Zest

皐月満

第1話

 その事件についてのコナーの取材を快諾してくれたのは、とある香水店の老いた女主人だけだった。

 街外れに、隠れるように佇む寂れた香水店。煤けた外壁や曇ったガラス窓からは、街の噂に聞くかつての趨勢は窺い知ることができない。重たげなドアを開ければ、濃度の高い香水の匂いが押し寄せる。コナーのように慣れない人間にとっては、強い臭気に目が回りそうになる、そんな場所だった。

「この歳になって取材を受けるなんて、思ってもいなかったわ」

 カウンターの奥でグラスに何かを注ぎながら、老女は呟いた。

「この街じゃ、その話はタブーなのよ。みんなあの事件をとても恐れているから」

 グラスの底を、彼女はマドラーで掻き混ぜる。ガラス同士のぶつかり合う音が、甘く濃い匂いの中で涼やかだ。

「そのようですね。二日かけて街を廻りましたが、貴女以外に私の取材に応じてくれる方は誰一人いませんでしたよ」

 コナーはコートを脱ぎながらやれやれと肩を竦めた。半ば興味本位の取材とはいえ、列車で遠方からわざわざ取材に来た身としては、この収穫の少なさはあまりにこたえる。昔ながらの香水店に手当たり次第に取材を持ちかけたが、拒絶されなかったのはこの店だけだ。この老女が聞き取りに協力的なことだけが、コナーにとって唯一の救いといえる。

「それはお気の毒ねぇ。他所から来た人には、あまり居心地のいい街じゃないでしょうに」

「ええ……まあ」

 コナーは苦笑を浮かべ、背もたれに掛けたコートを一瞥した。二日の間着ていたコートには、この街特有の、煤けた、酷い臭いが染み付いてしまっている。覚悟はしていたが、この街の悪臭は想像以上だった。元凶は至るところに突き立った煙突だ。あれから吐き出される煙は、街の上空をどす黒く染め、街中を悉くくすませて、その上悪臭まで充満させている。濁りきった川や、不規則に並ぶひょろりとした電柱などの光景とも相まって、この街は猥雑で、不衛生で、無秩序に見えた。居心地など、貧民街スラムの方がいくらかまともかもしれないとさえコナーには感じられる。

「お待たせしたわね。これ、どうぞお飲みになって」

 老女がそう言うのと同時に、カウンターに大ぶりのグラスが現れた。先ほど注いでかき混ぜていたのは、どうやらレモネードだったらしい。苦味を含んだレモンの香りで、慣れない香水に霞んでいた脳が少しばかり晴れた気がする。酔いそうな臭気に圧されていたコナーには、素直にありがたい。

「今はこんなものしか出せないの。ごめんなさいね、こんなところで」

「十分です。お構いなく」

 コナーが腰掛けているのは香水店のカウンターの前だった。どうせお客は来ないからと、老女が椅子を用意してくれたのだ。古びたカウンターの上のレモネードは、その爽やかな色合いも手伝って、この店の中で妙に浮いている。

 コナーはグラスを取り上げると、レモネードに口をつけた。さっぱりとした酸味に続いて微かな苦味が残る。何か隠し味でも入っているのか、その辺りのレモネードより香りが良い。

「美味しいですね」

 率直な感想を述べると、老女は嬉しそうに微笑んだ。

「あら、本当? 嬉しいわ。レモネードは若い頃からよく作っていたのよ。老いてからは、人様にはあまりお出ししないようにしていたけれど」

「なぜです? 僕はレモネードは好んで飲みませんが、これは格別ですよ」

 コナーの言葉に、老女は一層笑みを深める。

「ありがとう。ほら、歳を取ると味覚と嗅覚はどうしても衰えてしまうじゃない。味が落ちているのではないかと思っていたの。でもよかった、私の感覚はまだ、お若い人にも通用するみたいだわ」

