私訳 祝総斌『劉裕家門考』

 趙翼は『二十二史箚記』にて論じている。

「江左の皇帝は低家門の出身である。劉裕とて京口で生まれ、若い頃には自ら川辺で芝刈りに勤しみ、また刁逵より負債を負い、捕まりすらしている。どれだけ寒貧の身であったかがうかがえようものではないか」

 趙翼は別箇所でも「素族とは士族と対置され、要は庶民であることを指す」と語り、しかもこの論はこれまでの史学界ではあまり批判を受けてこなかった。

 これに対し、陳寅恪先生は早期の段階で「劉裕の家門は次等士族と呼べる」といった点を始めとした反論を示された。未だ本論文にて具体的な論証は提出できてはいないのだが、私はこちらの説のほうが真実に近いと思われる。ただし「次等士族」と言うよりは「低級士族」としたほうが、いささか実態に近いのではないか、と考えるのである。

 宋書一巻『武帝本紀上』にて、劉裕は「漢の高帝の弟にして楚に封じられた王、劉交(諡は元)の子孫」と記載され、以降の子孫の系譜と官吏が劉裕の代に至るまで列挙されている。 歴史書にはこれらの系譜や公職に関する証拠がない。このため王鳴盛氏は「まるで信頼はしきれない」と述べ、おそらく当時の史官であった徐爰らが劉裕の価値を高めるために捏造したのだ、と述べた。

 ただし、この捏造は西晋末の渡江前までの状況に限定されており、劉裕の曽祖父、劉混が渡河して京口に住んだ事以降については、完全に棄却することはできない。というのも、それを裏付ける、比較的信頼するに足る歴史的データがある。これらに基づき劉裕の家門とその姻戚について順番に調べると、以下のように官位を導き出せるのである。


劉氏。

 曾祖父の劉混は武原令に。

 祖父の劉靖は東安太守。

 父の劉翹は郡功曹。

劉裕の又従兄弟に当たる劉遵考は、

 曾祖父の劉淳が正員郎。

 祖父の劉岩が海西令。

 父の劉涓子が彭城内史である。


生母、趙安宗の家門。

 祖父の趙彪が治書侍御史。

 父の趙裔が平原太守。

継母、蕭文寿の家門。

 祖父の蕭亮が侍御史。

 父の蕭卓が洮陽令。

立身前の劉裕を支えた妻、臧愛親の家門。

 祖父が臧汪、尚書郎。

 父が臧儁、郡功曹。

 兄が臧燾、国学助教,臨沂令。


 これらの役職は大きく3つに分けられる。

 1、行政長官(太守、内史、県令)。

 2、地方で直接採用される役人。

 3、中央の官吏、学者。

 ここで視点を変え、史書上にてどのような人物がこれらの官職についていたのかを確認しよう。

 


◯これらの官職に就いていた家門は?



1 行政長官(太守、内史、県令)


 東晋では、県令や郡太守はほぼ士族が代々独占していた。理由は簡単で、そうした人士に統治させて民より資源を吸い上げ、建康に送り込めれば、中央官吏がいよいよ肥え太る、というわけである。

 たとえば 『晋書』巻 90「良吏・鄧攸伝」にはこうある。「呉郡太守であった鄧攸が病を得て辞職した。当時太守辞任の際には郡府が送り出し費として数百万銭を供出するのが習わしであったが、鄧攸は一銭も受け取らなかった」と。また『晋書』巻78「孔愉伝」でも、孔愉が会稽内史を解職となった際に供出された金を一切受け取らなかった、と記される。これら 2 つは金銭を受け取らなかった例が極めて稀であったため、史書に記載されたのである。ならば通常はこのようだったのだろう。「この莫大な収入を掴むために、上級貴族が郡県の長の官位を得るべく様々に謀をした」と。


 東晋王朝の一流の貴族である琅邪の王導には6人の息子がおり、早世した2人を除いて全員が郡の役職に就いていた。王恬は魏郡太守、王洽は呉郡内史、王劭は東陽太守、王薈は呉郡内史であった。

『晋書』巻92「李充伝」にて、李充は江夏の名門李家に生まれた。ここで「家が貧しかったので家計のため中央勤務を離れ、外鎮赴任を選んだ。この頃北府軍を統括していた褚裒は李充を県令につけようと考え、面接をした。すると李充は『追い詰められた猿が森に逃げ込もうというときに、いちいちなんの木かなぞと選んではおれませぬ』と答え、剡県令に任ぜられた」と書かれる。ここで李充の発言の意図を拾えば、県令程度では自身の家門に傷をつけることになるが、日銭を得るためにはそれでも願い出ざるを得ない、と言ったのである。

