第34話『陽光を喰らう深淵なる闇』

 魔導法国を覆う最後の砦、魔力によって編まれた強固な結界のすぐ後ろに、魔王は静かに、しかしその全身に張り詰めた緊張感を纏いながら立っていた。


 その傍らには、片時も離れることなく付き従う忠実なる側近、ブルーノとアリスの姿があった。そして、魔王直属の精鋭、四天王より“影”と“炎鬼”が、まるで主君を護る盾のように控え、眼前に迫り来る絶望的な光景を凝視していた。



 結界の向こう側、かつて緑豊かだった森は見る影もなく、ただ白く輝く灼熱の光線が、一直線にこちらへと迫り来る。



 もしあの光線が結界を突破し、この地を蹂躙するような事態となれば、いかに個として最強を誇る彼らであろうとも、抗う術など万に一つも存在しないだろう。それは、燃え盛る太陽そのものに、か細い剣一本で戦いを挑むのに等しい、あまりにも無謀で、そして絶望的な行為であった。



 だが、その場に立つ誰もが、この息も詰まるような絶望的な状況の中で、誰一人として弱音を吐くものはいなかった。彼らの瞳には、恐怖よりもむしろ、この未曾有の危機に立ち向かわんとする、鋼のような決意の光が宿っていた。



「……あの忌まわしき光を、どうにかしてねじ伏せる策はあるか、魔王よ」



 ブルーノは、結界に激しく衝突し、その表面を徐々に侵食していく白光を、目を細めながら見つめていた。本来であれば、直視しただけで眼球が焼き爛れてしまうほどの凄まじい光量だ。



 この強固な結界によって大部分が妨げられているとはいえ、それでもなお、その光は耐え難いほどに眩しい。もし、この光の本当の輝きを、その身で直接知る時が来たならば、ブルーノはもはやこの世に生きてはいないだろう。



「ある。無論だ。この魔導法国が持つ全ての機能、全ての魔力を、限界のその先まで使い尽くすことになるがな」



 魔王は静かに、しかし揺るぎない確信を込めて答えた。



「ふん、さすがは魔王だな。お前があの光をどうにかしてくれるというのであれば、その後の雑魚どもは、この俺が全て片付けてやる」



 ブルーノの口元に、不敵な笑みが浮かんだ。



 魔王とブルーノ、そしてアリスは、目の前の結界を食い入るように見つめる。まるで巨大なガラス細工のような結界の表面には、既に無数の亀裂が走り、そこかしこが蜘蛛の巣のようにひび割れていた。今にも轟音と共に砕け散り、決壊してしまいそうなほど、その状態は危機的であった。



 目の前に迫り来る光の奔流は、その勢いを増すばかりだ。だが、この圧倒的な光から、彼らは決して目を背けることはできない。背けた瞬間に、全てが終わってしまうことを、本能的に理解していたからだ。



 白い光は、かつて生命の息吹に満ちていた森を容赦なく焼き尽くし、一瞬にして黒焦げの灰に変えるほどの、異常なまでの高熱を孕んでいた。陽光砲が通過した直線上の大地は、ドロドロに溶け落ち、まるで地獄のマグマのように赤黒く煮えたぎっている。



 目の前に迫り来る白光は、天に輝く太陽の光と同じ、単純な光のエネルギー。だが、単純な熱による攻撃とはいっても、これだけの圧倒的な熱量である。それはもはや、小さな太陽そのものと戦うのと同じと言っても過言ではなかった。



 陽光砲から放たれる白光は、一向に止む気配を見せず、まるで無限であるかのように、延々とこの地に向けて放たれ続けていた。


「くっ、やはり結界も長くはもたんな……。これほどのエネルギーとは……」


 魔王の額に、一筋の汗が伝う。


「この凄まじき光、いかがしたものかのぅ……」


 四天王の“炎鬼”が、苦渋の表情で呻いた。



 魔王は、永劫に近いとも言える長大な時間を生きている中で、数え切れないほどの局地戦、絶体絶命の窮地を経験してきている。だが、その無数の過去の記憶をどれだけ遡ってみても、太陽そのものと戦う方法など、どこにも見当たらなかった。