 言いながら彼女は、自らもカウンターの前に腰を下ろした。彼女も何か付けているのか、ほんの微かに別の香りがしたが、コナーには捉えきれなかった。

「では、始めましょう」

 コナーはグラスを置き、ポケットから愛用の手帳とペンを取り出す。この街に来てからほとんど触れることのなかった取材道具だ。いやが応にも気合が入る。

「そうねぇ。さて何から話したものかしら」

 老女は遠くを見つめるように目を細めた。懐古とも感傷とも取れない眼差しで、くすみきったガラスの外を眺める。

 しばしの沈黙の末、老女はゆっくりと語り始めた。

「──この街にはね、猫も杓子もみんなそろって香水を身に纏うのが常だった時代があるの。あの事件は、ちょうどその頃……」



 その日が、彼女にとって人生最大の事件の始まりであることは、そのときは誰も知らなかった。

 朝、街角の小さな家の二階で、マリーはいつもより少し早く目を覚ました。ベッドから這い出し、カーテンを開けて外を見る。開けたところで、部屋に爽やかな陽光が差し込むことはまずない。夜の間に曇ったガラス窓を手で撫でると、向こう側には普段通り、灰色の空とくすんだ街並み、すぐ間近には傾いた電柱が立っている。マリーの暮らすこの街の、生まれてから変わらない酷い景色だ。

 ここに住む人々は、滅多なことでは窓を開けない。代わりに、家々では香を焚いたり芳香の強い花を育てたりするのが慣習だった。街で生まれ育った人々にさえ、この悪臭は耐え難い。だからせめて家の中だけはと、どこの家でも部屋の“匂い”には敏感なのだ。

 マリーも例に漏れず、朝は香を焚く。小さな香炉に粒状の香を入れて火をつけると、しばらくしないうちに柑橘の匂いが部屋に広がる。朝は頭の冴える柑橘類をというのが彼女のルールだった。

 顔を洗い、着替えを済ませると、マリーは香を焚いたまま屋根裏部屋に向かう。そこは彼女の、“調香師マリー・アンベル”のアトリエだった。年季の入った戸棚や歩くと軋む床板、使い込んで鈍く光っている椅子、硬く閉ざされた天窓。この部屋の中は、そういうものの匂いで静まり返っている。無駄な匂いのしない、彼女にとっては誂え向きの場所だった。

 マリーは明かりをつけてアトリエの中でも日向──とは言っても陽は射さないが──の机の前に座り、昨夜まとめたレシピと試作品を机上に並べた。

 ──人を“解放”するような香水を。

 彼女に舞い込んだ依頼は、あまりに抽象的すぎるものだった。しかし突拍子のない話というわけではない。“解放”は、この街に住む人間なら、誰しも一度は渇望したことのある願いだからだ。

 薄暗い曇天と鼻が曲がるような匂い。無数の煙突に象徴された労働という枷、張り巡らされた電線の内側に詰め込まれる鬱屈。住民たちは皆、この煤けた街に縛りつけられるしかない理由を何かしら抱えている。職、家族、記憶、出生、ひょっとすると夢や野望も含まれているのかもしれないが、そういったものが彼らを捕らえてここに繋ぎ止めている。容易にこの街を捨てることのできない彼らからすれば、この日常からの解放は、望めど叶わない儚い夢なのだ。

 この街に現れた“香水”は、その呪いをひととき忘れさせてくれる魔法として受け入れられた。屋外は灰色の現実、悪臭に満ちた世界だった住民にとって、香水は非日常を纏い、悪臭を忘れるための魔法だ。この街のほとんどの人間がそれぞれに香水を使うのはこのためだった。この街において香水は解放の魔法であり、その香りにはどこまでも解放の感覚が望まれる。今回マリーに持ち込まれたこの依頼はつまり、この街の人々にとって至高の香水を調香してほしい、という難題なのである。

 机上に置いた小瓶は、中の僅かな液体を透かして電灯の影を机に落としている。薄い琥珀色の試作品には、“S6”というラベルが貼ってあった。マリーはきっちり閉めたその蓋を開けて、数滴を匂い紙ムエットに落とした。

 数ヶ月前、依頼が彼女のもとに持ち込まれたとき、マリーは迷うことなくそれを引き受けた。

 ──こういうのを待っていた。

 煤けくすんだ街に生まれ、幼少期から数多の香水に囲まれて育った彼女にとって、それは悲願だった。マリーもまた、自らの理想とする魔法を生み出すという呪いに取り憑かれていた一人だったからだ。しかし若くして名を上げ、今やそれなりに有名な中堅の調香師となっていた彼女は、安泰や名誉と引き換えに理想を追求する余裕を失っていた。そんな折にあってこの依頼は、彼女の秘めたる熱情をまさしく“解放”する、絶好の好機だったのだ。

