第13話『遺跡にあらわれた勇者一行』

 遺跡の奥深く、荘厳な静寂と古代の息吹に満たたされた部屋でアリスが自らの過去と向き合った後、俺、アリス、そして聖剣の試練の場にいたおじさんの三人は、再び陽の光が差し込む外界へと足を踏み出した。


 ひんやりとした遺跡内の空気とは対照的に、外の空気は森の木々が発する生命力に満ちた匂いと、微かに土の香りを運んでくる。


 太陽はやや西に傾き始め、長く伸びた影が俺たちの行く先を暗示しているかのようだった。アリスは、先程までの衝撃的な映像の余韻からか、まだどこか放心したような面持ちで、それでも俺の手をしっかりと握っている。


 その小さな手の温もりが、今の彼女の心の支えであることを感じ、俺はそっと握り返した。


(アリス……お前の過去がどれほど重いものだったとしても、俺がお前を支える。必ずだ)


 そんな決意を胸に刻んだ、まさにその時だった。


「おい、奇遇だな。ブルーノ。おまえたちはここで何をしているんだ?」


 前方から、聞きたくもない、うんざりするほど聞き慣れた声が響いた。その声の主は、神託の勇者クルス。


 彼の傍らには、以前の決闘の際にも見かけた取り巻きの女騎士たち――王族の血を引くという姫騎士エリアル、ハイ・エルフの魔術師リーファ、そして英雄の血を引くとされる女騎士フレイヤの三人が、まるで彼を飾る装飾品のように控えている。



 彼女たちの装備は、旅を続けてきた俺たちとは対照的に、汚れ一つなく磨き上げられており、クルスの傲慢さを一層引き立てているようだった。


 クルスの声には、以前にも増して鼻につく傲慢さが滲み出ており、その目は俺たちを、特にアリスを値踏みするような、不快な光を宿していた。こんな辺鄙な遺跡で出くわすとは、こいつらも何かアーティファクトの類でも探しているのだろうか。


 エリアルは俺たちを一瞥すると、その美しい顔に僅かな緊張を走らせ、リーファは相変わらず感情の読めない瞳でこちらを観察するように見つめ、フレイヤは腕を組み、その視線は一瞬だけ俺に向けられた後、すぐに逸らされた。


 おじさんは、やれやれと言った風に小さくため息をつき、そっと俺たちの後ろに下がった。


(またこいつか……。アリスがようやく少し落ち着いたというのに。だが、もう二度とアリスをこいつの好きにはさせない。この手で必ず守り抜く)


 俺の隣で、アリスの体が微かに強張るのを感じた。彼女の脳裏には、王都での屈辱的な記憶が蘇っているのかもしれない。だが、その瞳の奥には、以前にはなかった強い意志の光が宿っているようにも見えた。


(クルス……!どうしてこの人がここに……。また、あの時のように……?いいえ、もう俯いてばかりはいられない。ブルーノが隣にいる。私は……亡国の姫、アリスなのだから)


「観光だ」


 俺は、アリスを庇うように一歩前に出て、簡潔に答えた。クルスの挑発に乗る必要はない。今はアリスを刺激しないことが最優先だ。


「はぁ……観光? まったく、責任も使命も期待もされていない平民はのんきで羨ましいよ。神託の勇者の僕はねぇ、木こりと違っていまも忙しく世界を救うためにわざわざこんな辺境の地にまできているのさぁ。こんなところでバカンスとは。木こりっていうのは気楽なご身分ですねぇ」


 クルスは、肩をすくめ、大げさなため息と共に、どこまでも俺たちを見下した言葉を吐き続ける。その一挙手一投足が、計算されたように芝居がかっている。


「そうか。じゃあな」


 これ以上関わるのは時間の無駄だ。俺はアリスの手を引き、その場を立ち去ろうとした。しかし、クルスがそれを許すはずもなかった。


「おい……待てよッ!! ブルーノ……おまえ、僕に対して一体何をしたのか忘れたのか? えぇ?! 忘れたとはいわせないぞ! 木こりぃ」


 クルスの声には、抑えきれない苛立ちと、過去の敗北による屈辱が、まるで腐臭のように混じり合っていた。彼の額には青筋が浮かび、その整った顔が醜く歪んでいる。


「決闘を求められ、受け入れた。それがどうした」


 俺は、静かに、しかし揺るがない声で返した。


「お前さあ……なんか勘違いしているんじゃない? もしかしてあんなお遊戯で僕に勝ったとか勘違いしてウキウキ気分で観光しているんじゃないかなぁ? 困るよぉ……あれは平民を楽しませるためのショーだったんだからさぁ。


