第39話
ヴェーチェルはそれ以上何も言わずに、ただ困ったように微笑んだ。エレオスは諦めたのかそれを見ても何も言うことなく、図書館の床に大きめの転位の魔法陣を描き始めた。
絵のように、図形同士を重ねたり隣り合わせたり、さらにもっと小さな図形を先に描いていたそれの中に描きこんだり、と。
「不思議だよね。ただの図形の集合体を、君が描くとそれは見事な魔法陣になる。僕が描いても同じように発動するのか、何か条件がいるのか、興味深いな……」
「描けば何かしらの反応はあるだろうが、お前じゃ発動はしないかもしれん。こういうタイプの魔法を発動させるには、魔力の循環させるものがないといけないだよ」
言いつつエレオス左手の手袋を外し、手のひらの魔法陣を露にした。それを魔法陣に、もう一方では開いた教典のあるページの紋様ゆっくりとなぞる。
「
瞬間、エレオスの左手が光を放つ。否、左手の魔法陣から生じた光は魔法陣の外円を、まるで字をなぞるように走っていく。それが中心に達すると、今度はそこに小さな渦が現れた。エレオスはそこでやっと安堵したように深く息をはく。
「つながったか。よし、そこに立てヴェーツ」
「ねぇレオ。それ、僕も欲しいなぁ。教会に行けば刻んでもらえる?」
「馬鹿言うな。神職限定だ、これは」
「ふふ、それは残念だ」
答えはある程度予想していたらしいが、ヴェーチェルは心底残念そうに言う。のみ終えたキセルをしまって、軽い足取りで魔法陣に進む。
「とりあえず、向こう行ったら何でもいいから影に入れよ」
魔力で作ったカラスを通じて感じた目を焼かれるような痛み。分身体ではなく、生身で挑むヴェーチェルへのダメージは計り知れない。
魔法陣の中心に立ったヴェーチェルの髪が魔力の奔流でフワリと舞う。
「わかってるって。もう、心配性なんだから。いいから、早くして?ジズが《ローゼラ》の匂いをかぎとって戻ってきちゃうでしょ?」
「うるせぇな。さっさと目ぇ閉じろ」
ーー
魔法陣が一際眩しく光り出す。ヴェーチェルは深呼吸をし、静かに目を閉じた。
暗い。
閉ざしたまぶたを透かして感じる外の様子、覚悟していたほどの眩しさはない。
「着いた、みたい……?」
《よし、じゃあ影に潜れ》
「ちょっと待って。なんだか様子が変だ」
続けて飛んでくるエレオスの怒号を黙殺し、ヴェーチェルは覚悟を決めて目を開ける。
心地のよい静けさであった。どこかから鈴のような音色がするが周囲に人影はない。灯りはないのにほんのりと明るいはなぜかと見上げれば、崩落したとおぼしき固い岩盤の天井から何か白い光が差し込んでいる。あれはエレオスのカラスではない。そう思った矢先、見慣れた光の塊がヴェーチェルの肩に舞い降りた。
《おい!さっさと影潜れ!ガスが充満してたらどうすんだ!》
カラスの口からエレオスの声が発せられる。
「……いや、むしろ呼吸はとっても楽だよ、レオ」
ヴェーチェルは膝を深く曲げると、次の瞬間、地面を強く蹴って中空に跳び上がった。途中、岩壁に足をかけては強く蹴り、さらに上へ上へと行く。
「うーん、遠いなぁ……」
せり出した岩の上に器用に着地し天を仰ぐ。白く丸い何かが光を放っているようだが、あれはなんだろうか。
ーーまてよ、ずっと前に図書館で読んだ本で見た。名前はたしか……。
「月……?」
《ツキ? それは地上で見られるというやつか?》
「そうそう。あれがそうなのかな? もっと近くで見たいけど、相当上まで行かないと駄目だなぁ」
レオなら飛んで行けるね!いいなぁ。と続けるヴェーチェルをエレオスの使役するカラスが強めに小突いた。
《……行きたいとか言うんじゃねぇぞ?》
「いや、それはさすがに我慢するさ。行けそうだけどね」
第一廻廊付近にあるここ《温室》から地上までの距離は、月の光の射し込み具合から察するに恐らくそう長いものではないはずだ。だが、今回の探索の目的は地上へ行くことではない。
「はぁ、ここまで昇ったのになぁ」
ヴェーチェルはわざとらしくため息をついてから、足場にしていた岩を蹴る。勢いは殺すことなく風を切りながら下へ下へ。そして地面に足がつくギリギリのところで……。
とぷんーー。
影に身を沈めて着地の衝撃をなかったことにして、再び影から外へ出る。
「ここまで動き回っても息苦しさはない。ガスはなさそうだね」
《そーかよ。ローゼラのおかげじゃねぇことを祈ってるぜ》
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