 彼女は自分の持つ全てをその香水に注ぎ込み、最高傑作である“S6”を創り出した。そしてその日は、それを依頼元へ届ける運命の日なのだった。



「彼女の作った香水は、本物の魔法だったのよ」

 御伽噺でも語るように、老女は言った。コナーは記事に使えそうだと思い、その言葉も手帳に書き留める。

「“本物の魔法”ですか」

「そう……“本物の”ね」

 話し疲れたのか、老女は一度小さく息をついた。そして「おかわりはいかが?」と訊ねる。コナーのそばのグラスは、取材中に少しずつ飲んだせいで既に空になっていた。甘いものはあまり飲まないのだが、簡単に飲み干してしまった。強いレモンの香りのせいだろうか。

「褒めていただいたから、嬉しくなってしまって。まだお飲みになるかしら。お作りするわ」

「では、お言葉に甘えて」

 老女は奥へと戻っていき、しばらくして並々注いだレモネードを持って出てきた。カウンターに置かれたグラスから、再びレモンの香りが届けられる。コナーは軽くグラスを傾け、その香りを愉しんだ。心なしか、このレモネードのおかげで頭が冴えているような気がする。だとすれば、香水が“魔法”であるというのも無理な話ではないのかもしれない。

 そんなことを考えていると、老女がコナーの前に再び腰掛けた。コナーはペンを取り、居住まいを正す。

「ごめんなさいね、区切ってしまって。話を続けましょうか」

「お願いします」



 マリーはその香りを纏って依頼元へと赴いた。

 彼女に依頼をしたのは、大手の化粧品会社に勤めるシルヴィアという馴染みの相手だった。マリーとの取り引きは大抵彼女が受け持っており、無名の頃から目をかけていたこともあって、彼女はマリーの才能を信頼していた。

 訪れたマリーを、シルヴィアは期待の眼差しで出迎え、そして彼女から漂う香りに素早く気付いた。

 不思議な香りだわ、と彼女は言う。電気が走ったみたいにハッとしたわと。マリーはそれを聞いて微笑んだ。

 ──この香りは、人の深層を揺さぶる。

 完成した時からそんな予感があった。それが確信へと変わった瞬間だった。シルヴィアはマリーの付けている香水が彼女の新作だとすぐさま勘付き、歓声を上げた。

 “S6”の名で持ち込まれたそれは、事実本当に素晴らしい香水だった。マリー以上に長年携わってきたシルヴィアには、その異質さが強烈に感じられた。これは今までのどの香水とも違う。甘美でありながら爽やかで、何か刺激的な余韻を残すその香り。“解放”の魔法──至高の香水にふさわしいものだと、憚ることなくシルヴィアはそれを認めた。

 “S6”のレシピを受け取ったシルヴィアは、マリーに何か希望はないか訊ねた。瓶の形や香水に与える名前、宣伝文句キャッチコピーの要望だ。秘密主義のこの業界において、本来ならばそれらは会社側が決定することだが、シルヴィアは敢えてマリーに訊ねてみようと考えたのかもしれない。マリーは少し考えて、できるならその香水に“熱情”と名をつけてほしいと伝えた。

 数ヶ月の後、その香水は彼女の希望通り“熱情”の名で世に売り出された。美麗なガラス瓶に詰められて大大的に宣伝された琥珀色の魔法は、瞬く間に街を席巻する。街中に“熱情”の香りが溢れるまで、そう時間はかからなかった。“熱情”は驚異的な売り上げを見せ、至高の名を恣にした。マリーの名は一躍有名になり、彼女は“天才調香師マリー・アンベル”として、街で最も名誉ある調香師の座に昇り詰めた。

 “熱情”は紛れもなく本物の魔法だった。その香りは、人々の“熱情”を呼び醒まし、解放する。マリーの注いだ熱情が人々に伝播していくように、それは熱狂的な流行となっていった。



「熱情を呼び醒ます、とは?」

レモネードを飲み干して、コナーは訊ねた。老女は「言葉通りよ」と答える。

「熱情は、誰でも一つくらい持っているもの。誰かに愛されたいと思う熱情もあれば、マリーのように至高の香水を生み出したいという熱情もあるの。あの香水は、人の深いところに眠るそれぞれの熱情を“解放”するのよ」

 老女はそうすらすらと語った。

 熱情の解放。香水にそんな力が本当にあるのだろうか。いくら“本物の魔法”といえど、“熱情”は一つの香水に過ぎない。コナーは手帳に老女の言葉を書き留めて、末尾に疑問符を付した。

