第30話『地獄の始まり』

 魔導プラントにおける教会のテロ計画を未然に防いでから、勇者クルスを擁する教会の本隊が、この魔導法国の国境付近に姿を現すまでに、それほど多くの時間はかからなかった。



 まるで、こちらの準備が整うのを待っていたかのような、あるいは、こちらの動きを完全に読み切っていたかのような、不気味なまでの迅速さだった。



 教会の命に背き、結果として魔導法国を救う形となった魔王四天王、巨腕の炎鬼の処遇については、ひとまず棚上げとされた。



 魔王の温情か、あるいは来るべき決戦を前に内輪揉めを避けるための政治的判断か、その真意は定かではない。



 ただ、炎鬼自身は、その罪を償うかのように、防衛戦線の最前線に立つことを自ら志願したと聞く。その背中には、国と家族を守るという、悲壮なまでの覚悟が滲んでいた。



「いよいよ決戦の時が来たようじゃな……」



 玉座の間、魔王は眼下に広がる魔導法国の森の、そのさらに奥深く、国境線に沿って展開する教会の圧倒的な軍勢を、魔法で映し出した水晶玉を通して見つめながら、重々しく呟いた。




「ただの一組織が、一国の正規軍に匹敵する、いや、それ以上の兵力を有しておるとはのう……。奴らの底知れぬ執念と、周到な準備には、さすがに戦慄を覚えるわ」



 教会は、王都の中央神殿を総本山とするだけでなく、大陸各地の主要都市に支部を持ち、その影響力は広範囲に及んでいる。


 しかし、その正確な信徒の数や、有事の際に動員可能な戦闘員の総数については、巧妙に秘匿されており、魔導法国の諜報機関をもってしても、その全貌を掴むことはできていなかった。



 今、眼前に展開するその軍勢の規模は、魔導法国側の予想を遥かに上回るものだった。



 魔王の額には、じっとりと脂汗が滲み、その小さな手が玉座の肘掛けを強く握りしめているのが見て取れた。その兵力は、王都の正規軍すら凌駕しているかもしれない。



 さらに厄介なことに、教会が指揮するのは、単なる訓練された兵士の集団ではない。



 魔王ですらその全てを把握しきれていない、多数の強力な戦闘用アーティファクトを保有し、そして何よりも、切り札としてあの神託の勇者クルスを擁しているのだ。



 純粋な破壊力、人を殺傷するという一点においては、教会は魔導法国よりも一枚も二枚も上手なのかもしれない。その事実が、玉座の間に重苦しい沈黙をもたらしていた。




「結界に魔力を供給するための重要拠点、魔導プラントへの爆破テロを、おぬし、ブルーノの活躍によって未然に防ぐことができたのは、我々にとってまさに僥倖であった。あのプラントが破壊されていれば、この国は兵数に物を言わせる教会の軍勢によって、赤子の手をひねるように蹂躙されておったことじゃろう。改めて礼を言うぞ、ブルーノ。おぬしには、国を救われたと言っても過言ではない」




「――だが、奴らはその魔導プラントが無事であるという事実を知った上で、なおも全軍を率いて、こうして攻め込んできた」



 俺は、魔王の感謝の言葉を遮るように、冷静に事実を指摘する。



「そうじゃな……。我らの知らぬ、何か別の方法で、この魔導法国の誇る鉄壁の結界を無力化する手段を持っている可能性が高い。そう考えた方が、今は建設的じゃろう。おそらくは……何か、強力な結界破壊用のアーティファクトを温存しているに違いない」



 魔導プラントの破壊工作が失敗したという情報は、当然、教会の本隊にも伝わっているはずだ。


 それが教会側にとって作戦遂行上、致命的な痛手だったのであれば、彼らは予定通り進軍してくるのではなく、一度兵を引き、時期を改めるなり、別の作戦を練り直すなりしたはずだ。



 だが、奴らは寸分の迷いも見せず、まるで勝利を確信しているかのように、大軍勢を率いて攻め込んできた。



 それはつまり、魔導プラントの破壊以外にも、この国の結界を打ち破るための、何らかの奥の手を隠し持っているということに他ならない。



 その確信が、魔王の表情をさらに険しいものへと変えていた。



「じゃが……この我が統治する魔導法国の地にたどり着くまでには、あの鬱蒼と茂る広大な森の中に巣食う、数多の凶暴なモンスターの群れを突破しながら進まねばならぬはずじゃ。血肉に飢えた獰猛なモンスターの群れを蹴散らし、この城壁の前まで無事に辿り着けるものが、果たしてどれほどいるものかのぅ」