 だが、それで諦めるような魔王ではない。彼女の辞書に、絶望という言葉は存在しない。



「“影”よ、全“影”部隊に伝令じゃ。結界を、現在の国全体を覆うドーム型から、陽光砲の射線軸に集中させた複層式の板状結界へと、即刻形状変化させるのじゃ。このままでは、この結界はあと数刻のうちに完全に破壊されるであろう。おぬしの別の“影”たちに、至急対応するように厳命せよ!」



「御意に。直ちに」



 魔王は、四人で一人、一心同体の四つ子の四天王“影”の一人に、鋭く指示を出す。現在、四天王の“影”は、この魔王の側近くで護衛する個体以外は、魔導法国の各要所に配置されている。



 一人は魔導プラントの制御、一人は結界操作室の統括、そしてもう一人は森の中での情報収集と撹乱工作。この特異な四つ子の間では、どれほど距離が離れていようとも、思考と情報を寸分の遅滞もなく伝達することが可能であるため、魔王が出した指示は、瞬時に離れた距離にいる残りの3人の“影”にも正確に伝わるのだ。



「結界操作室の“影”より返答有り、ご報告いたします。『御意に。結界の形状を戦闘中に変更させるような運用は前例がございませんが、必ずや成功させてみせましょう』とのことです」



“影”は淡々と、しかし確かな自信を込めて報告した。



「うむ。頼んだぞ、“影”よ。おぬしたちの双肩に、この国の存亡がかかっておる」



「次に、魔導プラントを制御する“影”に伝えよ。魔導プラントで現在生成されている全魔力を、残らず結界の維持と強化に回すのじゃ。この国の一切の機能が停止しようとも、一向に構わぬ。現在の定格の80%稼働から、一気に150%へと出力を引き上げるのじゃ。炉心が溶融しようとも、構うな!」




「……かしこまりました。ですが、魔力炉が限界を超え、確実に溶け落ち、魔導プラントそのものが永続的に機能しなくなる可能性が極めて高いですが、それでも宜しいのでございますか?」



“影”は、わずかに躊躇の色を見せながら問い返した。



「構わぬ。魔導プラントが二度と使えなくなろうが、そんなものは些事じゃ。明日という日を、我らが再び迎えるためには、まずはあの忌まわしき光を、何としてでも止めねばならぬのじゃ!」



 魔王の言葉に、迷いは一切なかった。



「御意に。その旨、直ちに伝えましょう」



 魔王が発した決死の命令は、“影”を通じて即座に実行に移される。魔王の統治する魔導法国最大の守りである結界の全エネルギーを、ただ目の前の陽光という一点の脅威を排除するためだけに集中させる。まさに乾坤一擲の賭けであった。



 都市全体に隈なく供給されていた魔導プラントの魔力は、その全てが結界の強化のみに用いられることになった。街からは灯りが消え、生活を支える魔導具は沈黙し、国全体が深い静寂に包まれる。そして、ドーム状から複層式の板状の結界への形状変化も、寸でのところで成功した。


「どうやら、本当にギリギリのところで間に合ったようじゃな……」


 魔王が安堵の息を漏らした、まさにその瞬間。



 パリィィィン!! 



 という甲高い破壊音と共に、第一層目の結界が、まるで薄いガラスのように砕け散った。もし、ドーム状から多層式への移行が、ほんの数瞬でも遅れていれば、あの白光は既にこの国の中枢を蹂躙し、全てを焼き尽くしていたことであろう。



 最外層に位置していた一層目の結界は、まるで脆い砂糖菓子のように、バリバリと砕け散り……やがて魔力へと還元され、光の粒子となって消滅していく。



「……残るは、あと9層なのじゃ。この白光の猛威に、残りの結界が耐えきれるかどうかが、この国が再び朝日が拝めるかどうかの、文字通りの分水嶺となるであろう……。魔導プラントの魔力炉も、この無茶な負荷に、なんとか耐えてくれ……!」




 過去幾多の闘いにおいても、このような直接的な物理攻撃によって結界が砕かれたという事例は一度もなかった。だが、魔王はもちろん、それで油断をするような愚か者ではなかった。



 教会が大軍勢を率いて攻め入るということは、何らかの方法でこの難攻不落の結界を破壊する手段を用意しているのであろうということは、容易に推察することができた。




 だからこそ、万が一国内への侵入を許した場合、市街地での熾烈なゲリラ戦になることを想定して、魔王、ブルーノ、そして四天王という、この国の最大戦力を結界のすぐ後ろに待機させ、敵が一歩でも国境線を跨いだ瞬間、躊躇なく広範囲殲滅魔法で焼き尽くす予定だったのである。