「なかなか信じられないご様子ねぇ」

 老女に笑われて、コナーは苦笑をこぼした。確かに彼女の話を聞く限り、これは少し誇張された物語のようにもとれた。普段であれば一笑に付して済ませていたかもしれない。だが今は、くだらないと考えるよりも彼女から聞けるだけのことを聞き出したいという欲求の方が勝っていた。

「たかが香水、とお思いでしょう」

「正直に言えば。しかしそうではないのですね」

「ええ。──レモネード、また持ってくるわね」

 老女が飲み干したグラスを持っていく。コナーは内心ありがたく思いながら、「すみません」と言った。

「信じられない話かもしれないわね。けれど、“熱情”の本当の魔力はここからなのよ」



 マリーがその一報を受けたのは、“熱情”が売り出されてひと月も経たないある夜のことだった。

 寝付く前に焚くラベンダーの香に火をつけたときだった。ドアを叩く音に呼び出されて、マリーは玄関のドアを開けた。悪臭が侵入するのに顔を顰めつつ相手を見上げると、そこには警官が立っていた。

 ──シルヴィア・エドワーズの不審死について、貴女に聞き取りをさせていただきたいのですが。

 それは、あまりに急な報せだった。

 シルヴィアは、“熱情”の熱狂的なファンの一人になってくれていた。売り出されたあの日以来、シルヴィアはいつ会っても“熱情”を纏って現れた。香水という品に対し、洗練された審美眼を持つ彼女がその香りを纏っていることが、マリーには一番の誇りだった。シルヴィアにとって“熱情”は、文字通り“至高の香水”だったのだろう。それがマリーの目指した境地であっただけに、調香師としてはこれ以上ない喜びだった。それなのに──。

 力の抜けて座り込んだマリーを相手に、警官は淡々と事実だけを告げた。朝、シルヴィアが寝室で倒れているのが家政婦によって見つけられた。目立った外傷はなく、死因は毒死と見られるという。

 ──何か思い当たるものは。

 訊ねられても、マリーは首を振るしかなかった。

 翌日、マリーはシルヴィアの家に呼び出された。彼女の寝室に足を踏み入れた瞬間、マリーの鼻腔に強い香りが押し寄せ、彼女は自分が呼び出された訳をそれとなく察した。

 その部屋の中には、“熱情”の香りが強く充満していた。カーテン、布製のシェード、スカーフ、ハンカチ……。香水を付けられる場所などいくらでもある。シルヴィアが部屋中に“熱情”を振り撒いていたのだと、マリーはすぐに悟った。

 刑事はマリーにシルヴィアの寝室を一通り見せた後、そのベッドの下に隠されていたという箱を彼女の前に置いた。

 ──彼女は“熱情”の愛用者だったそうですね。

 マリーは彼女がいつも“熱情”を使ってくれていたことを話した。刑事はやはりという表情で頷き、その箱を開けてマリーに見せた。

 そこには、“熱情”の瓶が十何本も詰め込まれていた。

 ──彼女の最近の金の使い方には、異常なものがあった。家政婦がそう証言しています。その注ぎ込み先が、これです。

 マリーは絶句したまま、びっしりと詰め込まれた瓶を見つめた。瓶は半数近くが空いており、空の瓶には蓋がされていなかった。香水はそう簡単に使い切れるようなものではない。ましてや、“熱情”は売り出してまだひと月も経っていないのだ。

 強く、近すぎる“熱情”の香りで頭の奥が痺れてくる。美しい花に刺が、香りの良い花に毒があるのと同じだ。香水も、強すぎては却って苛烈なものになってしまう。あのシルヴィアに限って、そんな当たり前の前提を忘れることがあろうとは。マリーは刑事に頼んで箱の蓋を閉めてもらった。調香師である手前、強すぎる匂いは仕事に支障をきたす。それに、嗅ぎすぎてはいけないと、シルヴィアの死が警告しているような気がした。

 刑事は箱を閉めて脇に除けると、再び事件について話し始めた。

 ──彼女の死因が毒死だということは、お聞きになられましたね。

 マリーは昨夜の警官の言葉を蘇らせ、そしてまさかと目を見開いた。

 マリーの予想は、不幸にも的中する。

 ──シルヴィア・エドワーズの死因は、香水の過剰摂取による中毒死です。

 家政婦が彼女を発見したとき、倒れたシルヴィアの側には何本もの“熱情”が落ちていたのだという。彼女の体内からは香水の主成分であるエタノールが高濃度で検出された。シルヴィアは“熱情”を飲んだのだ。

