extra episode.3
レイモンドがオルタリス公爵家に養子として引き取られたのは、6歳になって間もない頃のことだ。
レイモンドの父はオルタリス公爵家の遠縁とはいえ、すでに貴族とは認められておらず、一介の役人として働いているだけだった。
それでも一般人よりは裕福に暮らせていたし、爵位を継げずに平民となる者は珍しいことではなかった。
それでもオルタリス家の血筋なのは間違いなく、本家に男児がいないからと養子に望まれることはおかしな話ではなかっただろう。
レイモンドの両親には寝耳に水だったが、息子が貴族の一員となって出世するも同然の話である。
驚いて息子を手放すことを悩んだが、結局は受け入れて、息子に「こんなにありがたい話は他にないんだよ」と言い聞かせて送り出した。
実家を出て、家族と引き離されて、知らないところへ行かなくてはならないという話を、レイモンドはまったく良い話とは思えなかった。
子供らしく嫌だと駄々をこねたが、誰にも聞いてもらえなかった。
それでも自ら迎えに来てくれた義父は優しい人だった。レイモンドの両親と同じ年頃の若き公爵は、娘が二人いるんだよ、双子なんだ、君の妹になるから仲良くしてやってくれ、と言っていた。
大人ばかりじゃないんだと、レイモンドも少し安心したものだ。
公爵家の屋敷に入ると、レイモンドのために世話係や教育係が用意されていて、養子だからと馬鹿にするような者はいなかった。幼いから子供扱いする者がいたくらいである。
義妹たちは義父に似ていなくて、初日にあいさつをしただけで仲良くなれる気がしなかったが、そんなに気にならなかった。
それだけだったらレイモンドは新しい生活に馴染んで、両親に会えないことを寂しく思いながらも楽しく幸せに過ごせただろう。
ただ、義母である公爵夫人だけが、養子に対して憎悪をぶつけて来た。
なぜ憎まれているのか解らなかった。
なぜ顔を合わせるたびに怒鳴られるのか、なぜ怒りのままに叫んで罵られるのか、まったく解らなかった。
レイモンドを望んで迎えたはずの相手に、お前などいなければいいと否定される意味が解らなかった。
レイモンドは嫌だと言ったのに。
来たくて来た訳ではないのに。
部屋で勉強している間は良い。
だが廊下を歩く時は、いつあの怖い人が現れるのかと恐ろしくてびくびくしていた。
庭で剣の稽古をしている間は、いつあの怖い人が窓を開けて叫び出すか解らなくて落ち着かなかった。
食事の時間はずっと当たり散らされて、おいしいはずの料理が喉を通らなかった。
夜はいきなり部屋に押し入って来て怒鳴られて以来、安心して眠れなくなった。
オルタリス公爵家で義母を止められるのは夫の公爵だけだったが、忙しい人なのでアテに出来なかった。
世話係たちは優しく慰めてくれたが、夫人に意見できる者はいなかった。
誰も助けてくれない。
レイモンドに理解できたのは、それくらいのことだけだった。
だからただ帰りたかった。
こんな所にいたら、あの恐ろしい
恐怖で心が
けれどある日、地獄みたいな時間が終わりを迎えた。
義父に呼ばれて書斎に行ったら、いきなり「ごめんね」と謝られたのだ。
「報告は聞いていたし、解っているつもりだったんだけど、君はまだ6歳だったね。そうだよね、あんな強烈なの耐えられないよね……めったにしゃべらないディアンヌに言われたよ。このままだとレイモンドの心が死ぬって」
「ディアンヌ……?」
「うん、ディアンヌ。あのね、近くに別宅があるんだ。いま急いで準備させてる。しばらくは昼間はそちらで過ごすと良いよ。彼女は立ち入り禁止を徹底させるから大丈夫」
ディアンヌって誰?と聞きそうになった。
初日にあいさつをして以来、会っていない義妹の名前だったはずだ。
「そうだ、ちょっと実家に帰る?」
「か、帰っていいの!?──ですか?」
妹のことを聞く前に、ずっと願っていたことをあっさりと提案されて、レイモンドは思わず声を上げていた。
義父が益々申し訳なさそうな表情を浮かべたが、笑って頷いた。
「うん、会いたくなったらいつでもいいよ。同じ王都に住んでいるんだから、甘えたくなったらそうすれば良い」
もう親に甘えるような子供ではない、とは言えないが、レイモンドは声もなく義父を見つめた。
二度と帰れないのだと思っていた。
今生の別れみたいに、泣きながら見送られたせいである。
「でもね、君の新しい身分や立場について学んで理解するようになったら、それがどういう事か考えて欲しい。君のお母さんがなんで泣いていたのか、きっと解るよ」
この時のレイモンドには解らなかった。
そしてこの時のレイモンドには必要な処置だった。
けれどやがてレイモンドも理解することになる。
そういう家の養子になったのだから。
義父の書斎を出て、実家に帰れることをぼんやり考えながら廊下を歩いていたレイモンドは、庭に女の子がいることに気づいた。
「あの子、どっちかな?」
