科病棟の華染神楽と申します。隣に座りますので、何かありましたらいつでもお声がけください」
「あ、ああ。ありがとう」
定例会自体は何の問題もなく進行したが、自分の担当する患者たちや、看護師が話していた噂話のことで頭がいっぱいで、内容が全然入ってこなかった。この間の患者だけでなく、噂に呼応するように俺の勤務する病棟で命を落とす人が後を絶たなかった。職員の中にも、体調不良で欠勤していた奴が家で亡くなっているのが発見されたり。おかげで最近は満足に睡眠も取れない。
椅子で大きく伸びをして席を立とうとすると、横から定例会の資料がぬっと出てきた。聞き逃したであろう部分を中心に、事細かにメモされていた。差し出した方を見ると、始まる前に俺の体調を心配してくれた小さな医者がちょこんと座っていた。
「どうぞ。資料も取りに行かれないので連れ出した方がいいか悩みましたよ」
「世話かけてしまってすまない。何か埋め合わせでもしようか」
「今は結構です。御自身の体調を整えてくださいな。目の下の隈がひどいので、長いこと満足な睡眠を取れていないでしょう。その隈がなくなってから改めて口説いてくださいな」
冗談もひらりとかわされ、彼女は会議室を後にする。心なしか彼女の声は、冗談を言っている割にはトーンが沈んでいるような気がした。
定例会から更に何日か経った…ような気がする。眠れなくなってからというもの曜日感覚も日付感覚も曖昧になってしまった。病院が休みである筈の日曜日にいつもと変わらずに仕事へ向かってオートロックの扉の前で途方に暮れるという傍目からみるとコントのようなことをもう何回やっただろうか。
仕事にも勿論身が入らなくなった。毎日のように響き渡る命が尽きたことを知らせる電子音を耳にして、気が滅入るどころの騒ぎではなかった。まことしやかに噂を話していた看護師たちもかなり参っているようだった。まとまった休暇を取らせたかったが、職種が職種なだけにそれさえも叶えることができない。
俺も他の人から見るとかなりやつれてしまっているらしい。必要ないのに看護師たちからカウンセリングを勧められてしまっている。
「不知火先生、顔色が悪いですよ。最近の先生は働き過ぎです。一度華染先生のところでカウンセリングを」
「うるさい!まだ危篤状態の患者は山のようにいるんだ!俺が動かないとたくさんの人が死んでしまうんだぞ!俺が…俺が動かないと…」
俺は休んでいる暇はない。ひとつでも多くの命を救わなければいけない。危篤患者の緊急措置を施しながら、俺は誰かの話し声を聞いた気がした。
今日は日曜日だ。日曜日だったはずだ。さっき携帯で確認したらそうだった。起きてからベッドから動けないでいた。また寝て起きたら病院でまたあの音を聞かなきゃいけないのか。それは嫌だ。
ずっと前から天井にぶら下がっている輪を見つめる。こさえてから随分と経ってしまったがその気になっても最後の一歩が踏み出せないでいた。でも、今なら。またあの不吉な音を聞く羽目になるくらいなら、無責任に逃げてしまってもいいのではないだろうか。椅子を近くまで引き寄せて、その上によじ登る。首に輪を通して動きを止める。
そして、思いっきり椅子を蹴り倒した。
「へえ、不知火先生が」
「はい、亡くなる数日前からなんだか様子がおかしくて、先生のところに行くように勧めたんですけど」
「でも彼は来なかった。病院の世界は良くも悪くも結果が全てだから。来ない患者は私にも治せない」
「そう、ですよね。カウンセリング、ありがとうございました」
「はいはーい、何かあったらまたどうぞ」
客人を送って一拍、ふっと息をつく。内科病棟の不知火先生が自ら命を絶ったらしい。なんでも、患者を救うことに固執して最終的には鳴ってもいない心電図の音に怯えていたのだとか。彼の様子がおかしくなる前に、看護師たちの間で紫陽花の怪談の噂をしていたらしいが、確認したところ、やはりただの噂。噂にほんの少し合致した出来事を印象的に覚えすぎて見た幻覚だろう。
「私も病院では視たことないんだよなあ。ただの噂に踊らされて幻覚を見て、自分で首を絞めるなんて」
ホラーでもそんな自己完結的な死に方はしないだろう。
いつも持ち歩いているノートにこの出来事を書き込んでいると、不意に携帯電話の着信音が鳴り響いた。確認してみると、同居人からだ。
『スバル無事に退院したよ。今日は赤飯な。祝い酒って言って酒買って帰ってくるなよ。あいつまだ酒飲めないらしいから。呑めない呑んべえの前でこれ見よがしに呑んだら後ろから刺されて今度は神楽が病院送りになるかもしれないからな』
確かにそんな命知らずなことをしたら今度は私が病院送りだろう。しかし祝い酒は飲みたい。仕方がないからノンアルコールのワインでも買って帰ろう。
帰り道とは少し違う道を歩いて帰ろうとする。ふと、病院を見上げた。夜に見上げた病院は青白く、恨みがましい様子で神楽を見ている、ような気がした。
「あなたの死なんて、そんなものですよ。紫陽花に固執はしないでくださいね」
そうぽつりと呟いて、帰路につく。死の重みを背負って祝いの席に行くのは昨日の今日で縁起が悪い。気持ちを切り替えるように、私は百貨店の地下に降りていった。
病院の怪談 千鶴 @Cthulhu_noir
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