 ──どうしてそんなことが。

 マリーの問いに刑事は、貴女に分からないのなら我々にはお手上げなのだとかぶりを振った。

 一体何がシルヴィアを狂わせたのか、その時はまだはっきりしなかった。ただ、マリーはその時“熱情”が普通の“香水”ではないということに、薄々気付き始めていた。



 何杯目かのグラスが空になる。かなりの量のレモネードを飲んでいることに、コナーは自分でも不思議な気分になった。空になるとレモンの香りが恋しくなる。香水の臭気に耐えかねて、もう一杯、と欲してしまうのだ。

 老女は慣れたようにレモネードを注いで持ってきた。コナーは待ちきれずすぐに口をつける。老女は嫌な顔一つせず、コナーがレモネードを味わっている様子を満足そうに眺めていた。

「それが一番初めだったわ」

 コナーは口にレモネードを含んだまま、彼女の話す内容を逃すまいとペンを走らせる。

 マリー・アンベルが信頼を置く女性、シルヴィアの死。彼女が語ったように、シルヴィアは“香水”の魔力を十分知り尽くしていたはずだった。並の常識を弁えた人間であれば、香水に魅了されて“飲む”などということはあり得ない。まして香水に通じた彼女が、そんな不可解な死を遂げるというのはあまりに不自然だ。コナーは顎に手を当てて唸った。彼女を狂気に至らしめたそれが、まさか──。

「これはまだ始まりにすぎないの。魔法は暴走していくのよ」



 それから、“熱情”の魔力は目に見えて拡がり始めた。

 シルヴィアの死の一週間後、新聞には街の数名の女性の死が一面で取り沙汰された。死因は揃って中毒死──それも、亡骸の側には必ず“熱情”の瓶が転がっている。彼女たちの共通点は、“熱情”の熱狂的愛用者だということだった。シルヴィアだけではない。“熱情”が人々を殺し始めたのだ。

 それと並んで、街では犯罪が多発するようになった。放火に始まり、強盗、誘拐、果ては殺人まで、あらゆる犯罪があちらこちらで起こる。逮捕された犯人たちは、必ずと言っていいほど“熱情”の濃い香りを纏っていた。

 舞い込んでくるニュースを読むたび、マリーは恐ろしくなった。まさか、そんなはずはないと信じたかった。しかし紛れもない事実だったのだ。“熱情”が、人々を狂わせ始めているということは。

 マリーは、シルヴィアの死後“熱情”を身につけないようにしていた。それはシルヴィアの死を思い出させるから、だけではない。マリーにとって、“熱情”は愛する最高傑作だった。そこに詰まった自らの理想は、彼女の視界にその瓶が映るだけで熱情を掻き立てる。それは耐え難い誘惑だった。マリーは正気を保っているうちにと、“熱情”を戸棚の奥に仕舞い込み、いつもより多く香を焚いて“熱情”への欲求を紛らわした。産みの親が“熱情”に溺れるなどということは、あってはならなかった。

 しかし、ほとんどの愛用者はそうはいかない。マリーがまだ動揺の只中にいるうちにも、“熱情”は人々を侵していった。“熱情”は飛ぶように売れ続け、街は徐々に無法地帯へと化していく。それなのに、当局も販売社も“熱情”を禁止しようとはしなかった。彼らもまた、既に“熱情”の強すぎる魔法を受けてしまっていたからだ。

 “解放”の魔法は、本当に人々の熱情を解放してしまっていた。鬱屈とした灰色の街で抑制されざるを得なかった人々の熱情が、長くたわめられた分だけ跳ね返って惨事をもたらしたのだ。

 このままでは、恐ろしいことになる。

 住民たちの奥底に潜むものは、善美なものばかりではない。あの魔法は歪んだ殺人衝動まで強烈に喚び起こしてしまう。正気を保っている人々は懸念せずにはいられなかった。そしてその懸念は、暴力という形で顕在化することとなる。



「……シルヴィアの死について、私には思うところがあるのよ」

 一度口を閉ざして、老女はぽつりと呟いた。コナーは埋め尽くされたページをめくって、白紙に“シルヴィアの死”と記す。

「彼女もね、秘めたる熱情を抱えていたのではないかと思うの。“至高の香りを纏っていたい”というね。マリーにとってそうであったように、彼女にとって“熱情”は、彼女自身の理想の具現でもあったのよ。強い魔法によって解放された彼女の熱情は、シルヴィアにどこまでも“熱情”の香りを求めさせた。遂には体内に取り込みたいという狂気に取り憑かれるほどに……」