 もしかしてあのショーで僕よりもキミの方が強いと勘違いしちゃった? あっはははははは」


 クルスは、腹を抱えんばかりに高笑いを始めた。その甲高い笑い声が、静かな遺跡の入り口に不快に響き渡る。ショー? 平民を楽しませるため? あの時、アリスの心を無残に踏みにじり、俺の堪忍袋の緒を切った、あの醜悪なやり取りが、こいつにとってはただの「お遊戯」だったというのか。




(こいつは何も学んでいない。勇者の肩書が、その腐った根性をさらに増長させただけか。アリスの前で、これ以上好き勝手な口を叩かせるわけにはいかない)


 アリスは俯き、その肩が小さく震えている。クルスの言葉が、彼女の心の傷を抉っているのは明らかだった。


(ショー…?あの時の私の気持ちを、この人はそんな風にしか…。でも、今の私には、この人の言葉が空虚に聞こえる。ブルーノの強さは、こんな見せかけのものではない)


 クルスの取り巻きの女騎士たちも、その高笑いにはどこか白けた表情を浮かべていた。エリアルはそっと視線を逸らし、リーファはつまらなそうに爪を眺め、フレイヤは眉間に僅かな皺を寄せている。彼女たちも、クルスのこの見苦しい自己正当化には辟易しているのかもしれない。


「――」


 俺は、クルスの言葉に何も返さない。返す価値もない。


「おい……何か言えよ、木こり。お前、神託の……特別な……選ばれた勇者のこの僕が手加減して木こりと遊んでやったら調子づいて、僕に怪我を負わせたよな。お前のせいで僕が怪我を負ってレベル上げに一週間も遅れが出たんだぞ。この責任どうやってつけるつもりだ? おい?! 何か言えよ、木こり!!!」


 クルスは、俺の沈黙にさらに苛立ちを募らせ、金切り声を上げる。その顔は怒りで赤黒く変色し、まるで癇癪を起こした子供のようだ。一週間もレベル上げが遅れた? あの決闘で、仲間からの強化魔法まで使っておきながら、この言い草か。


「元気そうだな。後遺症が残らなかったようで何よりだ」


 俺のその言葉は、乾いた声で、しかし明確な皮肉を込めて放たれた。クルスの顔が、さらに苦々しく歪む。


「んだと。平民の分際で僕に対して生意気なんだよ。いつまでも僕が平民だった頃みたいに年上ヅラしているんじゃねぇ。あのときの僕と、今の僕じゃあまったくの別物なんだよ。この僕は教会に選ばれた神託の勇者だ。その僕の貴重な一週間を奪った罪、万死に値する」


 勇者という称号が、彼をここまで増長させるのか。その言葉の裏には、己の非を一切認めようとしない、矮小な人間性が透けて見える。


「そうか」


 俺は、ただそれだけを返した。クルスの言葉遊びに付き合う気は毛頭ない。


「あとさぁ……お前が手を握っているそのブスは僕の女なんだよねぇ。神託の勇者に無礼を働くは、人の物を盗み取るは……本当に盗っ人猛々しい木こりだよ。お前は」


「ブス」「僕の女」「盗み取る」――その言葉の刃が、アリスだけでなく、俺の心にも深く突き刺さった。アリスの体が、俺の手の中で氷のように冷たくなり、小さく震えるのが分かった。


「アリスはお前の物ではない」


 俺の声は、自分でも驚くほど低く、地を這うような響きを帯びていた。その言葉を聞くや否や、クルスは待っていたとばかりに醜悪な笑みを浮かべ、胸ポケットから一枚の古びた紙片を取り出した。それを見た瞬間、アリスの顔からサッと血の気が引き、その瞳から光が消え失せていくのが分かった。


「いいや……違うね。そのブスは間違いなく、僕の物だ。今からその証拠を見せてやるよ。そのブスは身のほど知らずにも僕に恋文なんて書いていたんだぜ? 幼馴染という特別なポジションを利用して平民の分際で分不相応にもほどがあるよ。


 その恋文の内容がさぁ、あまりにも面白かったんで僕の仲間たちに恋文の内容を何度も朗読してやったもんだよ。本当にあの恋文は傑作だった。すっげー笑えるんだよ」


 アリスは、もはや何の表情も浮かべず、ただ虚ろに地面の一点を見つめている。その姿は、まるで魂が抜け落ちてしまったかのようだった。俺の腹の底で、マグマのような怒りが沸騰し、今にも噴火しそうになるのを必死で抑え込む。


(クルス……貴様……。アリスの心を、ここまで弄ぶとは……。万死に値する。いや、死など生ぬるい)