『晋書』巻82「孫盛伝」にて、孫盛は名家太原孫氏に生まれたが、「家が貧しく親も年老いていたため、小さな村でも構わないからと官職を求め、瀏陽令に任じられた」と書かれる。後に長沙太守となると「金貸しで大いに貨殖し、さらに賄賂も取り立てた」と書かれる。この件で一度収監こそされたが、最終的に無罪となった。


 特に注目すべきは『晋書』巻75の「王述伝」である。太原王氏は一流の名族だが、なおも「家は貧しく、面接を経て宛陵令となったが、おおいに贈賄を受け取って家具の修繕に充てた。やがて州よりの取調べを受ければ、その罪状が1,300にも及んだ」と書かれる。ただし時の丞相であった王導はこの罪を取り扱わず、ただ人を派遣して以降は廉節に務めるように、と勧告するのみであった。王述もまた「足れば自ずと止みましょう」と答えた。これは貧困問題さえ解決すれば贈賄など不要になる、と言ったのである。以降の王述は地方官として赴任すれば、そのずば抜けた清廉さでもって世間をあっと驚かせ、感服させたという。この事件は、東晋貴族らが「貧困」の名目の元であればが平然と汚職や収賄にも手を染めることを示しているが、一方で「世間があっと驚いた」と書かれている以上、王述のような、間に合えばすぐにやめる、という姿勢がいかに稀であったかも語る。汚職や贈収賄など、通常はずるずると続くものなのだから。

 東晋の時代に書かれた『抱朴子』は「百里篇」にて、西晋時代の県令選出の不公平感は極めて深刻で、「父や兄が高貴であれば、子や弟もまた家族の風聞に基づき選出される。また地位の高いもののひきあいにさえなっておれば、多少家格が低かろうと無能であろうと抜擢される」と指摘する。また、いざそうしたものが任地に赴任すれば「すぐさま収賄に手を染め、求めるは富の増殖のみ、あとは欲望の赴くままとなり、途中で思いとどまることもない」と書かれる。こうした風潮は、東晋時代にまで継続されたようである。


 郡県の長の椅子を独占するため、東晋時代の高門は公然と庶民の選出を制限さえした。 『晋書』巻76「王彪之伝」にて、琅邪王氏出身の王彪之は吏部尚書であったが、宰相の司馬昱より、秣陵令の曲安遠を句容令に、殿中侍御史の奚郎を湘東郡太守とするよう命じられたところ、断固として反対した。

「秣陵はたかだか三品の県でありますが、それでも殿下がかつて曲安遠を用いられた際、人々はにわかに騒然としたものにございました。句容は建康にもほど近きの三品の佳き地にございますれば、どうしてそんな地を占い師ごときが統治できましょうか! 湘東は遠方の小さき地ではございますが、 それでも統治に明るきものであるべき。評判では卜術を得意とする者が進んだと言っています。殿下がもし卑しい人物を抜擢されるのであれば、必ず人材を選んでいただきたいのです。朗のような者は、この選にふさわしい器ではありません。」

 東晋の大臣たちは多くが卜術を信じてこそいたが、卜術を行う者はほとんどが寒族出身であった。曲安遠や奚朗も例外ではない。ここからわかることは、郡や県の官職が寒族を完全に排除しているわけではないが、もし「人材を抜擢する」のでなければ、「評判が分かれる」という批判を受け、士族によって反対されることになるということだ。ここからも、一般的に郡や県の官職が士族によって占められることを示している。


 もちろん、ここで言われている「三品県」というのは、制度に基づいて三品の家柄が治めるべき県を指しており、三品以下の県には触れていない。

 東晋では、門閥制度の発展に伴い、三品は高品にあたるわけではなく、別に二品県があり、そこには二品に相当する士族が配置されていた。しかし、「三品の良い邑」という表現からすると、三品県もそれほど悪いわけではない。また秣陵や句容は一県の戸数が約5000であり、東晋南朝においてもあまり人口が多いとも言い切れない。このため三品以下の県が寒族を排除していたかどうかについて、さらに検討する必要がある。