「香水を口にした女性たちは、皆そうだったと」

「全員がそうだったとは言わないわ。けれど間違いないのは、“熱情”の香りによって呼び醒まされたものが、その行為に至らしめたということ」

 老女の言った“本物の魔法”という言葉を、コナーは思い出した。強すぎる魔法が人々を“熱情の解放”という形で狂気に陥れる。これは確かに“魔法”というより他はない。だが、その内実は、解放を望んでいたはずの“呪い”に近い。皮肉なことだと浮かびかける嘲りめいた笑みを、コナーは当事者だった老女を前に、レモネードのグラスで隠した。

「それで、暴力というのは」

「一連の事件で最大の出来事よ。あの夜のことは今でもはっきり憶えているわ……。香水の工場が襲撃されたの。それも一人じゃない。大勢の手によってね」



 “熱情”の引き起こす魔法は、単に強烈な“解放”だけにとどまらなかった。

 それは深夜の出来事だった。その日もラベンダーを焚いて眠っていたマリーは、外が喧しいので眠りから覚めた。

 きっちり閉めたカーテンを少し開けると、闇に沈んでいるはずの煤けた世界が、赤く照らし出されていた。

 マリーは寝間着のまま、帽子を目深に被って外に飛び出した。いつもの悪臭は、何かの焼け焦げる匂いが混じって余計に酷くなっている。赤く染まった方角に視線を投げると、月光の射す隙も無いほど密に敷き詰められた曇天に、濛々と立ち上った黒煙が溶け出しているのが見えた。それは少女の頃からこの街の闇夜を知っているマリーにとっても異様な、不安を掻き立てるような光景だった。

 ──何の騒ぎです、これは。

 側にいた一人に訊ねると、彼は怯えたような表情で答えた。

 ──“熱情”のせいだ。狂人どもの仕業さ。遂に香水の工場を襲撃しやがったんだ!

 マリーは驚くより先に、反射的に顔を伏せた。その頃には、“調香師マリー・アンベル”の存在はとうに呪いの根源へと成り果てていた。

 “熱情”の愛用、それは既に“中毒”に侵されたことと同義になっていた。あの香水は、使うほどに逃れられなくなっていく。強すぎる魔法は阿片オピウムに変わってしまったのだ。しかし、マリーがそれに気づいた時には、街中に中毒患者が溢れかえっていた。

 街の香水店から、“熱情”は綺麗さっぱり姿を消している。中には、ドアが破られ、目につく限りの香水瓶が叩きつけられた惨状を呈する香水店まである。これは“解放”を渇望し、快楽に堕落した住民たちが争奪した結果だ。中毒になった人々は、これまでより過剰な“熱情”を求める。それこそ、“摂取する”という行為に至るほどに。甘美な雫に飢えた人々はその夜、製造工場を襲撃したのだった。

 話を聞いて、マリーは家に駆け戻った。ドアに鍵をかけ、分厚いカーテンを全て閉ざす。ただ一つ、自分を落ち着かせるためだけに香を焚き、彼女は息を潜めるように闇の中で目を閉じた。

 この惨状が自分の熱情によってもたらされたとは、考えたくなかった。自分はただ、持てる限りの全てを“S6”の小瓶に注ぎ込んだだけだったのだ。煙突と電線と悪臭に囲まれ、呪われた日常から“解放”されるために。自らの理想とする“至高の香水”を、この世に生み出したかった。ただそれだけだというのに──。

 自分が襲われるのも時間の問題だと、マリーは思った。それは狂気に侵された人々かもしれないし、正気を保ったままの人々かもしれない。もはや相手は誰でも同じだ。

 “調香師マリー・アンベル”としてこの街にいることは、もう不可能だった。

 翌朝、世が明ける前。彼女は戸棚の奥に仕舞い込んであった“熱情”の瓶を取り出し、床に叩きつけた。琥珀色の魔法はガラス片と共に床に飛散し、舞い上がった“熱情”の香りがマリーの胸を刺した。彼女は香を焚くのに使っていたマッチを擦り、その小さな炎を“熱情”に落とした。火はエタノールに引火して一瞬で燃え上がる。この街の“魔法”はよく燃えた。マリーの全てだった小さな家とアトリエは、その日の昼には黒く焼け落ちていた。