(じゃが、まさか……結界を破壊する方法が、このような単純極まる圧倒的な破壊力でゴリ押ししてくるとは、全くの想定外じゃった……。あの忌々しい光の通る軌道上には、多くの教会の軍勢がまだ残っていたはずじゃ。それにも関わらず、このタイミングであの禁断の砲を放つとは……。枢機卿カーディナルという男は、確かに知略に長け、目的のためには手段を問わぬ外道ではあるものの、このような博打にも等しい“奇策”に頼るような男では無いと、妾は分析しておったが……)




 教会の知略に長けた枢機卿カーディナルの思考パターンと、過去のあらゆる事例を徹底的に読み解き、考えられうる全ての不測の事態を想定していたにも関わらず、枢機卿カーディナルが繰り出したこの奇策は、魔王の予測を遥かに上回る、理解不能な動きをした。



(己の頭蓋のなかで思い描いていた完璧な想定とは、全く異なる絶望的な事態が次々と待ち受け、刻一刻とリアルタイムで戦況が絶望的な方向へと変化していく。これが……これが、戦争というものなのじゃな。……書物や記録から過去の記憶を読み解くのと、実際にこの肌身で感じるものは、全くの別物ということじゃな……)




 魔王は、改めて戦というものの不条理さと恐ろしさを痛感していた。



 結界は、適切に魔力を絶やすことなく供給し続けていさえいれば、理論上は破壊されることのない、最強無比の守りの盾となりうるはずだった。



 事実、この10層からなる結界は、その一枚一枚が、千人もの熟練した魔法使いが束になっても、到底作り上げることのできないレベルの、超強力な魔力によって構築された防御壁なのである。



 だが、魔法攻撃とも異なる、あの純粋なエネルギーの塊である真っ白な光による攻撃は、一枚、また一枚と、魔力によって丹念に築き上げられた守りの壁を、無慈悲に破壊していく。



「――結界よ。あともう少しだけ、ほんの少しだけで良い。耐えるのじゃ……!」



 魔王が悲痛な祈りを捧げた、その時だった。結界の前に、いつの間にか一つの人影が立っていた。それは、四天王の一人、普段は人前に姿を現すことのない、謎多き“隠者”であった。


「ごめん、魔王ちゃん。ちょっと遅れちゃったにへ」


 眠たげな眼をこすりながら、“隠者”は悪びれる様子もなく言った。



「おぬしは……“隠者”か……。いや、構わぬ。この絶体絶命の場にわざわざ来たということは、何らかの策があるということなのだろう。思う存分、己が信じる力を、この場で示してみせよ」



 魔王は、“隠者”の瞳の奥に宿る、尋常ならざる覚悟の色を読み取っていた。



「うん、任せるにへっ!」



“隠者”は、いつもの眠そうな表情からは想像もつかないほど力強く頷いた。



 大見得を切ってそう言ってはみたものの、この“隠者”自身にも、確たる勝算があったわけではなかった。ただ、己の命そのものを燃え盛る薪として使い切れば、ほんの僅かばかりの、蜘蛛の糸のような細い可能性があるかもしれない。そう直感し、この絶望的な戦場へとやって来たのだ。



 普段の彼女は、魔王にも、そしてこの魔王城にも滅多に近寄ろうとせず、ただ一人、薄暗い自室に引き篭もって怪しげな研究に没頭するのみであり、これまで何らかの具体的な成果をあげたという事例は、寡聞にして知らない。まさに“隠者”の名が示す通り、世俗との関わりを絶ち、ひたすらに魔術の深淵を研究するだけの、孤高の存在であった。



 遥か太古の昔、高度な科学技術と強力なアーティファクトを有していた旧人類は、その傲慢さゆえに自滅し、歴史の闇へと滅び去った。そして、かわって魔法を使う新人類が、この世界の新たな支配者となった。



 その“隠者”が、生涯をかけて探究しているもの。それこそが、現代ではほぼ失われてしまった“原初の魔法”と呼ばれる、禁断の魔術体系であった。



“原初の魔法”は、現代魔法の主流である、呪文の詠唱を必要としない無詠唱魔法とは、その根本から一線を画する。発動には長く複雑な詠唱を必要とし、その実用性に乏しいということから、歴史の流れの中で徐々に廃れていった、忘れ去られし古の魔法である。



