金魚鉢

加藤

金魚鉢

恋人が死んだ。

朝起きて、私は放置していた下着を身につけると、隣で眠っている恋人に囁いた。

「ねえ、朝よ」

返事はない。

昨日は随分遅かったから。そう思って、私は恋人の髪をそっと撫でる。

「起きて。今日は一緒に過ごすんでしょう?」

それでも眠り続ける恋人。

私は笑いながら、恋人の肩に手を触れた。

今でも生々しく手に残ってる。あの冷たさ。

まるで氷のようだった。人は死ぬとこんなにも冷たくなるのだと、私は呆然とした。

うつ伏せになっている体を仰向けにすると、まさに死人の顔だった。皮膚は蒼白で、唇はひどく不健康な色になっている。

私は恋人の頰を撫でた。あまりに突然だった。

昨日まであんなに元気だったのに。今日は映画を見て、一緒にご飯を作って、散歩に行こうねって、約束していたのに。

私の頰を、涙が伝った。目を見開いたまま、涙が流れ出るままに、拭うことすら出来なかった。

私は強張る体を、恋人の体に押し付ける。そのまま、心臓のところに耳を押し付けた。

何も聞こえない。

下へ下へ、耳を当てていく。どこかが、音を立てないかしら。お願い、お願い。

恋人の体の中はシンとしていた。生きていた時は、複雑な、ひどく込み入った音を立てていたくせに。私のために物音一つ立ててくれない。私は見えない何かに八つ当たりをしたかった。

心臓が握りしめられるような心地を味わいながら、私は徐々に速度を落としつつ、下へ下へと耳を下ろす。

そして、聞こえたのだ。

恋人の性器から、ゴボッ、という音が。

冷静に考えれば幻聴だろう。あるいは、私にはわからない人体の何が煩雑な事情があって音を立てたのかもしれない。けれど、私はそれが恋人の立てた音だと思い込むことにした。

よかった、生きているじゃない。

私は薄く微笑んだ。

恋人は私を愛している。でも今は事情があって話せない。だからこんな音を立てたのね。

けれど、どうしてそんな音なのかしら。

私は音についてじっくり考え込んだ。

そして、思いついた。


この音、金魚の水槽の音じゃないの。


もしかしたら、ここで金魚を飼えばいいのかしら。

金魚鉢になりたいから、こんな姿になったのね。

私はそう思って、庭からノコギリを持ち出してきた。足を切り落とし、上半身を切り落とす。死後硬直の進んだ遺体は固く、相当な力を必要とした。歪な形の性器を取り出し、断ち切りばさみで空間を整えていく。二時間も経つと金魚が一匹入れそうな空間が出来上がった。

私は恋人と縁日で捕まえた金魚を玄関の水槽から取り出すと、水と一緒に性器の中へ入れた。そして、上からラップをかぶせる。

こうして、私の恋人の性器は金魚鉢になった。


最初の日、金魚は随分戸惑っていたようだった。

落ち着きなく泳ぐ方向を変え、金魚鉢から出ようともがいていた。

けれど、次の日から諦めたように大人しくなった。

ただ一点を見つめて、ヒレを左右に動かすだけだった。

そんな様子が三日ほど。

この三日間で金魚は随分衰弱してしまった。身体中に白い点が浮き上がっていた。

そして四日目。金魚は死んでしまった。

横たわるように浮いた金魚は、ピンと貼り付けたラップと水面の間に挟まれていた。


私が殺してしまった。


私が酸素をあげなかったから。餌を与えなかったから。

私は腐敗臭を漂わせ始めた恋人の遺体を抱きしめた。首元の、手の形の痣をそっと撫でる。

この恋人も、私が殺してしまった。


その晩、恋人は私に言った。

「ごめんなさい。別れましょう」

私はそれを聞いて、半狂乱になりながら恋人に喚き立てた。

「どうして、どうして!私の愛が足りなかったの?何が足りなかったのか教えてよ!」

恋人は俯いて、ボソリと言った。

「あなたが、女性だから」

恋人は涙を流していた。心底申し訳なさそうに。心底、心が痛めているかのように。

「男の人のことが好きになったの。その人と付き合うことになったの」

私の方が苦しかった。私の方が辛かった。恋人の歪んだ表情が、その時はこの世で一番醜いものに見えた。

その後の記憶は曖昧だ。

けれど、確かに覚えているのは、私が恋人の首を絞めたこと。

私は恋人の遺体に口付けると携帯電話を取り出した。

「もしもし、警察ですか。恋人を殺しました。恋人を金魚鉢にしました」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金魚鉢 加藤 @katou1024

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