第10話
固い握手を交わした後、神崎はネクタイを締めなおし鞄に手をかけた。
おそらく一樹との契約が成立したのでもうここには用はないのだろう。
家に帰るのか、仕事に行くのか、一樹みたいな人間を探しに行くかはわからないがまだ出ていかれては困る一樹は声をかける。
「まて。肝心の契約内容についてまだ聞いていない。」
この話の中でおそらくもっとも重要な点だ。
契約内容、それ次第ですべてが変わることもある。
だが、次に発せられた神崎の言葉は契約内容の説明でもなんでもなかった。
「それを知ってあなたはどうするのです?条件が悪かったら契約をやめますか?抑えきれない探究心が自分にも眠っているかもしれないと気づいた今、それを無視して元の生活に戻ることが、死という終わりを迎えることができますか?私と同類のあなたにはそんな行為、拷問以外の何物でもないんです。つまり、自分が何者かを知りたいと思ってしまった時点で、契約内容なんて意味をなさない。どんな内容だろうとあなたは飲むしかない、そうしないとあなたの欲は満たされないから。けど安心してください、悪いようにするつもりはありません。あなたは私のパートナーですから。」
(なるほどな、そう言われると確かにその通りだ。)
すでに抑えきれないなにかが一樹の腹の奥で蠢いているのは確かなのだ。
それは十分前にはなかったもの、だが今は確かに一樹の中にある。
それを生み出したのは紛れもなく目の前にいる神崎響叶だ。
生み出した、よりは気づかせた、というほうが正しいかもしれないが。
少なくとも神崎は一樹よりも一樹の人としての本質を知っていたのかもしれない。
初対面にも関わらずに、だ。
そしてふと、思う。
神崎という男はどこまで人の本質を見抜くことができるのだろう。
その疑問の真相のほどは計り知れないがこの男ならすべてを見抜くことができるかもしれない、赤の他人にそう思わせるほどの何かが神崎からはあふれ出ている事は確かだ。
そしてそのカリスマ的オーラは一樹の心に畏敬の念を抱かせるには充分すぎるほどに深く大きい。
「確かに関係ないな。ただ、一つだけ聞いておきたいことがある。あんたは俺を使って何をする気だ?」
「意外とせっかちなんですね、神崎さんって。それはおいおいお話しますから。とりあえず一樹さんは風邪を引かないうちに帰った方がいい。」
そう言い彼は笑みを見せる。
恍惚とした表情の中に一瞬だけ見せた刺すような視線が一樹を絡めとる。
その視線はとても静かだがすべてをたやすく貫きそうなほどに研ぎ澄まされ、一切の熱をもたない。
その目が全てを語っていた。
逆らえば、裏切れば容赦なく消すと。
たった数秒の出来事だが絶対的な主従関係を突き付けられた一瞬だった。
もう引き返せない。
自分は悪魔に魂を売ってしまったのだ。
そう気づいた時にはもう遅い。
一樹はウィスキーの入ったグラスを一気に空け覚悟を決める。
引き返せないのなら地獄だろうとどこまででも付いて行ってやる。
“新しい主と修羅の道に乾杯。”
もう一杯だけ飲んでから返えると神崎に告げ彼とはそこで別れた。
神崎が去ったあとも一樹は彼のいた席を見つめていた。
まるでそこに何か彼を示すものがあるかのように。
そして新たに運ばれてきたウイスキーをちびちびと飲む。
マスターに閉店と言われて我に返った一樹は慌てて時間を確認する。
するともう朝4時を迎えていた。
気が付かないうちにだいぶ長いしてしまったみたいだ。
いつ飲みほしたのかグラスは空っぽだ。
とりあえずマスターに謝り勘定をする。
だがマスターは特に怒っている様子もなく入った時と同じように無言のままおくりだしてくれる。
なんとなく、他のお店のようにうわべだけで接することのないマスターに店員以上の親近感を感じた。
神崎がこの店を行きつけにするのがわかったような気がした。
外に出ると雨はやんでいた。
入るときはあんなに恐ろしかった階段も光に向かって歩いているからか希望に向かっているかのような気持ちにさせられた。
入るときと出る時でこんなにも感じ方が違うのかと驚いた。
これも神崎のおかげなのか、一樹自身が変わったからなのかはわからないが。
また自分は光に向かって歩ける、そう思った事だけはまぎれもない一樹自身のことばだ。
これから先、神崎にすべて奪われたとしても、その結果一樹という人間が失われたとしても、今この瞬間だけはまぎれもなく自分自身の、自分だけの時間なのだと。
外に出ると昨夜の嵐が嘘のように青く澄んだ空がどこまでも広がっている。
その澄んだ空に背中を押されながら帰路に就く一樹の足取りは軽かった。
これから先、一樹の行く道に何が待ち受けているのかを知っているのはすでに終了した通話画面を見つめながら笑みを浮かべる“彼”だけだ。
迷彩変化 銀髪ウルフ @loupdargent
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