 魔王は、わずかな希望的観測を込めてそう言ったが、その声には確信が伴っていなかった。


「…………」



 俺は黙って、水晶玉に映し出される森の様子を見つめる。



 教会の先遣隊と思われる部隊が、魔導法国の領土である広大な森林地帯へと、ついに侵入を開始した。この魔導法国の森は、古来より天然の城塞として機能してきた。



 魔導法国が、過去幾度となく繰り返されてきた戦乱の歴史において、一度として他国に攻め滅ぼされたことがないのは、この森の存在ればこそだと言われている。



 その第一の守りは、言うまでもなく、森の奥深くに無数にひしめき合う、凶暴極まりないモンスターたちの存在だ。



 森に一歩足を踏み入れれば、そこは弱肉強食の掟が支配する、まさしく魔境。そして、仮にそのモンスターたちの牙を掻い潜り、森を抜けるほどの屈強な猛者であったとしても、その先には、国全体を覆う強力な魔力結界が待ち受けており、侵入者の歩みを完全に阻む。



 魔導法国が、建国以来一度も敗北を知らない所以は、この二重の鉄壁の守りによるところが大きいのだ。  




「森に進軍中の敵軍の様子を偵察中の"影"より報告あり! ……奴らは、森のモンスターとは一切交戦することなく、そのまま森をまっすぐに突っ切ってこちらへ向かってきます! 何らかの手段により、森の凶暴なモンスターたちは、彼らを敵とは認識できていない模様です!」




 玉座の間に、斥候に出ていた四天王"影"の一人から、緊迫した声での報告が届いた。



「ぬぅぅ……やはり、我らの知らぬアーティファクトを使用しているということか……! このまま森を容易く抜けられるとなると、天然の要害としての森の機能は完全に不発じゃ……。最後の頼みは、あの結界のみということになるわけじゃな……」



 森のモンスターたちによる迎撃を期待していた魔王は、その報告を聞き、苦々しげに顔を歪め、思わずといった体で頭を抱えた。



 教会の連中は、モンスターの認識を欺瞞し、やり過ごすための特殊なアーティファクトまでも保有していたというのか。その用意周到さと、保有するアーティファクトの種類の豊富さに、魔王は改めて戦慄を覚えていた。




「大丈夫だ」




 俺は、静かに、しかし確信を込めて言った。



「おぬしは、何を根拠にそう思うのじゃ? あの森を突破されれば、残るは結界のみ。その結界すら破られた場合、この国の民に甚大な被害が及ぶことになるのじゃぞ」



 魔王は、俺の落ち着き払った態度に、訝しげな視線を向ける。




「奴等が、森に対して一切の敬意を払うことなく土足で踏み入ったことを、この森の神々は、きっと激しく怒っているはずだ」




「森の神……じゃと?」




 魔王は、俺の言葉の意味を測りかねるといった表情で、首を傾げた。





「……奴らは、森を怒らせた。この俺ですら、心の底から畏れる森の神々を怒らせて……生きてこの森を抜けられるほど、この魔導法国の森は、決して優しくはない。森において本当に恐ろしいのは、そこに生息するモンスターなどではない……。その本当の意味を、この森に敬意なく立ち入った愚かな者たちは、その身をもって知ることになるだろう」




 それ以上の説明は、俺は魔王にはしなかった。ただ、水晶玉に映し出される、教会の軍勢が森の奥深くへと進軍していく様子を、静かに見守るだけだった。




 魔王は、俺の言葉の真意を掴みかねているのか、不安と焦りの入り混じった表情で、"影"から次々と寄せられる戦況報告に、ただ集中していた。



 着々と、しかし確実に魔導法国の心臓部へと攻め寄せてくる、おびただしい数の人間の波。その光景に、魔王の額には、再び脂汗がじっとりと滲み始めていた。  



 木こりという職業の者は、一般的には粗野な者が多く、神に対する敬虔な信仰心とは無縁であると思われがちだ。



 だが、俺たち木こりが、森の神々を深く敬い、畏れるのには、明確な理由がある。森の神々を怒らせた時、一体どのような恐ろしい地獄を経験することになるのかということを、俺たちは、経験則として、あるいは先人たちの言い伝えとして、知っているからだ。



 そして、今まさに、魔導法国の森の奥深くへと進軍してきた教会の愚かな大軍勢は、森の神々を怒らせることの本当の恐ろしさを、その身をもって、骨の髄まで思い知らされることになるだろう。



 それは、もはや戦いですらない、一方的な蹂虙。




 地獄の釜が開くのは、もう間もなくだ。

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