『晋書』巻99「桓玄伝」には、こうある。

「学官を設置し、二品の子弟数百人を教育し養成した。」ここでの「二品」とは、門地二品を指している。この場合、三品以下の低級士族の子弟を加えると、その数はかなり膨大なものになるだろう。当時の東晋の全統治区には、約200の郡と約1000の県があり、その中でも二品県、三品県、大郡、近郡はさらに少なかった。

 また、制度によると、郡太守や県令の任期は六年とされていた。非常に長い期間であり、分配の緊張をさらに悪化させた。おそらくこの理由から、劉宋の孝武帝の時代には、六年任期が三年に変更され、後には三年すら維持できなくなったと言われている。『南史』巻77「恩幸・呂文顕伝」によれば、「晋宋の旧制では、宰相などの官職の任期は六年が限度だったが、近年では六年が長すぎるとされ、三年を期に『小満』と言われた。しかも官職の交替は三年という周期に従わず、前任者を送迎し、新任者を迎えるために役人が道中で疲弊した。」と記されている。

 このように、郡県の任期が短縮される前は、東晋では高級士族がその豊かなポストをなかなか争い取ることができず、次に良いポストを求めることが必然的な傾向となった。


『南史』「王鎮之伝」によると、王鎮之は琅邪王氏の出身で、「母親の老齢を理由に安成太守への任命を求めた…彼の息子のために安復令の職を求めた。」とある。安成は遠方の郡で、七つの県を管轄しており、劉宋時代の統治戸数は6116、 西晋時代の統治戸数は3000、東晋時代の折衷値で推測される統治戸数は約4558となる。彼が息子のために求めた安復令は安成郡に所属し、七つの県の平均をとると、統治戸数は651に相当する。


 ここで王述の例に戻れば、王述のしでかした大規模な賄賂問題で名を出した宛陵県は建康近くの宣城郡に属しながらも民戸数は少なく、劉宋の統治戸数は1012、西晋の統治戸数は2136、東晋の折衷値で計算すると1574となる。

 さらに、孫盛が歴任した長沙太守では、劉宋の統治下で七つの県を管轄し、統治戸数は5684であったが、求めた瀏陽県はこの郡に属し、七つの県の平均で計算すると統治戸数は812となる。西晋時代の長沙郡は人口が多く、十の県を管轄しており、統治戸数は33000、平均すると一つの県あたり統治戸数は3300となった。東晋時代の折衷値では、郡の統治戸数は19342であるため、県あたりにならせば2056に達していた。

 上述の郡や県は、秣陵や句容などの三品県と比較すると、戸数が大きく異なる。例えば、安成郡の戸数は4558で、秣陵や句容の各県の戸数5000よりも少ない。しかし、こうしたクラスに位置する郡や県であっても、高級士族はそのポストを狙い続け、独占を試みた。


 さらに、戸口数が少ない郡や県でも、高級士族はその支配を放棄していない。

 例えば、陳郡の謝尚は歴陽太守を務めた。歴陽郡の劉宋時代の統治戸数は3156、人口は19470であった。

 潁川の庾翼も西陽太守を歴任した。西陽郡の劉宋時代の統治戸数は2983、人口は16120である。

 譙郡の桓石虔は南頓太守を務めた。南頓郡の劉宋時代の統治戸数は526、人口は2365であった。

『通典』巻7「食貨七」には、宋孝武帝時代の統治区域全体で、約90万戸、468万人が統治されていたことが記録されている。当時、郡は238、県は1179で、平均して一県あたりの統治戸数は約760戸、人口は約4000人、一郡あたりは約4000戸、人口は約20000人に達していた。これに基づくと、上記の歴陽郡、西陽郡、南頓郡は平均値を下回っている。特に南頓郡が顕著である。もちろん、これは劉宋時代の数字ではあり、東晋から南朝初期にかけて南方の戸口数は増加しており、東晋時代の郡や県の戸口数はさらに少なかった可能性が高い。ならばこの分析には大きな誤差はないと考えられる。


 この見解が正しければ、東晋時代には、二品県や三品県、大郡、近郡だけでなく、貧しい地域や辺境の戸口が少ない郡や県も高級士族の手に落ちていたことがわかる。そこに加えて多くの低級士族がそのポストを争っていたことを考慮すれば、三品以下の県、さらには非常に低いレベルの県でも、庶族がその支配に食い込むことは非常に難しかったと推測できる。