 事実として、長大な詠唱を必要とする“原初の魔法”は、魔法の名前ショートカット・キーをただ口ずさむだけで、即座に発動することができ、極めて感覚的に使うことができる、無詠唱の“現代魔法”と比較すると、発動までに要する時間が圧倒的に長く、その汎用性にも著しく乏しい。



 また、最大の問題点は、この“原初の魔法”を発動するためには、常人には到底理解し得ない、膨大な魔術に対する深遠な知識と、その本質に対する完璧な理解が必要とされることだ。



 この禁断の魔術を分析し、その複雑怪奇な構造を解体し、そしてその真理を理解しようという試みは、口で言うほど簡単な事ではない。



 過去の永い歴史においても、彼女のように魔法の真理を追い求め、魔術の理屈を解き明かそうと試みた求道者たちは大勢いた。だが、その全ての者たちが、例外なく研究の途上で精神に異常をきたし、狂気に囚われ、哀れな廃人となったと伝えられている。“原初の魔法”を理解しようという試みは、つまりはそういう、人の領域を超えた危険な行為なのだ。



 詠唱式の魔法は、その術式を発動するために、まずはその術式が持つ真の意味を、魂のレベルで理解する必要がある。感覚ではなく、その魔法が魔法として成立するための論理構造を、寸分の狂いもなく理解しなければ使うことができない。この世界で、そしてこの時代において、それが可能なのは、ただ一人、四天王の“隠者”をおいて他に存在しなかった。



 無詠唱の現代魔法は、術者自身の体内に宿る生命力を魔力へと変換し、その魔力の塊を魔法の名前ショートカット・キーという、あらかじめ定められたイメージによって形造ることで発動させるものである。極めて感覚的に使えるため、専門的な知識を持たない平民ですら容易に扱えるほどに普及した。



 一方で、複雑な詠唱が必要とされる“原初の魔法”の発動には、多くの、そして極めて困難なものが要求される。まずは、その術式が持つ真の意味での、完璧にして完全な理解。次に、その魔法をこの世界に顕現させるための触媒となる、古の魔導書や聖なるタリスマンといった媒介物。



“原初の魔法”は、術者自身の生命力を魔力に変換させた物を、直接相手にぶつけるという単純なものではない。魔導書などの触媒を介して、術者自身の魂そのものを供物として捧げることで、この世界の理の外に存在する禁書庫ネクロノミコンと呼ばれる異次元の知識貯蔵庫から、強大な魔法の力を召喚し、行使するのである。



 一言で言うならば、それは“自らの命を代償にして、人知を超えた魔法を召喚する”という、極めて危険な行為に近い。そのような、使用者の命すら保証されない危険極まりないものが、広く一般に普及するはずもなかった。だからこそ、この世界でも“隠者”ただ一人を残して、歴史の闇へと消え去る運命だった、禁断の魔法なのである。



 ――だが、それでもやはり、この絶望的な状況を打破するためには、“原初の魔法”への探究は必要であったのだ。



 アーティファクトの力をもってしても対抗することができず、旧人類が真に恐れ、そしてその結果として滅び去る遠因となった、古の魔法が、今まさに、この四天王の“隠者”によって、数千年の時を超えて再現されようとしていた。これは、あるいは、旧人類の終焉の日の、小規模ながらも決定的な再現と言っても良いのかもしれない。



「ふぅ……本の虫で引きこもりのボクなんかが……こんな風にみんなから必要とされる事態がくるなんて、人生というのは全くわからないものにへ。本当は、ボクはこういう面倒事には一切関わりたくないたちなんだけど、もしこの国が燃やされちゃったら、ボクが長年かけて築き上げてきた大切な研究も、これから到達するはずだった魔法の真理に至るための輝かしい道も、全てが灰燼に帰して閉ざされちゃう。そういうわけには、さすがにいかそうにへねぇ」



 眠そうな顔をした小柄な少女は、どこからともなく取り出した分厚く古めかしい魔導書をおもむろに開いた。そのページには、人には読めないはずの奇妙な文字や図形がびっしりと書き込まれている。



「いまからはじめるにへ。死にたく無ければ、ボクからできるだけ距離を取ることを、強く進めるにへ」



“隠者”は、魔導書を片手に、静かに、しかし厳かに詠唱を開始する。その魔導書は、あくまでも異次元に存在する“魔導書の原典”に至るための触媒であり、彼女がそのページに書かれた文字を読み上げているわけではない。彼女の唇から紡がれるのは、この世界の言語ではない、古の力を持つ言葉だった。