「襲撃の火事と彼女の失踪で、“熱情”のレシピはこの世から失われたわ。街を侵していた狂気は少しずつ薄れていった。長い時間をかけてね。そうしてようやく、事件は収斂していったの」

 それが、老女の語った事件の顛末だった。

 五十年前、この街で起きた幻の香水を巡る事件。“熱情”と名付けられていたというそれは、この世には既に存在しない。他所者のコナーにとっては、取材するまであらましすら謎に満ちていた凶事だった。事件の詳細もマリー・アンベルの行方も、今のこの街では禁句になっている。それだけ“熱情”の魔力は凄まじかった、ということだ。

 コナーはメモをし終えてペンを置いた。わずかに残ったレモネードから、強く甘い香りが漂ってくる。コナーはグラスを取り上げ、何度目か分からない最後の一口を飲み干した。

 コナーはグラスをカウンターに戻すと、一度も名乗ることの無かった老女に向かって微笑んだ。

「取材へのご協力、感謝します。──とても美味しいレモネードでしたよ、“ミズ・アンベル”」

 コナーの言葉に、目の前の老女──老いたマリー・アンベルの顔からすっと表情が消え……そしてその唇に、これまでは決して見せなかった不敵な笑みが浮かんだ。

「あら。お気づきになってらしたのね」

 コナーは「ええ」と鋭敏な青年らしく自信ありげに頷いた。

「貴女の話はあまりに詳しすぎた。アトリエから見える細かな景色など、マリー以外に知っているはずがない。家を燃やす工程もね。すぐに気づきましたよ」

「まあ、勘の良い記者さんだこと。──それで?」

 老いたマリーは、若い女性がそうするように頬杖をついて身を乗り出した。

「知って、どうするおつもりかしら?」

 コナーはゲームを詰めていくような興奮を覚えながら、「話が早くて助かりますよ」と笑った。

「貴女はこの街では“マリー・アンベル”として生きることなどできない。貴女が初めに仰った言葉を借りるなら、貴女の存在はタブーだ。そうですね?」

 マリーは笑って答えない。コナーは彼女としばし視線を合わせた後、勝利を確信した表情で彼女に決定打を突きつけた。

「僕への口止め料なら、“熱情”のレシピが妥当でしょう。最高傑作として愛した香水だ、貴女なら詳細な配合まで、事細かに記憶しているはずですが」

「……ええ、記憶していますとも」

 マリーは一層笑みを深くした。まるで賭けでも楽しんでいるような、そんな笑みだ。

「けれど、私がわざわざ教えるまでもないのではないかしら? 貴方はもうその成分を知っているんですもの」

 マリーの瞳が、空いたグラスに向けられた。妙に香りの良いレモネードが、何度も注がれたグラスに。

 痺れるような予感が過ぎる。コナーは目を見開いた。

「言ったでしょう。“熱情”は“解放”するのよ。貴方の深いところにある熱情をね」

 コナーの脳裏にレモネードの香りが蘇る。爽やかなレモンの濃い匂いと、甘さに絡んだ酸味と苦味。コナーは、“熱情”の香調ノートを知らない。だがもし、あの香りが──。

 マリーは続けた。

「素晴らしい熱情だったわ、若い記者さん。好奇心旺盛なのは、記者にとって最高の素質よ。貴方は根っからの記者だった。けれど残念。熱情に溺れて、自分の身が侵されていることにも気づかないなんて」

 目の焦点が合わなくなり始める。コナーはペンに手を伸ばしたが、マリーがそれを取り上げて床に捨てた。カウンターの内側から、落ちたペンが跳ねる音がした。

 にっこりと、マリーは笑った。

「最後に一つ、いいことを教えてあげましょう。私がなぜ、シルヴィアに“熱情”という名を希望したのか」

 まるで図ったように、意識が混濁し始める。激しい目眩に襲われ、コナーはカウンターに手をついた。息ができない。酷い動悸に、耳の奥で血が流れる音がする。

 マリーはその様子を見下ろしながら愉しげに、最後の秘密を明かした。

「それはね、“S6”がレモンの香りだったからよ。まさにそのレモネードのような、ね。ところで記者さん、レモンの果実の花言葉はご存知かしら。答えは──」

 “熱情ゼスト”よ、というマリーの言葉を最後に、コナーの意識は途切れた。

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Zest 皐月満 @enrai_no15

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