 では、劉裕の親族及び姻戚のついた各郡県の規模はどうであったか。

 武原令→南彭城郡。郡は12の県を管轄し、統治戸数は11758、人口68163。したがって、各県の統治戸数は980、人口5680。

 東安太守→3県を管轄し、統治戸数は1285、人口10755。

 海西令→臨淮郡。郡は7つの県を管轄し、統治戸数は3711、人口22886。したがって、各県の統治戸数は530、人口3269。

 彭城内史→5県を管轄し、統治戸数は8627、人口41231。

 平原太守→8県を管轄し、統治戸数は5913、人口29267。

 洮陽令→零陵郡。郡は7つの県を管轄し、統治戸数は3828、人口64828。したがって、各県の統治戸数は547、人口9261。

 臨沂令→南琅邪郡。郡は2県を管轄し、統治戸数は2789、人口18697。したがって、各県の統治戸数は1394、人口9348。


 これらは劉宋の統計であり、東晋の数字はおそらくこれより少ないと考えられる。これに基づき、以下の結論が導かれるだろう。

1.

 これらの数字は、前述の晋宋の郡県平均戸口数と比較して、一部は下回っており(東安太守、海西令、洮陽令)、一部は上回っている(武原令、彭城内史、平原太守、臨沂令)。これらは高級士族が「屈して」管理した郡県と似たような数字であり、これにより、劉裕及びその姻戚は一般的に庶族ではないと考えられる。

2.

 劉裕及びその婚姻家族には、三代にわたって、呉や会稽のような大郡(戸数約50000)を統治した人物は一人もおらず、さらに万戸以上の郡を統治した者もおらず、彼らが治めた県の戸数も三品県(秣陵、句容など)のような大きな県と比べると遥かに少ない。ならば、彼らは一般的に高級士族でないことが示唆される。



2 郡功曹


 郡功曹は「選挙を主導する」役職で、曹魏時代には「著名な士族から選ばれていた」とされている。ただしその後、いくつかの変化があった。洛陽の高貴な子弟は、三公や相国、将軍府の掾属としての道を選ぶことが多く、位が少し低い官吏の子弟や地方の豪族は郡功曹を入仕の重要な手段とした(『晋書』巻42「唐彬伝」や巻48「段灼伝」など)。また、出仕する郡本郡での任命は一種の特権とされていた。『晋書』巻51「束皙伝」では、束皙の祖父と父が二代続けて郡太守を務めたが、兄の束璆が三公の石鑒に逆らい、結果として州郡公府に任命されず、長らく出仕できなかったと記録されている。このことは、郡職や郡功曹が当時いかに名誉ある役職であったかを示す。


 東晋では郡功曹の地位が次第に低下したようである。北方の有名な士族、例えば琅邪王氏、太原王氏、陳郡謝氏、陳郡袁氏、潁川庾氏、譙国桓氏、高平郗氏などは、郡職に従事する子弟がいなかった。これは、北方の士族が江南に移住した際、土断以前では地方との関係が薄かったことが影響している可能性もあるが、どちらかと言えば郡吏の地位が低下したため、郡吏に就こうとしなかったとも考えられる。そのため、土断後も北方の高級士族は郡職に就かず、江南の有名な士族たちも郡吏にはならなかった。彼らの多くは司徒、丞相、将軍府の掾属として仕官し、または佐著作郎、秘書郎に就任するか、最低でも州佐として仕官した。後の南朝では、州から出仕する人々は「士流」と見なされるようになったが、これはこの制度がさらに発展した結果だと考えられる。

 東晋では、高級士族のうちやや家格の下がる家門が郡職に仕官し続けたケースもある。例えば、会稽の虞預は県功曹および郡功曹を歴任した。会稽虞氏は南土の士族であり、北方の士族に比べてその位は低かったとされている。また同じように、呉郡の顧辟強も郡功曹を歴任したが、彼は顧栄、顧衆、顧和といった顕著な家系とは別系統であった。


 また、郡功曹は一般的に低級士族が担当し、寒族はあえて手を出さなかったと言われている。例えば、『宋書』巻91「孝義・呉逵伝」には「呉興人の呉逵が太守の王韶之より功曹史としての抜擢を受けたが、寒門であるという理由で功曹を固辞した」という記録がある。王韶之は二度呉興太守となっているが,そのうちの一度目は423年であり,劉裕が晋より禅譲を受けて3年後のことである。明らかにこの点は、東晋時代の風潮を反映している。もちろん「門寒」という表現は、低級士族や個別の高級士族にも当てはまる可能性もあるが、呉逵の「家はただ壁があるのみ、冬に覆い被さる毛布なく、昼は日雇い仕事に明け暮れ、夜は薪を刈り出し暖を取る」という困窮した状況を考慮すると、彼が言う「門寒」は、寒族の出身であることを示していると思われる。