全制限を解除リミッター・オミット

 バベルの図書館のアカシック・ライブラリ、その最深部に眠る

 原典の魔導書へネクロノミコン

 我が魂をもって、強制接続フル・コネクト

 権限レベル強制上書きオーバー・ライド――完了コンプリート、確認。

 禁忌術の詠唱術式キャスト・コマンド・アビス――読了ダウンロード、完了。

 術式の読み上げを開始するイニシエイト・コマンド――この魔法の代償は、ボクの命、その全てにへ」



 ***************

 闇夜の帳に蠢く、昏き叡智よ

 全ての生命、全ての光を怨嗟し、憎悪する者よ

 我は其の禁断の名を、軽々しく口にする事すら許されず

 ただ其の深淵なる影の一端を知る、か弱きもの也

 我が儚き命を喰らいて、この地に咲き誇れ

 終焉ジ・エンド深淵アビス

 ****************



“隠者”が、その命を振り絞るかのような詠唱を終えると同時に、彼女の眼前に、闇とも黒とも異なる、全てを吸い込むかのような絶対的な黒洞ブラックホールが、突如として出現した。この異質な闇は、単なる色の欠如ではない。明確な意志を持った、飢えた闇であった。



 その魔法の外観は、ただの黒い球体に過ぎないにも関わらず、その球体そのものが、この世の全ての生と、全ての光を激しく憎悪している事が、魔力に対する適正など全くないはずのブルーノにすら、痛いほど明確に分かった。



 ――否。ブルーノがそれを理解できたのは、あるいは、下位の存在が上位の捕食者に対して抱く、本能的なまでの畏怖の念によるものだったのかもしれない。



 その暗黒の球体は、知性こそ持たないものの、常に飢えている。一度この世界に召喚されてしまえば、周囲の光を、そして生命の息吹そのものを、際限なく貪り喰らう。深淵の名をその身に冠する、禁断中の禁呪。



 それはもはや魔法というよりも、異界からの恐るべき捕食者の召喚に近い行為であったのかもしれない。



「はぁ……はぁ……なんとか、成功した、にへぇ……。あとは、頼んだよ、深淵アビスちゃん……」



“隠者”の顔からは血の気が失せ、その場に崩れ落ちそうになるのを、かろうじて気力だけで支えていた。



 陽光砲は、ついに最後の砦であった10枚目の結界をも無慈悲に破壊した。だが、その10枚目の壁の向こうに待ち受けていたのは、希望の光などではない。全てを飲み込む黒洞ブラックホールのような、禍々しい黒色の球体であった。




 まるで意志を持った獰猛な肉食獣のように、召喚された深淵アビスは、眼前に迫る陽光の奔流を、その黒き巨体で覆い尽くす。そして、その光を、その熱量を、まるで地獄の底から這い出してきた餓鬼のように、凄まじい勢いで貪り喰らい始めた。



 客観的な光景としては、ただ陽光が黒い球体に吸い込まれているだけなのだが、ブルーノの鋭敏な感覚には、それが巨大な肉食獣が、必死に抵抗する獲物を捕食しているおぞましい光景のように見えていた。



 そして、ブルーノのその直感は、そう大きく間違ったものではなかった。



「はぁ……にへ……。深淵アビスちゃんは、絶対に負けないはずなのに……ボクの、命の火が……もう、持ちそうに無いにへ……。この子は……とんでもない暴食家さんにへ……。ボク一人の生命力を、全部贄として捧げれば、きっと大丈夫だと思ってたんだけど……ちょっと、甘かったみたいにへ……」




“隠者”の声は、か細く途切れがちだった。


「ならば、俺の生命力を使え。遠慮はいらん」


 ブルーノが、“隠者”に向かって、力強く言い放った。


「キミ……ブルーノくん……。泣かせること言ってくれるね……。ボクと、ここで一緒に心中してくれるっていう訳にへ……?」


“隠者”は、消え入りそうな声で、しかしどこか嬉しそうに言った。


「アリスの前で、俺は絶対に死なない。殺す気で、俺の生命力を根こそぎ奪い取れ、“隠者”」


 ブルーノは、隣に立つアリスの瞳を真っ直ぐに見つめ、そう言い切った。彼の隣に、ただ黙って一緒にいてくれるだけの、か弱いはずの少女。



 だが、それこそが、今のブルーノに無尽蔵の力をもたらす源泉であった。それは、心を燃やし、魂を焦がす、不屈の意志の力。彼が決意を込めて発した言葉は、万鈞の重みを持っていた。