 クルスは、勝ち誇ったようにその手紙を高々と掲げ、ねっとりとした、しかしどこか芝居がかった声で朗読を始めた。


「じゃあさ、人の女を盗んだ木こりには特別に僕が朗読してあげるよ。『クルスくんお元気ですか。突然のお手紙申し訳ございません。もし神様の祝祭の日の午前にご都合のよいお時間がございましたら、王都の公園に咲いた満開の花を見にいきませんでしょうか。』ときたもんだ……書いてる内容も貧乏くさっくてさぁ笑っちまったよ。本当に貧乏人の平民って感じでウケるよ! あははははっ!」


 クルスは、わざとらしい女性のような裏声を使い、おどけた仕草を交えながら、アリスが心を込めて書いたであろう手紙を嘲笑の対象に変えていく。


 その下卑た声と態度は、アリスの純粋な想いを汚泥で塗りたくるような、許しがたい冒涜だった。


 エリアルは苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向き、リーファは眉をひそめ、フレイヤはギリッと奥歯を噛み締めているのが見て取れた。彼女たちも、クルスのこの常軌を逸した卑劣な行為には、内心思うところがあるのだろう。だが、それを止めることはない。


(これは……勇者様のなさることではない。あまりにも……卑劣だ。だが、逆らえば……)エリアルの内心の葛藤が、その硬直した表情に現れていた。


「だいたいさぁ、神に選ばれたこの僕が、そこらに咲いている公園の雑草なんて見に行くわけないじゃん。僕はさぁ……忙しいんだよ。雑草を見ている時間なんてないんだよ。それにさぁ、普通はさぁ、こういうのって美術館とか、劇場とかさぁ……そういうところに誘うべきだろう?」


 クルスの言葉は、どこまでも自己中心的で、人の心の機微など微塵も理解していない。アリスが、どれほどの勇気を振り絞り、どれほどの期待を込めてあの手紙を書いたのか、こいつには永遠に分かるまい。


「これだから貧乏くさい平民は嫌なんだよ。それにしてもさぁ……いやぁ、今思い出しても最高に傑作だった。特に面白かったのはさぁ……そのブス、当日の早朝から弁当のバスケットを腕にぶら下げて待ち合わせ場所に来てやがんの。そんでさぁ、あのブスを見ていたらさぁ、通り過ぎる人間を僕だと勘違いしてキョロキョロと周りを見てやがんの。しかも夕方までね。あの時のブスの顔を思い出すだけで、俺はいつでも愉快な気分になれるんだよねぇ。本当、今でもキョロキョロと周りを不安げに目を泳がせるブスの顔を思い出すだけで、僕はとてもいい気分になるんだよね。なんていうか満たされた気持ちになれるんだよ」


 クルスの言葉が続くたびに、俺の握りしめた拳はミシミシと音を立て、血管が浮き出てくる。早朝から夕方まで。ただ一人の男を待ち続けたアリスの、あの健気な姿。その純粋な心を、こいつは玩具のように弄び、嘲笑し、そして今、再びその傷口に塩を塗り込んでいるのだ。


「小せぇ――」


 俺の口から、自分でも驚くほど掠れた、低い声が漏れた。


「はぁっ?!」


 クルスの顔が、一瞬にして怒りに引き攣る。


「お前は小せぇ男だ」


 俺は、クルスの目を真正面から射抜くように見据え、はっきりと、そう言い放った。



「小さい……!? 勇者の僕が……ッ、小さいだと! おい……その言葉を今すぐ取り消せ!! だいたい……テメェは俺のアレをいつ見た!? いつ、覗き見たッッ!! それとも俺の身長のことか!? …………テメェは図体がデカイだけのデクノボウの木こりじゃねぇかあ。平民に触れると平民が伝染る。お前……さっきから思っていたけども、よくもそのブスの手をずーっと握っていられるよなぁ? 僕はそのブスに触れると平民が伝染るから触れなかったけど、木こりに盗まれるくらいなら、平民であってもブス相手にキスの一つくらいは特別にしてやってもよかったかなぁ……なんなら、今なら僕が特別に、平民にキスを下賜してやっても構わないんだぜ? おいブス、特別に許してやるから戻ってこいよ……僕のパーティーにさぁ」




 アリスの手を握る俺の視線が、クルスの言葉に氷点下の冷たさを帯びる。アリスへの底なしの侮辱、そして彼の歪んだ自己愛と独占欲。その全てが、俺の怒りの炎に油を注ぎ続ける。