 このため、劉裕およびその婚姻家族が郡功曹に就任していたという事実から、彼らは寒族ではなく、低級士族であったと考えるのが一般的といえる。



3 中央官職。

 ここではより劉裕の家門の性格が顕著となる。


 尚書郎。

 これは士族がほぼ独占した官職である。『顔氏家訓』「涉務篇」において、「晋朝南渡当時は優れて士族を借りたため、江南の高位者には才幹を持つ者が多く、尚書令・尚書僕射以下、尚書郎、中書舍人以上には、機要を掌握する者が多かった」と記されている。しかし事務が煩雑であるため、第一流の高門は次第に吏部郎以外の尚書郎を務めることを避けるようになった。

『晋書』巻75「王坦之伝」では、「尚書僕射の江虨より王坦之を尚書郎に任命したいと提案されたが、王坦之は言った。『江南に来てから、尚書郎は第二流のつく職に過ぎないのに、どうしてこのような役職に任命されるのか』と。江虨は提案を取り下げた」というエピソードがある。この事例は『世説新語・方正』第46条にも登場し、劉注によると「これにより、郎官は寒素の品位であることが分かる」と解釈されているが、実際には劉注の見解は誤りである。ここで言われる「第二人」とは、太原王氏のような有力な高門の子孫を指し、決して「寒素の品位」を意味するものではない。

『晋書』巻75「王国宝伝」には、「中興の膏腴の族(名門の家系)は吏部のみを担当し、他の曹郎には就かなかった」という言及がある。これも膏腴の族が一般的な高級士族と比較されていることを示しており、「寒素の品位」とは全く関係ないことを意味している。ただ東晋時代を通じて、王導の子孫たちや極少数の高門(例えば、太原の王湛より続く一門)を除いて、その他の高門(琅邪王氏や陳郡袁氏、潁川荀氏、呉郡顧氏、済陽蔡氏など)はみな尚書郎に任命されていた。その中でも、王彪之と荀伯子の事例が特に重要である。

『晋書』巻76「王彪之伝」では、王導とは別系の親族に当たる王彪之が、王導に言われた。「選官が汝を尚書郎に任命したいと言っている。汝は幸運にも王佐になれるのではないか?」と。王彪之は「官位の高低など計る必要もありません。その時その時に与えられた職務を全うするのみです。ましてや抜擢なぞ望みも致しませぬと答え、尚書郎になった。このことから、いわゆる「王佐」と呼ばれる官職らは確かに尚書郎よりも清貴であるとこそ言えるのだが、ただし王彪之は「超遷」、大抜擢を退け、尚書郎となることを良しとしたのである。しかも王彪之は単なる琅邪王氏ではなく、父の王彬は尚書右僕尚射、また本人も吏部尚書、尚書令と要職に上り詰め、謝安とともに朝政を司った、と書かれる人物であり、明らかに「寒素の品位」と呼びうる存在ではない。

『宋書』巻60「荀伯子伝」では、荀伯子が自らの家門を誇りに思い、王弘に「天下の膏粱と呼びうるのは、あなたと下官のみ。謝晦なぞ、物の数でもない」と語ってる。ここで王弘は王導のひ孫、謝晦は荀伯子の妻の弟で、謝安嫡流の血筋でこそなかったが、当時最も権勢を振るっていた。荀伯子は漢魏以来の名門、潁川荀氏の出身であり、六世にわたり、九人の公を輩出した家柄である。これに対して、陳郡謝氏は東晋中期頃より家門を高めてきた家柄であったため、謝晦を軽視する態度を示していた。それでも、荀伯子は尚書祠部郎に任命されていた。これもまた、尚書郎が高門でも軽視されることのない役職であったことを示している。


 正員郎。

 これは正員散騎侍郎のことを指し、員外散騎侍郎や通直散騎侍郎と比肩する官位である。東晋時代、この役職も一般的に士族が充任した。例えば、王導の息子である王洽や孫の王珉、潁川の庾亮の弟である庾懌、名臣高平の郗鑒の孫である郗恢などが任命された。また上で自らの家門を誇っていた荀伯子も「員外」散騎侍郎を務めている。『宋書』巻58「謝弘微伝」には、「晋の時代、国に封じられる名家出身のものは、出仕の際に多くが員外散騎侍郎に任命された」とある。これにより、この職は制度的に定着していたことがわかる。