「……分かった、にへ。彼女さんも、ブルーノくんが死んでも、ボクのこと、絶対に恨まないでね」


“隠者”は、アリスに向かって、申し訳なさそうに言った。


「大丈夫よ。ブルーノは、絶対に死なないわ。だって、私と固く約束したんですもの」


 アリスは、揺るぎない信頼を込めた瞳で、力強く頷いた。


「――アリスとの約束は、必ず守る。今の俺は、不死身だ」



 ブルーノの言葉に、一片の迷いもなかった。



“隠者”は、そのブルーノの言葉に、どこか青臭い、若者特有の虚勢のようなものを感じていた。生命力を供給するといっても、所詮は人間一人分の、たかが知れた量だ。


 ブルーノの隣にいるアリスという少女には心底申し訳ないが、このブルーノという心優しき男には、ここで自分と共に心中してもらう事になるだろう。その避けられない厳然たる事実を、彼女は心の中で静かに侘びていた。



 そうでもしなければ、この国も、大切な仲間たちも、そして自らの研究も、何もかも守ることなどできないのだから。



“隠者”は、小さな声で最後の詠唱を紡ぐと、ブルーノと“隠者”、二人の間に、淡い光を放つ魔力経路パスが繋がり、ブルーノの生命力が凄まじい勢いで“隠者”へと流れ込み始めた。



「……な、なに、これ……。キミの、生命の器は……まるで広大すぎて、その先が全く見えない……。どこまでも、真っ白……。ブルーノくん、キミのその生命力の底が、全く見えない……にへぇ……。キミは一体、どこでこれだけの膨大な生命力を……いや、今はそんなことどうでもいい! 遠慮なく、お命、頂戴するにへっ!」

“隠者”の眼が、驚愕に見開かれた。



 ブルーノから供給された、常人とは比較にならないほど膨大な生命力を魔力へと変換することで、顕現した深淵アビスの大きさは、瞬く間に10倍近くにまで肥大化した。それはもはや、ただ白光を吸い込むだけの黒い球体ではない。周囲の空間そのものを歪ませ、禍々しいオーラを放ちながら、陽光のエネルギーを積極的に侵食し、喰らい尽くしていく、まさしく深淵の捕食者であった。



「いくにへぇぇぇぇっ!! その忌まわしき光を、喰らい尽くせ! 深淵アビスちゃぁぁぁんっ!!」



“隠者”の絶叫が、戦場に木霊した。“隠者”の意志に応えるかのように、肥大化した深淵アビスは、陽光砲から放たれた太陽光のエネルギーの全てを、一滴残らず完全に食い尽くした。



 そして、灼熱の陽光と、ブルーノの規格外の生命力を心ゆくまで貪り食らった深淵アビスは、まるで最初からそこに存在などしていなかったかのように、音もなく静かに消滅した。



「ふぅ……。本当に、ギリギリだった、にへ……。ごめんね、魔王ちゃん……ブルーノくん……。ボクは、ここでこの闘いからは、リタイアさせてもらうよ……。ボクの中の生命力は、もうスッカンピンにへ……。あとは……任せたよ、魔王ちゃん――そして、ただの木こりの、ブルーノくん……」



 そう言い残すと、“隠者”は糸が切れた人形のように意識を失い、その場に静かに倒れ伏した。アリスが慌てて駆け寄り、その小さな体を抱きとめる。




 陽光砲を巡る絶望的な攻防は、辛うじて魔導法国側の勝利に終わった。

 ――だが、ブルーノは、この局地戦の辛勝に、安堵の息を漏らすことはなかった。彼の鋭い視線が見据えるのは、陽光が通った灼熱の射線状の、その遥か先。




 マグマのように赤黒く溶け、未だに高熱を放ち燃え盛る、一直線の絶望の道。その道を、まるで王侯貴族が深紅のカーペットの上を優雅に散策でもするかのように、ゆっくりと、しかし確実にこちらへと近づいてくる、忌まわしき金髪の男の姿が、そこにはあった。



 決着の時は、すぐそこまで迫っている。

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