 キス? 下賜? こいつは何を言っているんだ。そんな言葉で、アリスの心が動くとでも思っているのか。


「後生大事にアリスの恋文をずっと胸ポケットに入れ持ち歩いていたのか?」


 俺の静かな問いに、クルスの顔が凍り付いた。彼の瞳に、隠しきれない動揺が走る。


「……ッッッ!? あッんだからッ、どうだって、言うんだよアアあ?!!」


 クルスは、図星を突かれた獣のように、声を荒らげた。


「更に、わざわざ恋文の日の早朝から夕方まで待ち合わせ場所で、お前を待っていたアリスの姿をずーっと眺めているだけとは……。デクノボウという言葉はお前にそっくり返させてもらおうか」


 俺の言葉は、クルスの虚勢の鎧を剥ぎ取り、その卑小な本性を白日の下に晒した。彼は、アリスの純粋な恋心を弄んだだけではない。


 その健気な姿を遠くから眺め、己の歪んだ優越感に浸っていたのだ。そんな男が、アリスの心を語る資格など、どこにもない。


「そっ……それは!!……それは……僕がたまたま、公園の近くに用事があったんだよ、このクソボケが!!」


「一日中公園の監視とは。勇者とは聞きしに勝る多忙な職なのだな」


 俺の淡々とした追及に、クルスの顔は怒りと屈辱でみるみる赤黒く染まっていく。


「あんだ?!! 僕に向かって何が言いたいんだ!!! 木こりぃ!!!」


「幼馴染でありながら、キスはおろか……まだ手すら繋いだことがなかったとは……さすがの俺も驚いたぞ。お前は勇者ではない。だ」


 俺の最後の一言が、クルスの心の最も脆い部分を打ち砕いたのだろう。彼の顔は、怒りを通り越し、もはや屈辱と絶望の色に染まっていた。


「うるせぇ……うるせぇ……僕のアリスを盗んだ木こり、てめぇだけは許さねぇ。お前にはこの僕が直々に誅伐を下す。盗人に強引にさらわれた僕の女を連れ返す」


 クルスの口からは、もはや支離滅裂な言葉が、獣の咆哮のように迸る。誅伐? 盗人?


 彼の歪んだ認識の中では、アリスの心を理解しようとせず、ただ己の所有物として扱おうとすることこそが「正義」なのだろう。


「なら、どうする」


 俺は、クルスの狂気に満ちた挑発に、静かに、しかし確固たる意志を持って応じた。



「この場で僕がお前に誅を下す。平民の分際で勇者であるこの僕の所有物を盗み取ったその罪の重さを、その体で分からせてやるよ。今度は平民に有利な木剣なんかじゃない、本物の真剣で勝負だ。もしかしたら死んじゃうかもなぁ? 怖いか? ビビってんだろ? 木こりぃ……本当の戦いの怖さって奴をお前に教えてやるよ!!」



 クルスの目には、狂的な光が宿っていた。真剣での決闘。それは、どちらかの死を意味する。だが、俺の心に迷いは一片もなかった。アリスをここまで傷つけ、侮辱したクルスを、このまま生かしておくわけにはいかない。


「悪いが」俺は、静かに、しかし地の底から響くような声で告げる。


「なんだよ。木こり、ビビってんのか……今ならさぁ……特別に、間男のように無理やり嫌がるアリスを連れ去った罪を……を返してくれるだけで……超特別にお前のことを許してやってもいいんだぜぇ? お前とも一応は幼馴染だもんなぁ、器の大きい僕の特別サービスだ。


 木剣とは違うぞ、真剣だ。怖いだろ。へへへ……えぇっ?!……お前……ブルってんだろ?! 木こりぃ」


 クルスの言葉は、どこまでも俺を、そして何よりもアリスを侮辱し続ける。だが、俺の心は、もはや怒りを通り越し、氷のような静けさと、揺るぎない決意に満たされていた。


 アリスの震える手が、俺の腕を掴む。その瞳には、恐怖と、そして俺への信頼が入り混じっている。


(ブルーノ……!ダメ、本物の剣なんて……。でも、あの人の言葉は、もうたくさん……)




「――――――斧は手加減ができない」




 俺は、貴族がするように白い手袋を投げつけるような洒落た真似はしない。ただ、汗と港町のゴミ捨て場の腐った魚の汁で湿った俺の手ぬぐいを、クルスのその歪んだ顔面に、力強く投げつけた。



 それは、木こりの、飾り気のない、しかし紛れもない決闘の合図だった。



 俺の怒りが、長年使い込んだ斧に宿り、クルスという腐りきった存在を、この世から断ち切るために、静かに、しかし確実に、その刃を研ぎ澄ませていた。

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