 さらに、琅邪王氏の別の一門である王韶之も、「通直」散騎侍郎を務めたことがある。「員外」と「通直」の両者は「正員」に比べて格が低いとされる。これにより、正員郎は一般的に寒族が充任することはないことが分かる。このような官職は後に、散騎常侍と同様に、高門にとってあまり重視されなったが、それは劉宋以降のことであり、南斉までには正員郎が依然として士族によって任命される清官であったことを注意せねばならない。


 治書侍御史・侍御史。

 これらの官職は、尚書郎や正員郎とは異なり、東晋ではあまり重視されなかった。高級士族の中で、この職に就いたのは、渡江初期の陳郡の袁瑰を除いてほとんどおらず、他にはほとんど任命されずにいた。対して『晋書』王彪之伝によると、王彪之は寒族の曲安遠や奚朗を秣陵令、句容令、湘東太守に任命することに反対したが、これらを殿中侍御史に任命することには反対しなかったと記される。このことからも、治書侍御史や侍御史には寒族が任命されることが多かったとわかる。

 また『宋書』巻40「百官志下」によれば、治書侍御史は「魏晋以来、侍御史の所掌する諸曹を分掌しており、尚書二丞のような役職に相当する」と記されており、侍御史よりも地位が高かったことが示唆されている。さらに『梁書』巻50「文学・謝幾卿伝」には、尚書郎から治書侍御史に転任した人物について「旧郎官からこの職に転任した者は、世に『南奔』と呼ばれた。このため謝幾卿はおおいに失望し、多くの病を拗らせるようになり、まともに職務に戻れなくなる有様であった」と記載される。謝幾卿は高門である陳郡謝氏、かの謝霊運の曾孫であり、この職にはあまり積極的ではなかったものの、強く拒否することもなかった。このことから、袁瑰のケースは例外にするにして,東晋時代の治書侍御史は侍御史よりも少し高い地位にあり、おそらく低級士族によって任命されることが多かったと考えられる。


 助教。

『宋書』巻40「百官志下」や『通典』巻37「晋官品」に助教の記載はないが、『通典』巻38「魏官品」には助教が第8品に記載されており、おそらく晋代でも同様だったと考えられる。『南斉書』巻16「百官志」には、国学の「助教は南台御史に準じる」とあり、この職も高門には向かないと考えうる。しかし、これはおそらく劉宋以降の変化で、東晋ではそうではなかったようだ。『宋書』巻60「范泰伝」では、上表で「昔、中朝の助教は二品を用い…才能があれば定品に関わらず任命された…現在、職が暇で学問が優れている者は本官から任命され、門地二品にあたる奉朝請に助教を兼務させるべきだ」と記されている。これは、劉裕が晋より禅譲を受け2年後のことである。やはり東晋における状況を反映していると見るべきである。また上表文よりすれば、西晋において助教が二品のものを用いていたのが東晋に至って要求が下がるも、あくまで士族であることが求められていた,と見ることができる。このため范泰は奉朝請に助教を兼務させるべきであると主張したのであり、また奉朝請が東晋においても清貴の官位であったと言うこともできる。『晋書』巻24「職官志」には、「後に奉車、騎の二都尉が廃止され、唯一、附馬都尉が奉朝請を務めた」とある。具体例として、「名流として敬重された」と言われる劉惔(高門沛国劉氏出身)や、のちに東晋の大権を握った桓温(高門譙国桓氏出身)が奉朝請を務めた。両者とも皇帝の娘を娶っており、こうした人物にあてがわれる奉朝請が低い地位でなど当然あり得ない。

 とは言え『宋書』巻94「恩幸・阮佃夫伝附朱幼伝」には、「有能であったため、二品の地位に就き、奉朝請や南高平太守として任命された」とある。これもまた、門地二品と奉朝請を結びつける事例である。もちろん、朱幼が奉朝請としてこの官職を任されたのは時がずっと下った宋の明帝の時代である。『宋書』巻40「百官志下」には、「永初(劉裕の年号)以来、奉朝請は雑選であり、主に附馬都尉が任命されていた」と記されている。朱幼は貧しい家に生まれ、奉朝請に任命されたが、これは「選雑」の一例を示している。しかし、このことは、東晋時代の奉朝請が門地二品に相当する官職であったと認定するのに何ら問題はない。むしろ朱幼の例は、制度が劉宋時代においても基本的に変わらなかったことを証明している。ただし劉宋からは「選雑」が行われていたという点で違いは出てくるのだが。