「ええと、ディアンヌ様ですかね?」
側を歩いていた
レイモンドはこの屋敷にいる子供が他にいないから解っただけで、一度しか会っていない妹たちのことはまったく知らなかった。
レイモンドは近くに義母がいないことを入念に確かめてから、庭に出る。
不意にしゃがみこんでいた義妹が立ち上がった。
「我思う。ゆえに我あり!」
義妹が何か、呪文を唱えたように聞こえた。意味はまったく解らなかった。
何それと聞いても、説明も意味不明だった。
哲学だと言っていたから、本でも読んでそれらしく言ってみただけだろうと聞き流すことにしたものだ。
しかし、最初は人見知りしていただけで、大人しい子という訳ではなかったのだろう。
父は忙しくて娘と話す暇がないから、めったにしゃべらないと思い込んでいたに違いない。
レイモンドはディアンヌと話していて、変な子だなとしか思わなかった。
その後、屋敷中に使用人たちが「お嬢様がおかしくなった!」と頭を抱えているのを見て、ようやく異変を知ったのだった。
実家に戻ると「逃げてきちゃったの!?」と心配されたが、レイモンドは両親としばらく過ごして、きちんとオルタリス公爵家に帰ってきた。
いつでも会いに行って良いと言われていたから、心に余裕が生まれたのかもしれない。
翌日からは、義父の宣言通りに別宅で過ごすことになった。
遊ぶ時間は少ないし、勉強以外にも礼儀作法にダンス、剣術、馬術と学ぶことはたくさんあった。
それでも義母がいないと思えば安心できたし、怯える必要がないので集中できた。
なによりディアンヌが毎日ついて来て、いつもの間にかものすごく懐かれていた。
使用人たちは優しくても、他人行儀なことに変わりがない。なのにディアンヌは本当の妹のように甘えて来るのだ。
ものすごく変な子でも懐かれて悪い気はしないし、甘えられると可愛く思えて来る。
側にいて最も気を許せるようになるのに、時間はかからなかった。
「で・き・たー!」
半年ほど過ぎたある日、勉強に付き合うふりをして何かを書いていたディアンヌが突然大声を上げた。教師に怒られて小さくなっていたものだ。
休憩時間になってからレイモンドが尋ねると、ディアンヌは紙の束を掲げて答えた。
「マリィがお母様のようにならないための秘策!『シンデレラ』!」
「マリアンヌ?すでにそっくりだよね?」
「ま、まだ間に合うのっ」
義母そっくりだから近寄らないようにしているレイモンドの目には手遅れに見えたが、ディアンヌはあきらめていないらしい。
「何が書いてあるの?」
「お義兄様も読んでみる?お義兄様がモデルなの」
「私もよろしいでしょうか」
「いーよー!」
休憩しつつも、半年前からおかしくなったと有名なディアンヌの動向が気になるらしい教師が申し出る。ディアンヌはこだわらずに許可していた。
さほど長くはないが、字が汚いので読みにくかった。だが内容は予想外にしっかりしていた。
「……ディー、この
「わかった!?」
「継母にいじめられてる時点で解るよ!」
モデルというから少し期待したのに、全然かっこよくない。自分が義妹に好かれているなんて勘違いだったのか?と思いそうになる。
しかし教師のほうは感嘆の声を上げた。
「マリアンヌ様にこの王子を魅力的だと思わせ、ヒロインのようになりたいと考えるように誘導し、なおかつ継母と双子の妹たちの存在を教訓として示す。素晴らしい出来ですよ!」
「でしょー!?今のマリィはいじわるな妹、大人になったらお母様そっくり!でもそれじゃ駄目なのよ!」
「お義父様と結婚できたみたいだけどな」
「……そこは気づかないふりで!」
貴族には政略結婚とか色々あるので、マリアンヌは大貴族の娘というだけで結婚できるだろう。
だがレイモンドも義母2号になられるより改心して欲しいので、腹立たしい物語に文句を言うのはやめた。
「本物の王子様がいるでしょう?」
「クラウディオ殿下ですね」
「出会って恋をした時に嫌われちゃったらかわいそうだからね!今から準備しておくの!」
クラウディオ王子はディアンヌたちと同じ年齢で、幼いながらも優秀だと評判だ。マリアンヌが王子に恋をする可能性は高い。
ディアンヌにも可能性はあるはずだが、本人にその気は見られなかった。
そうだとしても、可愛い義妹が王子に取られるのは嫌だなと思ってしまった。
「ディーはやさしいね」
だからレイモンドはわざとやさしく言って褒めてやった。ディアンヌが喜ぶことはわかってきているのだ。
思った通りにディアンヌはぱああっと満面の笑みを浮かべて、お義兄様好きー!と抱きついて来た。
いつかディアンヌもお嫁に行くのだろうが、それまではレイモンドが独占していたかった。
〈episode end〉
転生したら、序盤で投げ出した乙女ゲームの世界でした 兼乃木 @kanenogi
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