 この見解が正しければ、奉朝請に兼ねる形となる助教の地位も、南台御史に相当するものではなくなる。そうでない場合に、門地二品の士族は決してその地位を受け入れなかったであろう。実際、范泰の記述からも、東晋の助教はおそらく門地三品またはそれ以下に格下げされ、門地二品の士族には不相応となっていたことがわかる。范泰は門地二品の子弟が助教として学問を敦促するために任命されるべきだと考え、奉朝請を兼任させる方法を提案したことになる。総じて言えることは、東晋時代の助教職は、一般的に寒族が任命されることはなかったということである。


 これまでの第三の官職である尚書郎、正員郎を考慮すると、劉裕およびその姻戚は寒族ではないことが推測できる。しかし治書侍御史、侍御史、助教について考えると、彼らは高門には属していなかった可能性が高く、おそらく低級士族に過ぎなかったと思われる。侍御史はその地位が低いため、寒族が任命されることが多かったが、これがちょうど劉裕とその姻戚の状況に合致する。



◯劉氏及び姻戚たちの立場


 蘭陵の蕭氏は、劉宋時代に帝室と通婚し、特に齊梁時代に皇族として高門に昇格したものの、東晋時代における社会的地位はまだ比較的低かった。『新唐書』巻7「宰相世系表」には、蕭氏の先祖は劉裕の継母の父である蕭卓にまでさかのぼることができ、後漢の蕭苞から9世代にわたって名位を伝えた者はいなかったと記されている。また『南史』巻15「劉瑀伝」には、劉瑀が宋初に御史中丞を務めた際、蕭恵開を「才も望もなく、勲も徳もない」と糾弾していたことが記されている。蕭恵開の祖父の蕭源之は劉裕の継母蕭文寿の弟であり、父親の蕭思話は外戚として早くから重んじられ、州刺史を12回、使持節や都督を9回歴任したが、それでも蕭恵開は「声望がない」と非難された。ここから、蕭氏は東晋時代において、劉氏よりもさらに低い士族であったと推測でき、時には侍御史に任命されることがあったのだと思われる。宋初に蕭氏の家門はようやく高まったが、社会的にはまだ広く認められてはおらず、劉瑀の糾弾もそのためである可能性がある。

 このことはまた、劉裕の家門が低級士族であったとはいえ、父親である劉翹が郡功曹に過ぎなかったことから、蕭文寿と結婚したさきにはさらに家格が下落していたのではないか、と思われる。


『宋書』巻41「蕭皇后伝」には次のように記されている。

「劉裕は若い頃、貧困で極端に質素な生活をしており、劉翹死亡の際、葬儀は簡素で多くの儀礼が欠けていた。劉裕の遺言によれば、すでに夫の死後長らくの時が流れている以上、太后を夫と合葬する必要はない、とされた」。晋代の貴族は通常合葬を行っていたのだが、劉裕が合葬を推奨しなかったのは、おそらく合葬の際に過去の貧しい状況が露呈することを避けたかったのであろう。

 後に蕭太后の遺命にて劉翹の墓所が興寧陵として祀られたが、このとき墓所内に別に墓室を設けることが許され、旧墓室に手を付けられることがなかった。これは劉裕の遺命にも矛盾しない。この事例は後世のことにこそなるが、劉氏の没落を示す一面ともなるだろう。そのため、劉裕の父親の時代、家格下落の関係から、自分よりも門地の低い女性と再婚した可能性がある。しかしこのことは、劉裕が低級士族出身であったという認識に影響を与えない。むしろその家門の特徴をよく示していると言える。

 もちろん、前述の三つの官職(侍御史を除く)は通常、士族が充任するものであり、寒族が任命されることは基本的にありえない。しかし、例えば王彪之の「人材は選ばれるべきだ」という例のように、寒族が抜擢を受けるような例外も存在する。東晋の史料において、こうした例外は決して珍しくない。とはいえ、劉裕の家門はそのような例外に当たり得ない。なぜなら、劉裕の家門ととその姻戚においては、この三つの官職に従事しているのが特定の一人ではなく、三代にわたって常にこの三つの官職を担っている。このような状況が例外であると言えるだろうか。


 また『宋書』巻55「臧燾伝」や『南斉書』巻53「傅琰伝」によると、劉裕の「外弟」(妹の夫)である北地人の傅弘仁は、「中表から昇進し、征虜将軍、南譙国太守、太常卿を歴任した」とある。傅弘仁の先祖や彼自身の劉裕が政権を握る前の状況については明らかではないが、彼が歴任した官職は門第の高い証拠にはならないものの、一般的に北地の傅氏は魏晋時代の士族であり、劉裕家族との婚姻関係を考慮すると、傅弘仁もまた士族の出身であり、劉裕家族の門第を証明する一つの側面であると推測できる。


 劉裕が寒族出身であるという最も大きな根拠は、彼が貧しかったことであり、その甚だしい例として草鞋をを売って生計を立て、それを人々から蔑まれていたことを挙げられている。しかし、貧困だけを理由に士族と庶族を区別することはできない。望族や士族であっても、何らかの特別な理由で一時的に生活が困窮することがあり、その例は魏晋南北朝時代においても決して少なくないのである。顕著な例として、曹魏の賈逵は「代々の著名姓でありながら、冬はしばしばズボンなしで過ごした」と言われ、西晋の高門である穎川の庾袞は、「父の諸兄らは皆栄えていたが、父一人だけが貧困を守り、自ら日銭稼ぎに回り,自給自足の生活をしていた……飢饉の時にはまともなスープにもありつけなくなった……」と書かれる。また東晋の高門で、皇帝の娘まで娶っている沛国の劉惔ですら「家が貧しく、芒を織って生計を立てていた」と書かれ、同じく、あの桓温にもまた父の桓彝の死後の状況として「家が貧しく、兄弟が少ない中で母親が病にかかり、羊を得ることができず、弟を質に出してなんとか食い繋いだ」と書かれる。高門琅邪王氏でも、王韶之伝にて「家が貧しく……三日絶食せねばならなかった」と書かれるのである。


『顔氏家訓』「涉務篇」によれば、「江南の朝士は、晋の中興に伴い、南渡して江南に落ち着き、八、九世に渡って力田を持たず、俸禄のみで生計を立てている者がほとんどであった」と記されている。ただ、この内容は必ずしもすべての士族には適用されない。たとえば琅邪王氏や陳郡謝氏は浙東で田庄を経営していたとされる。とはいえ江南の生産力(労働力を含む)にも限界があり、しかも南方の士族大地主がすでに広大な良田を占めていたことが制約となり、こうした状況は少数派であった。加えて、俸禄で生活を支えていたのであれば、早死や降官、失職を失うなどの理由で家庭の生活が困難になる可能性が常に存在していた。劉惔や桓温、王韶之といった人物がこの例に該当する。劉裕の先祖らは県令や太守を勤めていたのに、父親の劉翹の代にいたり郡功曹にまで落ち、貧困に陥ったことは劉惔らの場合と同様のケースと見ることができる。故に劉裕を貧困にて庶族であるとするのは根拠たり得ないのである。



◯高級士族と低級士族の区別


 最後にこの点を論じておこう。陳寅恪先生は、渡江した北方士族を上層、次等、下層士族に分け、劉裕を次等士族に分類された。しかし東晋の社会制度を見てみると、東晋末期まで士族はおそらく高級と低級、あるいは「高門」と「次門」の二等に分かれていた。

『宋書』巻83「宗越伝」によると、宗越は「もとは南陽の次門」と記されている。安北将軍の趙倫之が襄陽を治めた際、襄陽は多くの雑姓が住んでいた。このため趙倫之は長史の范覬之に命じ、家門高低の弁別をさせた。ここで范覬之は宗越を低く評価し、「役門」に分類した。趙倫之が襄陽に出鎮したのは東晋末のことであり、『宋書』巻46「趙倫之伝」にその事績が載る。宗越は趙倫之の赴任前までは次門に位置づけられていたところが、等級を下げられ役門とされた。これは寒族に落とされた、となるだろう。このため宗越は後に功績を立ててから次門への復帰を劉義隆に申し立てた。このとき高門入りまでを求めず、とはいえ役門のままで甘んじるわけにはいかない、としている。ならば次門と役門の間には明確な階級差がなく、ほぼ同じような地位であったことが分かる。これを基に、東晋の士族はおそらく「高門」と「次門」の二つに分けられ、劉裕の門第は低級士族に分類されるのが適切であると考えられるのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ガチ論考ごっこ 劉裕家格考 ヘツポツ斎 @s8ooo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